70話『もし、君がそこにいたならば』
《ムーンストーン》
“遊びはここまでだ”
如何にも少年漫画の悪役が言いたがりそうな台詞だ。この言葉を発するだけで、途端に強敵を演じることができる。それはあくまで“ストーリー”の中だからこそ格好いいのであり、現実ではあまりにも恥ずかしく、口に出そうとは思わない。
しかし、手を抜いて遊ぶ余裕が無くなったのは事実だ。ほんのお遊戯のつもりが、想像以上に追い込まれてしまった。痛い。痛楚が常に巳空を付き纏う。痛いのは嫌いだ。恐らく誰だってそうだ。自分で自身が普通ではないと理解しているが、様々な激痛は皆平等に嫌悪の対象だ。巳空は溜息をつき、火傷したかのような鋭い痛みが走る顎を摩った。
『常識の削除』………。
それが、彼の宝石の力を封じた“トリック”だ。
裕仁が異能使用不可となった正体とは、巳空が“異能を使える”という常識を消し去ったからだ。その異能を保有するのは、今ゲームで最弱とも謳われた“アクアマリン”の能力だ。その内容は『常識を欠落させる』というものであり、今や常識となってしまった“異能”すらも欠如させることが可能である。つまり、“最弱を装ったアンチ異能”である。
しかし、このアイデアは巳空独自の物ではない。以前この宝石の所有者に、巳空自身が掛けられた最悪の能力だった。
だが、巳空はこうして今能力は使用できている。つまり、この“宝石の能力”にも、いくつか抜け道があるのだ。当時は勝手に解除されており、大して気に留めることもなかったのだが、今ならばその理由が明確に分かる。現在“アクアマリン”の所有主が“巳空”だからだ。
この能力からの脱出方法………それは“射程距離圏外”への逃走。それ以外には存在しない。
一聞、簡単そうに聞こえるだろう。
だが、“アクアマリン”はそれほど優しいものではなかった。
“アクアマリン”の射程は所有者を中心にして、半径凡そ200メートルほど。つまり、直径400メートルの円内に存在する限り、彼は異能を使用することができない。この森の殆どを覆う程の大きさだ。それに加え、巳空が彼を200メートルも先へ逃がすわけがない。彼がいくら足が早かろうと、後を追いかける巳空の範囲から脱出は不可能だ。
彼は既に袋小路に追い込まれた一匹の鼠だ。弄ぶように追い込み、飽きたならば捉えて潰す。その際にはまず足から潰そう。もう二度と立ち上がって逃げられないように。そして次に、腕を潰そう。もう二度と這って逃げられないように。無様に地面に這い蹲る彼を蹴り転がし、戯れに肋を折ろう。苦しむ表情に愉悦を覚えながら、更に痛めつけよう。死なないように、殺さないように。彼が慟哭しようが、悶絶しようが、吐血しようが一切慈悲を与えない。巳空が味わった惨禍を全て刻み、最後に怨嗟の一撃を与えよう。
それが今から楽しみで仕方がない。
巳空は傷を治癒させながら、ゆっくりと口角を上げた。酷く変色していた筈の彼の顎は、ゆっくりとだが確実に肌色を取り戻し始めていた。
《ペリドット》
ーーー能力が、封じられた。
森林の斜面に伏せて様子を伺うこと数分。裕仁はこの先どうすべきかを思案していた。だが余裕をかまして長考をしている暇はない。今すぐにでも、巳空が裕仁の後を追ってくる可能性がある。
今の裕仁は、全身武装した兵士に裸に褌で挑むようなものだ。裕仁を包み込んでいた屈強な鎧は全て剥がされた。もう武器もない。あるのはその場から逃げ出す為の足のみだ。片腕は負傷し、碌に動かせない。
このままでは裕仁の立場はマイナスのままだ。何とかして立ち位置をプラスとは行かなくとも、0まで戻さなければならない。
兎に角“宝石の力”を取り戻さなければ話にならない。もしこの状態で巳空と出会えば、待つのは一方的な蹂躙だ。勝ち目は万に一つもない。
その為には、“足”を使うしかない。
数ヶ月前、このゲームが始まってすぐに雪乃に言われたことを思い出した。“逃げる”行為の有用性だ。ここで拳を構えて巳空の前へと立ち塞がるのは蛮勇以外の何者でもない。ただの無謀な死に急ぎだ。ここは一旦引き、巳空から距離を取る必要がある。
ただ、それはこの闘争の放棄ではない。裕仁の逃走には明瞭な理由があった。それは確かな確信でもあった。
『能力には、射程がある。』
それは複数の宝石を集めた今だからこそ、裕仁は自信を持って宣言することができる。間違いなく、彼の“異能封じ”には制限時間、もしくは射程範囲が存在する。
裕仁のように、一度“命令”を与えて動かす能力は所謂“例外”だが、一譲の“空間操作”や葵の“人形操作”などには一定の“射程”が存在する。その枠外から一歩でも足を踏み出せば瞬間、異能の効果は解除される。それは紛れもない真実であり、このゲームでの事実だ。
つまり、その“射程外への脱出”が裕仁の立場を巳空と同等へと戻す唯一の架け橋だ。それも脆く、今にも床を踏み抜きそうなほど荒廃した橋だ。無事に渡り切れるかは最早“賭け”だ。だが、躊躇っている時間はない。背後からは、巳空という名の熊が迫りつつある。この場で立ち止まっていても、裕仁が生き残る可能性は万に一つもない。
裕仁は覚悟を決めた。この橋を止まることなく駆け抜けた先に、暗澹とした未来を切り裂く光がある。たとえ一か八かでも、『やらずに後悔するよりやって後悔しろ』だ。
裕仁は利き手に込めた力を緩め、そのまま斜面を滑り降りた。優先すべきは、この森林からの脱出だ。流石にそこまで範囲は広くないだろうと踏んでの行動だ。これもまた、一か八かの博打に過ぎない。
ーーー雪乃なら、この危機をどう乗り越えるだろうか。
やはり、追い詰められると裕仁は彼女の思想に頼った。もし、雪乃がここにいたならば、彼女はどのような決断を下すのだろうか。どうしても、裕仁は彼女の思考に則ろうとしてしまう。悪い癖だ。
いつだって、死ぬか生きるかの場面に活路を見出したのは彼女の存在だった。それは単純に“経験者”だからではない。雪乃が言ったことならば、何だって上手く窮地を切り抜けられたからだ。彼女の判断は何時だって正しかった。彼女に判断を委ねていれば、何時だって間違えることはなかった。それ程までに彼女は怜悧であり、冷静な判断力を持っている。だからこそ今思えば、裕仁は雪乃を盲信していたのかもしれない。
この戦いの内だけで、何度“雪乃”の事を考えただろうか。
………矢張り、裕仁の中では彼女の存在が大きく映っていた。隣にいないだけで、こうも安心感が足りない。思考や行動に迷いが生じ、危険を自らの技量で乗り越えられる自信がない。
それでも「任せてくれ」と言った手前、おめおめと敗北した姿を見せるわけにはいかない。
ちょっとくらい、カッコつけさせろ。
お前がいなくたって、俺は出来るって証明したいんだ。
その瞬間、裕仁は急遽、方向転換をした。土壌に裕仁の踵を滑らした後を残すと、そのまま一方へ向かって走り出した。その足跡には、自信に満ちた深く踏みしめたものだった。
………思いついた。この状況を打破する方法を。
待ってろよ雪乃。後でお前にこの劇的な武勇伝を朝から晩まで語ってやる。
そう心の中で流暢に言い放つと、腕の痛みも放り出して足を回し続けた。この作戦は、巳空が追いつくまでに絶対果たさなければならない。彼が裕仁に追い付いた時点で、全ておしまい……ゲームオーバーだ。
だからこそ、駆け抜けなければならない。
裕仁の求める光は、すぐ手の届く場所にある。だが今にも闇に呑み込まれそうで、希望への道は閉ざされつつある。架け橋は徐々に軋み音を上げながら崩れ始め、裕仁を渡らせまいとする。果たして間に合うか……いや、間に合わせなければならない。
この宝石争奪戦の最終決戦の勝敗は全て、“彼女”の存在にかかっている。
“彼女” の元へ辿り着けたならば、裕仁は再び巳空へ挑むことが出来る。宝石の力を取り戻し、第3ラウンドを開始させることができる。そこまで辿り着かずにリタイアはとてもではないが納得できない。だから、今ここで垂らされた一本の蜘蛛の糸にしがみつき、離さないようによじ登るしかないのだ。裕仁は息を切らし、肩を揺らしながら必死に木々の隙間を疾走した。




