6、私と怪人、そして三億円
大学を卒業して、碌に当てもなくバイト生活をしていた私は特に目指すべきものなどなかった。
その日も喫茶店で珈琲を飲んで部屋に帰った。自室であるハ号室の扉を開けると、怪人が座ってLARKを吹かしていた。
「何か用事ですか」
怪人は神出鬼没である。私の部屋に我が物顔で座っていようとも特におかしなものだとは感じなかった。
「貴君、武士崎が煮詰まっているようだ。
からかいに行こう」
「またですか。もちろんお供しますとも」
私もこの頃になれば怪人やその他の華瑞荘の住人の扱い方にも慣れたもので、さらには日々に何か可笑しい刺激がないかとモラトリアムに浸って生きていた時期でもあった。
イ号室の扉を軽く打つと、中から呻き声と共に武士崎が叫んだ。
「ああ、くそう、書けねえ!
俺あもう駄目だ!ちくしょう」
「やあ、武士崎」
部屋に入るといつも以上に原稿用紙の屑が散らかっており、そのどれもにびっしりと文章が書かれていた。タバコは火がつけられたまま灰皿にあり、形を保ったまま灰と化していた。
「いっそ腹でも切っちまおうか。なあおい。
腹を切れば偉いんだろう。女と心中すりゃあ大作家先生だ」
どうやらいつも以上にやさぐれているらしかった。ほぼ吸い殻になったタバコを一息吸って、例によって畳の縁でぐりぐりと火を消した。
「そんなら、首でも吊れば世の中に俺あ認められるもんかなあ」
ぽつりと呟く武士崎に向かって私たちは言った。
「それを誰が見届けるのです。
化けて出たところで麻雀も打てないでしょう」
「女も抱けないだろうねえ。
それに、私は死んだ事がないから分からない」
「ああ、そうかい。薄情な奴らだ。
お前はいつも屁理屈ばかりだ! 屁理屈も理屈もいらん!
俺は金と女が欲しい。いいか、金と女だ。
今に見ていろ。一大長編の完成は夜明けを待つばかりだ。
ああ、ここでもそこでも佳境だらけだ」
頭をがしがしと掻き、幾分か武士崎は落ち着いたようだった。目覚ましに珈琲を飲んでくると言って彼は喫茶店に向かった。
部屋に残った私は、怪人の顔がどこか知らない他人のように見えた。唐突に、怪人が私の方を向いて顎に手をやりながら言った。
「貴君。世の中の真理とは何ぞや」
「さて、何でしょう。少なくとも金と女ではない。
私には到底たどり着けぬ境地でしょう」
「どうかなあ。うん、やはり貴君は阿呆だ。素晴らしいよ。
時に、貴君は先の人生をどうするのかね」
「さて、どうしましょうか。やりたいこともない。
さりとて成すことも見つからない。
あなたならどうします? 三億円でも盗みにいきますか」
私は笑って言った。連日、世間を賑わせていた時効成立の報道の所為か、不意に口をついてそんな台詞が私の口からこぼれた。
「いやあ、もうやめておくよ」
事も無げに言い放たれた怪人の言葉に、なぜか心臓が跳ねた。息が詰まった。
「あれの犯人は私だ」
「……冗談でしょう」
「冗談だとも」
そう言って怪人は笑った。人好きのする笑顔で、実に愉快そうに。この人が犯人である訳がないと思いつつも、この人ならやりかねないという意識も心のどこかにあった。
いや、あの事件が起こったのは私が田舎から出てくるたった半年前、68年のことだ。私はずっとこの怪人とともに華瑞荘にいるではないか。冷静に考えてみればそんな状況で呑気にデカパンにキノコを生やして三畳の安下宿で過ごしていられるはずがない。
「性質の悪い冗談です」
私は妙な焦りを隠すようにことさらおどけて言った。
「しかし世間では流行っているらしいよ。
みな、我先にと交番に駆け込んでいるそうじゃあないか」
確かに、お粗末な手記を自作して自分が犯人だと言い張る者が多くいるのは知っている。一角の人物にでもなれると思い込んだのだろう。
「世の中、なべて阿呆だらけなのでしょう」
「そうとも、それが世の真理さ」
怪人は満足そうに頷いた。私は一杯食わされたと少々悔しい思いをしたものだ。
そして怪人はひらりひらりと手を挙げて、
「出かけてくるよ。
ちょっと、そこまで」
と言って外に歩いて行った。
それが、私が怪人を見た最後の記憶である。こうして華瑞荘の怪人は姿を消したのだ。
○ ○ ○
数日経ち、さらに数週経っても怪人は帰ってこなかった。盛りそば氏や佐々川は心配していたが、武士崎は「よくある事さ」と気にもかけていなかった。
春を迎えて、就職が決まったと言う盛りそば氏が荘を去り、そのすぐ後に佐々川もやることを見つけたと去って言った。
どこかで気がかりだった私は様々な伝手を使って怪人を探し出そうとした。一向に手がかりは掴めず数年が過ぎてしまったが、そこは怪人のことだ。変わらずやっていることだろう。
そして彼を探すうちに出来た縁もあり、私はこれから新たな事業を起こすのだ。そのために華瑞荘を出る事になったが、武士崎は「誰かが帰りを待ってやらんとなあ」と荘に残る意思を示して笑っていた。
本当に、様々な思い出があったものである。
私の荷物を載せた車は一晩かけてようやく目的地へとたどり着いた。故郷からも、華瑞荘からも離れた、私の新天地。
これから先、数多くの困難があることだろう。
しかしあの怪人がどこかで生きているのならば。変わらず阿呆な怪人であるのならば。私にとってはそれだけで良いと思えた。
阿呆らしくて愉快な思い出を胸に、私は新たな地に足を踏み入れたのだ。




