第32話
その光景は、もはや戦いというよりは一方的な蹂躙に近かった。
巨神タヂカラオが、ひしゃげた城門の残骸をただの一蹴りで粉砕し、岩山の砦の内部へと傲然と踏み込んだ。その一歩ごとに、頑強な石造りの床が爆発するように弾け飛び、地上の守備兵たちはその激しい震動だけで四方へと吹き飛ばされる。彼は武器を持たない。その巨大な拳こそが、天上の神が鋳造した最強の攻城兵器だった。
「逃げるな、不浄なる虫ども。我が掌の中で、塵となる栄誉を与えよう」
タヂカラオの不気味な三つの眼球が、イワレビコの姿を冷徹に捉えた。同時に、上空ではニギハヤヒが十枚の不気味な円盤――十種神宝を、美しい蓮の花のように展開させていた。
「タヂカラオ、余興は終わりだ。速やかに神殺しの者を処理し、この地の魂を回収する」
イワレビコは、黒鉄の義手の左の指先を一本ずつ確かめるように動かした。
ぎち、ぎち……。
義手の鉄の隙間から、黄金色の不浄な蒸気がしゅうしゅうと噴き出す。神具である十種神宝が放つ天上絶対の聖なる気配に、彼の海の血を吸った左腕が激しく拒絶反応を起こし、骨を焼くような激痛が走っていた。
「……ニニギ。生存者を、奥の隠し通路へ即座に誘導しろ」
「殿! ですが、こいつら二柱を同時に相手にするのは……!」
「行け。……俺が、こいつらの絶望の重さを引き受ける」
イワレビコが槍を掲げた瞬間、ニギハヤヒの背後から円盤が三枚、音もなく射出された。
――その名は「蛇比礼」。
円盤が通過した軌道上の空間が、捩じ切られた布のように歪み、イワレビコの視界の距離感が狂う。
「……ッ!」
イワレビコは、黒鉄の義手の左腕を前方へと真っ直ぐに突き出した。
――重圧・防壁。
義手から放たれた深海の圧倒的な水圧が、歪んだ空間を内側から強引に押し戻し、不可視の円盤の軌道を側方へと逸らす。
だが、その直後だった。
頭上から、太陽の光を完全に遮るような巨大な影が降り注いだ。タヂカラオの拳。それはただの物理打撃ではなかった。周囲の空気を極限まで圧縮し、凄まじい熱量へと変えた隕石の落下そのものだった。
――どおおおおおおおおんっ!!
砦の中心部が、その一撃だけで跡形もなく消滅した。激しい土煙が晴れた跡に残されたのは、深さ数丈の硝子化した穴。
イワレビコは、黒鉄の義手の左腕だけで、その巨拳の指先を正面から受け止めていた。義手の鋼の骨格が、タヂカラオの常軌を逸した筋力に耐えかねてめりめりと悲鳴を上げる。イワレビコの足元の地面は膝まで深く陥没し、全身の血管が破裂しそうなほどの莫大な負荷がその肉体にかかっていた。
「ほう。我が指の一突きを、その細い鉄の腕だけで支えるか。だが、死に損ないの王よ。支えるだけで、この圧倒的な差を前に何ができる?」
タヂカラオが、もう一方の巨大な拳を無慈悲に振り上げる。さらに、高空のニギハヤヒの残りの円盤が、イワレビコの完全な死角から絶対静止の光を収束させていた。
「……支えるだけだと……言った覚えは……ないぞ」
イワレビコの灰色の左目が、赤黒く変色し、狂おしく沸騰した。
彼はタヂカラオの巨拳に押し潰されながらも、右手に握られた天の沼矛を、あえて真下――自らの足元の石畳へと深く突き立てた。
「……ニギハヤヒ。お前の円盤は空気を切る。タヂカラオ。お前の拳は大地を砕く」
イワレビコの黒鉄の義手が、不吉な黄金色に発光し、どくどくと脈動を始めた。
「なら……この戦場の重力の法則を、根こそぎかき混ぜて狂わせれば……どうなると思う?」
――深淵覚醒・「浮獄」。
次の瞬間、岩山の砦を囲む全ての重力の向きが完全に反転した。
数十の巨岩の瓦礫が重力を失って一斉に空へと舞い上がり、タヂカラオの十丈を超える巨躯が、その莫大な自重に翻弄されて無様にバランスを崩す。空中のニギハヤヒもまた、予期せぬ引力の乱れによって十種神宝の制御を完全に失った。
混沌とする、無重力の修羅場。
だが、イワレビコだけは、天の沼矛の穂先を大地の霊脈に固定し、ただ一人、反転する地の上に毅然と足を着けていた。
「……一万の絶望をその肩に預かった王を……軽いと思うなよ」
イワレビコは、宙に無防備に浮き上がったタヂカラオの巨大な膝を見据え、折れた槍を鋭く構えた。




