4、私と似非作家、そしてキノコ
武士崎という男は怪人とよく論を交わしていた。ガラは悪いが面倒見のいい兄貴分で、私もよく様々な事に世話になったものだが、金の工面だけは頼りにならなかった。武士崎が華瑞荘で最も金銭的に余裕のない人物だったからだ。
彼はいつでも「金と女に困らん生活がしてえ」とぼやいていた。彼は俗物だった。そう思うのならばまっとうな職を探せばよいのにと常々思っていたが、彼は自らの文の才能を一切疑うことなく三畳の部屋をくしゃくしゃの原稿用紙でいっぱいにしながら着流し姿でイ号室に籠っていた男だった。
時折、夜中に奇声を上げながら煮詰まった一大巨編小説とやらを書きなぐっているその姿は、第二の怪人と言っても差し支えなかった。
しかし私は、いや、私を含め荘の面々は一度たりとも彼の完成作品を見たことが無かったと記憶している。
佐々川と武士崎は気が合わぬことを互いに公言していた。
最初のうちこそ私は単に武士崎が僻んでいるだけなのだろうと思っていた。なにしろ佐々川は美男子で、女に困った所を見たことがなかったからだ。もちろんそのような感情もあるにはあったのだろう。それを差し引いてもなお、彼らは気が合わぬ人間だったらしい。
目玉焼きに塩を振るか醤油を指すかで意見が分かれ、応援する野球のチームでも意見が分かれた。ちなみに佐々川が巨人、武士崎は阪神を推していた。華瑞荘には当然のようにテレビなどというものはなく、よく盛りそば氏がバイトをしている喫茶店に出向いて珈琲一杯で観戦をしていたものだ。
負けたチームを応援していた方が支払いをするなどと馬鹿げたこともやったし、白熱した試合に興奮してブラウン管のこちら側で場外乱闘が起きたこともあった。
気が合わぬと言う割には、彼ら共に行動する時間も多かったと私は思う。
そんな二人が、一度だけ意見の一致を見せたことがあった。
あれはいつのことだったか。へ号室の例の怪人が庭でキノコを焼いて食っていた時のことだ。私はその現場にはいなかったのだが、松茸にも似た厚みのあるそれはなかなか上等であるように思えたらしかった。
怪人は焼けたものを、たまたま通りがかった武士崎と佐々川に勧めたそうだ。
「食うかい。うまく焼けているだろう」
聞くところによれば、味は良かったらしい。しかしその後がいけなかった。
「お、うめえな。こりゃあ珍味だな」
「いけますよ先生。しかしこれをどこで?」
佐々川は怪人の事を先生と呼んでいた。なぜかは今でも分からない。おそらく、怪人のもつ超然とした雰囲気がそうさせたのかも知れなかった。
「今朝、押し入れを掃除してね。そこに生えていた。
苗床は私のデカパンだ。失くしたと思っていたが、思わぬ拾いものだよ」
それを聞いた時の二人の心境を推し量れば、私は同情を禁じ得ない。何が悲しくて人のデカパンに生えたキノコを食わねばならんのか。オイルショックで物価が高騰していた時期だとはいえ、人としての尊厳は保ちたかったことだろう。
「なんだい、二人とも固まって。
まだ生えているが採ってこようか」
その言葉を最後まで聞くことなく、二人は我先にと荘に一つしかない便所に駆け込んで胃袋の中身を吐いた。そして互いに無言で頷き合った後、「へ号タケ死すべし!」と叫んでライターやらマッチやらを掴んでへ号室の押し入れを燃やそうとした。
菌糸まみれになっていたデカパンを焼失させ、へ号室の押し入れ内でもうもうと煙が立ち込めた辺りで二人は我に返り、慌てて水をかけた。
もちろん、大家の婆さまに大目玉を喰らっていた。
当の怪人はといえば、「ああ、貴重な食料だったのだよ、あれは」と悲しそうな顔で押し入れを眺めていたらしい。
バイトから帰ってきた盛りそば氏と大学から帰ってきた私は揃って腹を抱えて笑ったものだった。
○ ○ ○
いやあ、あれは実に愉快だった。
そういえば、私が華瑞荘を出たことで、武士崎と大家の婆さましか残っていない。年だから、もう新しい人を入れるのも面倒だと婆さまが言っていたのを思い出す。
"俺までいなくなったら、誰が婆さまの世話をするんだ"と私の出立の数日前に武士崎が言っていた。やはり面倒見のいい兄貴分だ、あの人は。
私たち五人は共に阿呆な時間を過ごし、今や別々の道の上にいる。
いつの間にか陽は沈み、私は暗い高速道路をただひたすら走っていた。移動にはまだまだかかる。軽トラのハイビームが闇を割いて一筋伸びていた。
己の往く道をまっすぐに照らすその光を見て、私はいつだったか怪人が言っていた言葉を思い出していた。




