挿話 私と怪人、そして銭湯
昭和の日企画、秋月 忍さんの『月の湯へようこそ』と拙作が同じ時代を背景にしているのをいいことに銭湯に入りに行きました。
二次創作という扱いになるかと思いますが、作者の方と相談し、了承を得ております。
作中の「月の湯」、「月野千夏」、「谷崎徹」は『月の湯へようこそ』の舞台、および登場人物です。
あれはいつ頃のことだったろうか。確か、昭和50年前後のことだったと思う。華瑞荘には風呂が無かったので、私たちはもっぱら近所にある銭湯へ数日に一度は通っていた。秋も深くなり、夕風が少し寒く感じさえする日だった。
荘の面々にはそれぞれ好みとする銭湯があり、私は荘から最も近い鴨川湯という所を好んでいた。
しかしその日は武士崎と怪人に、少しばかり離れた月の湯へと連れていかれた。たまには付き合いたまえよと怪人に誘われたのだ。特に断る理由もなかったので二つ返事で私は同行を決めた。
「私は鴨川湯でじゅうぶんなのですが」
「あそこの番台は爺さんだろうが。
何しに行くんだよあんな所」
「風呂以外にありますか」
「お堅いヤツだなお前さんは」
「武士崎が柔らかすぎるのだよ」
そう言って怪人もけらけらと笑っていた。男三人で湯桶を抱えて歩くこと、実に二十と数分。鴨川湯ならば荘から五分もかからぬのに、何がこの人達を動かすのだろう。
月の湯に着いて、私はにわかに理解した。「いらっしゃい」と降り落ちる声は凛としていて、そちらを見上げてみれば美人という形容が正にあてはまる女性が番台に佇んでいた。間違いない。この人を目当てに武士崎はここへ来ているのだ。
「やあ、どうも」
怪人が手を挙げながら、しかし番台を一瞥することはなくするりと履物を脱いで脱衣所へと進んでいった。どうやら少しばかり見とれていたらしい私も慌てて怪人の後を追った。
番台といえばそれなりに年を重ねた人が座っている観念が私にはあった。するとあの人は銭湯の主の代理だろうか。物珍しさにあまり見るのも失礼だと、どことなく居住まい悪く私はそそくさと衣服を脱いだ。
「貴君、あの人は正真正銘、この月の湯の主だ。
見目麗しく器量よし。武士崎にとっては高嶺の華。
いや、まさに月に咲く華とでも言おうかな」
「私が考えていることを見透かさないでもらえますか」
この怪人はたまにこのようなことをする。年齢不詳のこの怪人はいったいどこからどこまでが冗談や法螺なのか私には一向に分からない。
「いやあ、私は天狗だからなあ。
これはもう、しょうがない」
「ほんとうにあなたは天狗が好きだなあ」
こうやって煙に巻かれるのもまた、いつものことだ。けして他の妖怪や怪物の類の名は出てこない。いつでも天狗を称することを怪人は好んでいた。
私たちが浴場への扉を開けようとする段になって、ようやく私は武士崎がいないことに気が付いた。振り返ってみれば、彼はまだ番台で番台主に話しかけている。どうしようもなく俗物だ、あの人は。
するとそこへちょうど、銭湯へと入ってきた男がいた。その男は武士崎と二言三言何か言い合っていたが、私は見た。見てしまった。
番台主が、入ってきた男を見るその視線は、どう捉えても客を見るそれではなかった。ご丁寧に、それを押し隠そうとする雰囲気まで見て取れる。その姿はまるで乙女のようであり、いっそう可憐に見えた。
「ああ、確かに月に咲く華とはよく言ったものですね」
「そうだろう。しかし武士崎は阿呆だからなあ」
私は武士崎に同情しようかとも思ったが、何の益にもならないと気付いたので大人しく風呂へ入ることにした。
○ ○ ○
背中を流していると頭から湯桶いっぱいの水を掛けられた。
すわ何事かと口をぱくぱくさせる私を見て、武士崎はけらけらと笑った。
「どうよ、ありゃあいい女だろう。
心も洗われるってもんよ」
隣で髪の毛をがしがし洗いながら、武士崎はその番台主――月野千夏と言うらしい女性の魅力を滔々と私に向かって説いた。
どう考えても叶わぬその慕情を私は不憫に思い、これ以上は聞くに堪えぬと持参していたシャンプーのノズルを武士崎の鼻の穴にねじ込んで一押ししたのち、私はサウナ室へと足を運んだ。牛蛙のような「ぐべぇッ」という声が聞こえたが、さして気にもならなかった。
サウナでは怪人が腕を組んで座っていた。目を閉じて静かに座っているが、確か彼は来るなりサウナに入っていったのではなかったか。浴室内で姿を見ていないので、ずっとここにいたということだろうか。
平気な顔をして怪人は座っている。汗一つ掻いていない。
「ずっとここにいるのですか」
「心頭滅却すれば、サウナもまたへ号室だ、貴君」
「では常にへ号室に籠っていればよろしいかと」
「つれないねえ。
武士崎と佐々川がキノコを生やすなと言うんだ。
湯あみを強制されているのだよ、私は」
「せめて湯船で心頭滅却すればよいのに」
他愛もない話をしていると、サウナ室のドアが開いた。武士崎かと思ってそちらを見れば、それは先ほど武士崎と番台で何事か言い合っていた男だった。
「やあ」
怪人がいつもの間延びした声で言う。男もそれに対して「おう」と返した。
「相変わらず素敵な大胸筋であるねえ」
「よせよ気持ち悪い」
男は笑った。確かに鍛えているであろうその肉体は、私のような貧乏大学生とは比べ物にならぬほどの男の魅力を醸し出していた。
「しかし千夏嬢に言われたら嬉しいだろう?」
「アンタはアイツじゃないだろうが」
そう言って男は怪人の向かいに座った。どうやらこの二人は顔見知りらしい。
「貴君、彼は谷崎と言う。消防士なのだよ」
なるほど、それ故の鍛えられた肉体か。私は得心した。少しばかり話をして、彼が番台の女性と幼馴染であることを知った。年齢を聞けば二十半ばだと言うので、二十歳を迎えたばかりの私からしてみれば、二人とも私より年上にあたる。確か武士崎も二十半ばだったと記憶しているので、この男性と武士崎もまた同年代であるようだ。
そこへ、武士崎がやってきた。そして彼は谷崎を見るなり「けっ」と言った。
「徹よお。いい加減、俺の邪魔すんのやめてくれよな」
「お前みたいな凡暗、千夏が相手しねえよ」
「あのなあ。幼馴染なのは知ってるがよ。
それとこれとは話が別だ。俺の恋路を邪魔してくれるな」
哀れ、武士崎。恋路を邪魔しているのはどう考えても武士崎である。しかし、当の本人はそんなことには気が付いてもいないようだった。
私は他人の恋の鞘当てを見るためにわざわざ遠い銭湯まで来たのだろうか。いや、番台の女性は確かに美しかったが。
「貴君ら、根競べでもしたまえよ」
唐突に怪人が言い放った。ああ、この人は完全に面白がっている。
「……別に勝負する理由もない」
それはそうだろう。どうやらこの谷崎という男は華瑞荘の面々と違って理知的であるようだ。
「あん、負けが怖いか? 火消しの兄ちゃんはよ」
「書生もどきに負ける理由もねえよ」
「よおし、じゃ勝負だ。負けたら後で一杯奢れや」
武士崎の妙な自信はどこから来るのだろう。着流しを着てぐうたらしている文章書きと、日夜あくせく働く消防士。勝負になるとでも思っているのだろうか。
直ぐに決着するかと思った勝負はしかし、予想に反して長引いた。
私は暑くなってきたので一度サウナから出てシャワーを浴びた。街中でよく耳にした尾崎紀世彦の唄を口ずさみながら湯船に浸かり、いざ出ようとする段になっても三人はまだサウナに籠もっていた。
一度は脱衣所に出たものの、気になって私は再び戻った。その時、倒れ込むように扉を開けて武士崎が転がり出てきた。案の定、負けである。
谷崎が肩を貸して脱衣所まで武士崎を連れて出た。
何事かと番台の女性が駆けてくる。
「徹、どうしたの」
「いや、その、根競べをだな」
「もう、馬鹿っ! こっちに座らせて!」
脱衣所の長椅子に座り、なおもぐんにゃりとしている武士崎を女性は団扇で扇いでくれた。
「ああ、極楽のようだ……。
負けるが勝ちってなあ、こういう事なんだろうなあ」
「そんな事だからいつまでたっても俗物なのだよ、武士崎」
「お前、ちゃんと後で一杯奢れよな」
「今それどころじゃないでしょう! 牛乳持ってきて、徹」
なるほど確かに気立てのいい女性である。そして言われるよりも前に飲料を取りに動いていたあたり、二人の間には長年連れ添っている者だけが持ち得る阿吽の呼吸のようなものを感じた。
これを見てもまだ付け入る隙ありと判断できるのならば、それはもう立派な阿呆である。
湯あたりした武士崎が元に戻るまでしばらく銭湯に居座り、外に出るころにはすっかり日も暮れて寒々しい夜だった。
帰りの道すがら私たちは酒場であれこれ飲み食いし、始終機嫌が良かった武士崎を憐憫の目で見ていたのである。
○ ○ ○
そして後日、あの二人が籍を入れるらしいという事を私は風の噂で聞いた。私はその話をイ号室の武士崎に伝えようか迷った挙句、やはり伝えようと部屋を訪れた。部屋では怪人と武士崎がタバコを吹かしていた。
「やっと行動に移しやがったかあの野郎はよ」
「知っていたのですか。あの二人が好き合っていることを」
武士崎は「けっ」と言ってタバコを吸った。
「分からん方がどうかしてらあ。
ま、末永く幸せにやってくれや」
武士崎はからからと笑った。怪人も笑っていた。
「よろしい。武士崎も立派に阿呆だ。
阿呆にそれなりの栄光あらんことを」
やはり、この人たちはどこまでいっても阿呆なのだ。これはもう、しょうがない。
他にも、谷崎家の営む古本屋に武士崎がよく出入りしているであるとか色々妄想が膨らみました。
武士崎と谷崎が顔見知りなのはきっとその辺りからだろうという事にしておきます。
楽しく書かせていただきました。
秋月さん、楽しい企画をありがとうございました!




