輝き町友愛銀座商店街
10時20分。庭子は苦痛の中に座っていた。
「君ねえ、もうすぐ30だろ? 三十路だろ? なんで結婚しないの?
それにどう?この履歴!賑やかだねー女でこんな履歴見たことないよ。正直に持ってきたのはいいんだけどさ〜
恥じらいってもんがないんだよ。普通もうちょっと見栄えを考えるよねえ。これが私ですってふんぞりかえられてもねえ。性格わがまま? これねー 難しいねーもうあんたには僕付きの秘書になってもらうしか道、無いよ。
でも、僕付きの秘書になったら給料はいいよ。仕事も楽だし。会社の近くに社員緊急用のマンション借りてるんで、秘書になったらいつでも使っていいよ。なんなら越してきてもいい」
50代と思しき社長は、仕立ての良いジャケットの袖をシャツごと無造作に捲り上げていて、コーヒーカップを上から掴んで口に持って行く。椅子に座る時、立ち上がる時、小さく余計な動きを入れる。そしてゲスな言葉を吐き続けている。
「庭子、これからは言いたいことを堂々と言いなさいよ。もう背中を丸めて自分を守る庭子じゃないのよ」
庭子はしぐれの言葉を思い出していた。何度も、何度も。
「もしもーし。友利くん聞いてる?いい度胸じゃないか、社長の話を無視かい。それともなあに?昨夜の夜遊びでろくに寝てんないとかあ?」
庭子は勢いをつけて立ち上がると、横に並べられていた椅子を蹴り倒した。
「いい加減にしろーっ このドスケベのゲス野郎!! おっさんがさっきからやってんのはお前の愛人面接かっ
何が会社の近くのマンションに越してきてもいいだ。そのマンションはお前のラブホテルかっ 僕付きの秘書なら仕事は楽だし給料がいい?ふざけるなーーっ!!
庭子はありったけの大声で怒鳴ってやった。廊下にはあと3名ほど面接を受けに来た女性が座っていたし(3人ともかなりの美人だ)隣の仕切りの向こうには皮のソファが置かれて接客スペースになっているらしく、仕事関係と思しき男性が2人座っていて、接客中の女性がお茶を出しているところだった。
庭子は社長の手から履歴書を引ったくると、工六田印刷のドアをぶち破る勢いで開け外に出て行った。
社長は目玉を丸くして座っていたが、「ブスがっ!」の一言を口にして、ようやく自分を取り戻したのか「次っ」と怒りに満ちた声で呼んだ。
だが、ドアは開かず、横手のドアから男性社員が入ってきて
「みなさんお帰りになったようです」といった。
庭子は輝き町に戻ると、まだ治らない怒りに鼻息も荒く両腕を前後にぶんぶん振って歩いていた。
八百屋おやおやの前を通り過ぎた。この頃また八尾の姿が見えない。
八尾の庭子をからかう声がない。
でも八尾とは終わったのだもの。仕方がない。
大切にしたかった二人の仲を終わらせた自分が悔しい。
朝には今までとは違う環境に身を置いて新しい自分に出会うなんて胸がいくらか広がっていたのに
今はペシャンコだ。庭子は自分に腹が立って仕方がなかった。
庭子もしぐれに似て、怒ると目が細くなった。
「猪みたいに歩くなよ。人を跳ね飛ばしたらどうするんだ?」」
八尾が庭子の前に立った。
「やややや八尾くん」
「どうしたんだよ」
「・・・・うっ な何と言ったら・・今日は」
八尾はちょっと笑って「やっぱり庭子は面白いな」と言った。そして「来いよ」と庭子の肩をポンと叩いて八尾は歩き出した。
「どこへ?」
二人は家庭菜園を抜けて、その向こうにある小さな小川にやって来た。
すぐ横には竹藪があり、その中を通る小道を抜けていったところが、八尾の基地だったことを庭子は思い出していた。
「あの基地はどうなった?」
「もうないさ。マンションが建ってる」
「そう・・・」
「庭子ともう一度行きたかったな」
「うん」(ん!八尾くんが私を庭子と呼んだ?!)
「落ち着いたか?」
「うん」
「今日はどうしたんだよ」
「色々あって」
「何があった?」
八尾はいつもこんなふうに庭子に話しかけてくれたのだ。
「面接で椅子を蹴って怒鳴ってきた。社長がクズで」
「よくやった庭子。工六田印刷って、評判悪い会社だぜ」
「知ってるの?」
「ほら、同級生の和田美千代がちょっと勤めて、鬱になってやめた会社さ」
また庭子の胸に痛みが走った。八尾が他の女性の名前を口にするだけでこれだ。
「あの男と・・・結婚するのか?」八尾が聞いた。
「あの男って?」驚いて聞き返した庭子に
「ダーティの」
「あ〜〜〜〜あの人はしぐれおばちゃんの劇団の人」
「お前好きなんじゃないの?・・・随分親しそうだったし」
「キスされただけよ」
「うおおっ何だって?何だって?何だよ庭子、されただけって、どう言う状況だよ」
(あらら、見てたんじゃなかったの?)
「アイスコーヒーを持って来たついでに、チュッと」
「何を〜〜〜あいつ〜〜庭子は、それで庭子は」
「落ち着いてよ。や、八尾君だって、忘れられない恋人がいたじゃないの」
(もう別府くんなんて、どうなってもいい!)
「その人は病気で亡くなられて、八尾くんはその人のことが忘れられないんでしょう?」
八尾はキョトンとした。
「何の話?」
「えええええ〜〜〜? 八尾くんが三ヶ月店にいなかった時、彼女の病院に行ってたんだって」
「俺、茨城のじいちゃんの病院に行ってたんだぜ。ばあちゃんが早く亡くなっちゃったから、じいちゃん一人で暮らしてたんだ。それが骨折してさあ。この間母さんの妹がじいちゃんの面倒を見てくれるってことで、俺また茨城に・・・誰がそんな話を庭子に吹き込んだんだよ?」
「ひえ〜」
八尾は「別府、殺す!」と言った。
その時の庭子に、別府が殺されることに意義は無かった。
「そろそろ帰るわ」
立ち上がった庭子を後ろから八尾が抱きしめた。
「俺 ずっと」
八尾の身体が宙を舞って草の上に落ちた。庭子の見事な一本背負いが決まった。
しぐれおばちゃんと練習した甲斐があったのだ。
「ええ?」何が起こったのか解らない八尾。
庭子は草の上に横たわった八尾の体を押さえ込むと「八尾くん、今度は私の番よ」
八尾の耳に唇を寄せて「八尾くんが好き。好き好き好き。大好き」と囁くと、唇を八尾の唇に重ねた。八尾は庭子の体に両腕を回して抱き締めると、庭子の唇に答えた。
二人は抱き合ったままで、時の過ぎるのも気づかなかった。
シャンテランでは父親が妻を待っていた。
シャンテランのシェフがチラチラと父親を見ていた。
「お待ち合わせで?」
(何でシェフの目があんなに笑っているんだ?)
「まあ、そう言うことです」
「な〜る程」
(はあ? この男何を言いがいんだ?)
店に入って来たその人は、明るいグリーンのスーツを着て、何と大胆にもパープルの靴を履き、同じくパープルのバッグを持って、パープル系ピンクのコサージュを胸につけていた。ちょっと膨らんだ頬が少女のようにみせる。
「このお店を予約してくれてありがとう。雄一郎さん」
「か・・母さん、名前を呼ばれるのは、照れくさいぞ」なぜか父親はひそひそ声になった。
「今夜は、お父さんじゃなくて、雄一郎さんと一緒にいたいんです」
雄一郎さんは「ま、マスターわわわワインを」と、注文した。マスターがまた奇妙な目配せを送って来た。
雄一郎は気になって仕方がない。
ピアノが古い曲の演奏を始めた。
「雄一郎さん、この曲」
雄一郎も頷いた。
それは雄一郎がひさめに結婚を申し込んだ夜、二人で聞いたコルトレーンの曲だった。




