60話『バックストリートの悲劇』
宝石争奪戦が開始されてから、早いことに三ヶ月が経とうとしていた。暫くは宝石所持者を見つけることができず、二人は特に何事もなく学校生活を送っていた。
それは、雪乃達以外にも宝石を集めている人間がいるからなのか。それとも単に運悪く見つけられていないだけなのか……。
どちらであろうと、二人には関係ない。
今はただ、二人が狙う標的から宝石を奪い取ることだけを考えれば良い。
雪乃達の視界には、一人の若い男性が映っていた。見た所、大学生だろうか。髪を茶金に染め、耳にはいくつもピアスを開けている。グレーのパーカーを揺らし、路地を我が道のようにのし歩いている。
その様子はまさに、絵に描いたような“不良”のようだった。
「ねぇ……。やっぱやめない? あの人怖いんだけど。あれって不良でしょ? ヤンキーでしょ?」
雪乃は消えそうなくらい小さな声で、友絵に標的の変更を訴えかけた。しかし友絵はいつもと変わらず笑って、消極的な雪乃を励ますように言った。
「大丈夫だって! 最近の不良なんて、所詮口だけなんだから!」
「しっ! 聞こえる!」
あまりにも大きな声で言うものだから、雪乃は顔を真っ青にして友絵の口に手を当てた。もしその発言を聞かれたら、間違いなく絡まれる。間違いなく殴られる。
しかしどうやら聞こえていないようだったので、雪乃は安堵のため息をついた。
「……そんな血相変えて騒ぐほどでもないでしょ? 私たちには何たって“宝石”があるんだから。」
友絵は満面の笑みで言うと、宝石を強く握りしめた。
友絵は『物を小さく折りたたむ』『しりとりで物質を変化させる』能力を持つ二つの宝石を所持し、雪乃は『漢字の力を利用する』『視界を遠くまで飛ばす』『相手に「自分は無敵である」と思いこませる』『起こりうる可能性を確率で見る』事ができる能力を持つ四つの宝石を手にしていた。
分配の決め方はいたって単純だった。強力な能力は、まず最初に突撃する友絵が持つ。そして正直あまり使えない能力は、全て雪乃に渡された。
まぁ、雪乃の異能で相手の宝石を奪ってしまえば、相手は何もできなくなる。つまり、成功さえしてしまえば攻撃される事はない安全な仕事だ。仮に失敗しても、雪乃の持つ『漢字の力を利用する』能力はかなり汎用性が高く、強力な部類だ。なので妥当な配分だと雪乃は納得していた。
「それじゃあ、早速作戦を始めるよ!」
友絵は雪乃の能力で闇に紛れると、軽快な靴音を立てて駆けて行ってしまった。
それにしても、今日はやけに空気が肌に絡みついてくる。湿気が粘っこく、何とも不快な感覚だった。予報では言っていなかったが、雨が降るのだろうか。先程まで煌々と明るかった月華も、棚引く暗雲に遮られている。
……ただ、この時はまだ「こんな夜もある」としか思っていなかった。
この忌まわしい雰囲気を帯びた空気は、きっと雪乃達に警告してくれていたのだろう。
「あの男には近づくな」と。
友絵は男に追いつくと、音を立てまいとつま先で跳ねるようにして男の前に躍り出た。
今回でこの作戦は5回目の遂行となる。
友絵は慣れた手つきで小さく折りたたんだ人形を取り出し、男の足元に落とした。
そしてこれもいつも通り、彼の目の前で友絵の異能は発動し、奇妙な人形は男の前へと飛び出した。
しかし、ここから先は普段とは違っていた。
「なるほど……。そうやって“宝石”を集めていたんだな。」
彼は目の前に飛び上がった人形を払い除けると、友絵の方を向いて笑みを浮かべた。その微笑は、何とも言いようのない不気味さを帯びていた。友絵は、今までに感じたことの無いような感覚に、反射的に背筋を凍らせた。
これは恐怖というのだろうか。いや、一瞬で鳥肌が立ち、全身が粟立つような感覚は恐怖ではない。更にもっと………言葉では表現できないような恐ろしい感情だった。まるで死そのものを直接見せられたような……。
だが少し冷静になると、友絵は彼の発言に疑問を感じた。まるで誰かに話しかけるような彼の口調。そこに友絵は違和感を抱いた。
もう少し簡潔に言うならば、“彼は見えていない筈の友絵に話しかけた”のだ。
勿論、未だに雪乃の能力は解除されていない。友絵の姿は闇の中に消えたままであり、彼に見えるはずはない。なのに彼は、“友絵の方を向いて”そう呟いたのだ。
更に「そうやって宝石を集めていたのか」という言葉にも違和感があった。
ーーーなぜ彼は友絵が宝石を複数持っていることを知っているのか。
仮に友絵が宝石所持者だと知っており、その姿も見えていたとしても「集めていたのか」という単語はそうそうでない筈だ。大抵の場合は「そうやって宝石を奪う気なんだな」と、あくまでも“自分が初めて盗られる対象”として見てしまうものだろう。
だが、彼は最初から友絵達が宝石を略奪しているのを知っているかのように、そう口にした。
友絵達が宝石を奪った人達の中に、彼の仲間が居たのだろうか。そうでなければ、これ程の情報量を所持しているのはおかしい。
ーーー計画変更だ。
恐らく彼は、友絵の作戦を誰かから聞いている。もしくは、何らかの能力を用いて友絵の存在を感知している。それは友絵が既に劣勢に立たされているのと同義だった。
もし誰かから聞いただけの情報であれば、友絵のいる正確な場所までは分からないはずだ。もし感知されていたとしても、それには必ず何かの条件がある筈だ。呼吸か、それとも空気の流れか。それを見極めてしまえば、一気に優勢の立場に立てる。
……チャンスは彼に友絵が見えているか、見えていないかの二分の一だ。今逃れば、この先何が起こるか分からない。それでも、更に劣勢に立たされる事になるのは明白だった。彼に他にも仲間が居たならば、この作戦はこれから完全に通用しなくなる。運が悪ければ返り討ちだ。そういった最悪な状況は何としてでも避けなければならない。
友絵は忍び足で靴音を立てぬよう、踵をつけず、ゆっくりと男の横へと回り込んで行く。その際に呼吸を止め、なるべく緩やかな移動を心がけた。慎重に、焦らず、確実に死角へ潜り込んでいく。
そして彼の斜め後ろに立った時。
突然時間が動き出したかのように、友絵はアグレッシブに飛び回し蹴りを男に叩き込もうとする。彼女の蹴りはしなやかで、男の頭部に目掛けて美しい曲線を描いていた。
しかし、男は友絵の蹴りに合わせて上体を軽く反らした。友絵のインビジブルの攻撃を、まるで読んでいたかのように、予知していたかのように彼は容易に躱したのだ。
「な……に⁉︎」
友絵は思わず、驚きの声を漏らした。
ーーだが、これで確定した。
彼は何らかの能力で友絵の姿を見ている。
何らかの方法で友絵の姿を察知している。
彼はそのまま柔軟に体を捻ると、器用に突きを繰り出してきた。肘を曲げたまま、下から突き上げるように拳は放たれた。友絵はすかさず手のひらを前へ出し、男の攻撃を受け止めようとする。
しかし、男はそのまま友絵に拳を振り抜いた。男の拳は、友絵の腕を伝って華奢な体躯に強い衝撃を与えた。成人前後の男性の拳を、女子中学生の友絵が受け止めきれるわけが無かった。
だが、それでもよかった。
友絵が優先したのは防御ではなく、“掌に触れさせる”事だった。その意図は、すぐに理解する事になる。
瞬間、友絵の掌から突如何かが姿を現した。
それは徐々に大きさを取り戻し、細長く伸び始める。そして遂には、友絵は男との距離を大きく開けることに成功した。しかし勢い余って、友絵は押し飛ばされるように地面に転がり込んだ。
「………さっき、一つパチっておいて正解だった。」
友絵は一安心と言いたげに長大息を吐くと、ゆらりとその場に立ち上がった。その手には、「止まれ」の文字が書かれた看板のついた白い棒が握られていた。そう、友絵が利用した物の正体とは、小さく折りたたんで回収しておいた“標識”だったのだ。
雪乃には止められたが、このゲームは犯罪を帳消しにしてくれる。だから安心して、この標識は拝借させてもらった。そして、案の定役に立った。
それにしても、矢張り男には友絵が“見えている”。何度も言うが、見えていなければこの一連の流れは成り立たない。どういう仕組みかは分からないが、透明化しているはずの友絵の姿を彼ははっきりと視認している。そうでなければ、死角からの攻撃を回避された説明がつかない。その上、男は友絵に向かって反撃までしてきたのだ。
もう疑う余地もない。友絵は改めて確信した。
彼に、この“透明化の能力”は通用しない。
友絵は雪乃から貰った『透』の文字の書かれたメモ帳を丸めて捨てると、透明化を解除して彼の前に大人しく姿を現した。
「……へぇ。思っていた以上に小さいガキだったんだな。」
男は獲物を見つけた変質者のように、口角を吊り上げた。ただ、あまり意外そうではなかった。口ぶりでは驚いて見せているが、友絵には”この男が既にその事を知っていた”ように思えてならなかった。彼には何もかも、全てを見通されているような気がしてならない。嫌悪や不快が撹拌されたような、複雑に絡み合った感情が心の奥底から込み上げてくる。
「だったら、ここは子供に勝ちを譲ってくれない? それが大きい人の義務だと思うけど……?」
友絵も負けじと言い返すと、手に持った標識から“しりとり”を開始した。
「“き”むち」
友絵の手の内にあった標識は、辛そうな赤色をしたキムチに変化した。ご丁寧に、プラスチックパックに内包されている。
友絵が標識をキムチに変化させたのはもちろん食べるためでもなければ、相手に渡して許しを乞う為の物でもない。
ただの、言葉の中継点だ。
「“ち”ゃくらむ」
キムチの最後の言葉を利用し、友絵は知っている武具を作り出した。
チャクラムとは、簡単に言えば円型の投擲武器だ。金属製の輪状になっており、円盤の外側に刃物が付いている。日本では忍者がよく使用していたと、テレビか何かで聞いたことがあった。
チャクラムの内側に指を通すと、頭上で回転させ始めた。まるでフラフープのように、指に沿ってチャクラムは回転速度を上げていく。そして友絵は、男にめがけて勢いよく投げ飛ばした。滑らかなモーションで飛ばされたチャクラムは、綺麗な直線を描いて飛行する。
だが、友絵の投げたチャクラムは男の横を通り過ぎていった。当然だが、そう簡単には当たらない。一度もその武器を扱ったことのない人間が、初めてで使いこなす事など不可能に等しい。
だが、それで良かった。
一瞬でも気を引けたのなら、それで良かった。
実は友絵は、チャクラムを投げたと同時に前へと走り出していた。ここ数年で初めてする全力疾走かもしれない。そして床に転がった人形を走りながら拾い上げると、再びしりとりを開始させた。
「“う”きわ」
趣味の悪かった人形は、赤と白の線が入った救急浮き輪へと変化した。だが、それだけでは終わらない。そこから友絵は更にしりとりを繋げた。
「“わ”っか」
空気の入った浮き輪は徐々に細くなっていき、最終的には小さなリングに姿を変えた。友絵はそのリングを握ると、手を横に払いつつ呟いた。
「“か”たな」
すると友絵の手元から、立派な日本刀が誕生した。その真剣は濡れたように輝き、その切れ味の良さを物語っている。恐らく軽く触れただけでも指が切り落とされる事だろう。
それほど立派な刀を、友絵は素人丸出しのような雑な構えで疾駆する。刀の利点といえば矢張り、リーチが長い事にある。刀が届く範囲に足を踏み入れると、友絵は男に刃先を向けて一閃を描いた。
この時の友絵の脳内には、“殺してはいけない”という自制心はとっくに消えていた。「殺らなければ、こちらが殺られる」からだ。目の前にいる男から、そういった殺気に似た鋭く張り詰めた空気を感じるのだ。逃げたとしても、彼は何処までも追ってくる。蛇のような双眸が友絵に向いている限り、絶対に逃げられない。ここで、この場で奴を仕留めなければならない。そういった恐怖や焦燥感が、友絵を只管に突き動かしているのだ。
そんな友絵の必死の攻撃も、彼にとってはただのお遊戯なのかもしれない。男は軽く屈んで回避すると、一歩前へと足を踏み込む。男の拳が友絵に届く距離だ。対して刀はリーチの長さが仇となっていた。こう潜り込まれてしまっては、その刀身の長さは短所となってしまう。加えて振り抜いてしまった状態から、今すぐ防御に転じるのは難しい。
……ならば続けて攻撃一択だ。
友絵はすかさず刀をしりとりで変化させ、新たな攻撃行動に身を移した。
「“な”いふ」
この変化によって刃渡りは短くなり、これで刀身の問題は解消された。既に男は拳を構えている。彼が腕を伸ばせば、確実に友絵に命中する。それはもう今からでは避ける事はできない。
……拳一発で、人が死ぬことはないだろう。
……流石ないと信じよう。
友絵は刺し違える覚悟で、そのナイフを両手で男に振り下ろした。
しかし男は突然攻撃を止め、踏み込んでいない方の足を友絵の斜め横へ移動させた。その急な動きの転換によって、ナイフを回避されてしまった。
だが男は今、足をクロスさせた状態だ。そんな体勢では、次の攻撃は躱せまい。友絵はナイフを逆手に持ち替え、横に薙いだ。
だが彼は一瞬早く足を戻す際の回転を利用し、友絵の腹部に回し蹴りを食らわせた。
相手は中学生だと言うのに、何の遠慮のない蹴りだろうか。友絵はそのまま抵抗も虚しく倒れこみ、地面に背中を思い切り打ち付けた。その際ナイフは手元から離れ、息が止まるような衝撃が体に走った。友絵の華奢な体ではその衝撃に耐えきれず、何度か咳き込んだ。
たったの十数秒の間に行われた攻防だったが、とても長い時間彼と対峙していたような気がする。これが本当の殺し合いなのだろうか。体験したことの無いほど1秒が引き伸ばされ、その中を動いているかのような面白可笑しい錯覚に陥ってしまう。決して楽しくはなかったが、人生で一度体験するかしないかの貴重な感覚だった。
男はその様子を見下すように眺めながら、ふと呟きを漏らした。
「『安心、それが人間の最も近くにいる敵である。』」
「……なんの言葉だっけ? それ。」
友絵は何だか聞き覚えのある言葉に反応を示した。あと少しで思い出しそうなのだが、どうしても思い出せない。
「シェイクスピアだよ。名前くらいは聞いたことあるだろう?」
あぁ、そうだった。昔に面白がってよく調べてたっけか。友絵はいい事を思いついたようにうっすらと笑みを浮かべると、男の方を見ながら言い返した。
「あぁ、よく知ってるとも。それじゃあ、私からも一言。お前の大好きなシェイクスピアからの伝言だ。」
実際には、友絵は男を見ていない。
その後ろに立っている、一人の女性の存在をずっと見ていた。
「『慢心は、人間の最大の敵だ。』」
彼の後ろには、凛とした表情で雪乃が立っていた。あれだけ最初に弱音を吐いていた割に、覚悟を決めたような清々しい表情をしている。
雪乃は何やら文字を書いているメモを彼に向けると、何の会話も挟む事なくその異能を発動させた。
『縛』
その字は突如縄となり、枷となり、男を拘束しようと蠢き出した。そして秒にも満たぬうちに男の両手首に枷がはまり、両足も固く束縛した。男は突然の出来事にバランスを崩して、地面に倒れこんだ。両手両足を縛っているため、容易には起き上がれない。
雪乃はその付近に『爆』と書いたメモを一枚落とした。
「今から、貴方の宝石を奪うわ。大人しく何処にあるか言ってくれないかしら?」
「断ったら?」
分かっているくせに、男は不敵な笑みを浮かべて聞き返した。こんな状況でも、彼は余裕そうな表情を崩さなかった。その様子に苛立ちを覚えた雪乃は、もう一枚『爆』と書いてあるメモを上に放り投げて異能を発動させた。
すると、ただのメモとは思えぬほどその紙は轟音を立て、閑静な夜の街に大きな爆発が引き起こされた。
「こんな風に、爆発させる。」
雪乃は落ち着いた表情で、冷静に男に告げた。それでも男は、飄々とした口調で言った。
「へぇ、そりゃあ面白い。」
すると男は突如動き出し、『爆』と書かれた紙に触れようとする。雪乃は突然の出来事に、一瞬反応が遅れてしまった。すぐさま異能を発動させようとしたが、ほんの数瞬遅かった。
男が紙を指先で触れると、それはまるで灰になるかのように消え去っていった。よって、雪乃の異能は不発で終わってしまう。
「な……⁉︎」
そして彼は足の拘束具に指を触れると、それすらも腐蝕させるかのように消し去った。男は平然とした表情で立ち上がると、嘲るような微笑を浮かべた。
しかし彼はまだ腕の拘束具を解けていない。
友絵はすかさず転がったナイフを拾い上げると、
「“ふ”らんべるく」
と一度途絶えたしりとりを再開させた。
フランベルクは刀身が揺らめく炎のように波打っている、特殊な細身の片手剣だ。当然、ナイフよりも射程は長い。
友絵はその剣を振りかぶり、首を切り落とす勢いで斜めに振り抜いた。しかし、彼の指に触れた途端。指を切り落とすよりも先に剣は錆び落ち、脆くなったかと思えば灰のように風に消えていった。
男はその際に手の拘束具も風化させると、苦労話をするような声音で語り始めた。
「この能力を使うつもりは無かったんだが………。なかなかどうして、お前たちとの戦いは面白い。まだ中学生だそうだが……この宝石を持っていた肥えたおっさんよりも、精神力が強く機転も利く。」
男はこちらに見せびらかすように、一つ宝石をポケットから取り出した。その宝石は綺麗な緑をしており、遠くからでもその輝きを捉えることができる。
ただ、今はそれどころでは無かった。
先程の発言から察するに、その“風化能力”は元々彼が持っていた物では無いようだ。つまり奪い取った……もしくは殺して略奪したのだろう。
どちらにせよ、今まで穏便に宝石を盗んでいた二人にとって、あまり良い話では無かった。
「こいつ……既に宝石を“複数”持っていやがったのか!」
友絵は悔しげに嘆いた。彼女の作戦に、このイレギュラー的存在を相手にする場合の事は全く考えられていなかった。そもそも、自分たち以外にいるとは思っていなかった。
宝石複数所持者………。
それもこれ程までに恐ろしく強力で、得体の知れない能力を持っているのは最早反則級だ。
一つは透明化した友絵を察しすることができた能力。未だにその正体は分からず、きっと何かの条件があって発動されていると考える。先程雪乃の接近に気づいていなかったのが、その説を色濃くしている。
そして今、新たに見たのは“触れたものを灰のようにする”能力だ。これに関しては、防ぎようが見当たらない。触れられると一発でアウト。そんな理不尽な能力があっていいのだろうか。それだとゲームバランスが大きく崩れてしまう。きっと何か、弱点があるはずだ。ただ、それを見つけない限りは友絵達に勝ち目はない。
もしかすると、彼はこの二つ以外にもまだ能力を隠しているかも知れない。
男は先程の友絵の発言に対し、腹立たしい笑顔を浮かべて言った。しかし何度も彼の笑みを見ているうちに、友絵は彼の目は一度も笑っていない事に気がついた。
「それは、お互い様だろう?」
確かに、友絵は既に持っている内の二つの宝石を見せた。つまり彼には、友絵も“複数所持者”だという事はバレている。というより、初めて会った時から既に認知されていた。
だが、雪乃はまだ彼に一つしか能力を見せてはいない。
なのに彼は、雪乃の方に視線を移してその「お互い様」という発言をしていた。考えすぎかもしれないが、やはり彼は何らかの方法で情報を得ている。でなければ、そのような言葉が飛び出すのはあり得ないのだ。どう考えても、最初から情報が何処かから彼に漏れている。
そんな考え事をしている内に、彼は友絵に目掛けて走り始めていた。掌を前に伸ばし、触れてやるという意思を隠す事なく迫ってくる。
すると雪乃は友絵の前に割って入り、地面に屈み込んだ。
『壁』
雪乃は念のために常備していた百均のチョークで、地面にその文字を書いた。すると男と雪乃達を分かつように、一枚の厚い壁がせり上がった。
だが、男の触れた場所から瞬間的に風化が始まる。黒色のアスファルトの壁なのだが、忽ち白く変色し、まるで砂のように散り始める。
だが、それは分かりきっていた出来事だった。風化、劣化というのは宇宙に存在している限り防ぎようのない現象だ。考えるべきは、“如何にして相手に触れずに攻撃を与えるか”だ。
だからこそ雪乃は、その壁に幾つも同じ漢字を殴り書いた。
『槍』
『棘』
その複数の同じ文字に反応すると、壁から幾数もの槍や棘が男に向かって飛び出した。壁を介しているため様子は伺えないが、一瞬呻き声のような低い声を耳にすることができた。致命傷には到底届かないだろうが、浅い刺し傷は与えられたようだ。
「だめ押しでもういっちょ‼︎」
雪乃はマジで埋め尽くされた上から、さらに濃く大きく文字を書いた。
『尖』
すると壁の全体に毬栗のように、先端の尖った突起が覆った。雪乃は紙に新たにもう一文字書くと、その壁に紙を貼り付けた。
「さらにもういっちょ‼︎」
『進』
棘で埋め尽くされたその壁はまるで氷の上を滑るかのように、滑らかに前へ動き出した。その壁は止まることなく前進を続け、そして路地の最も奥の壁に衝突した。聞いたこともないような大きな衝撃音と共に、二人の立つ地面に軽く振動が伝わってきた。アスファルトの壁は亀裂が生じ、音を立てて砕けていった。
あの男は、壁に挟まっているのだろうか。それとも、死んでしまったのだろうか。
雪乃は少し冷静さを取り戻し、自分の行った行為に疑問を抱き始めていた。確かに、こちらから積極的に攻撃をしなければ、こちらがあの男に殺されていた。
だからと言って、雪乃が彼を殺してもいいのだろうか。それは、許されるのだろうか。
始めて人を殺してしまったかも知れないという罪悪感が、まだ中学生である幼い雪乃に重くのしかかってきた。それはこの先、一生背負わなければならない重荷だ。毎夜毎夜、あの男が血だらけで夢に出てくるかと思うと、寒気がする。一時の興奮で過剰な攻撃をしてしまった事に、雪乃の心は後悔と反省の念で埋め尽くされていた。
そんな時、友絵の声が聞こえた。
それは慰めるような優しい声でもなく、叱責するような強い声でもなく。
危機を知らせるような悲痛な叫びだった。
「雪乃‼︎」
雪乃は項垂れていた頭を上げると、驚くべき光景が視界に飛び込んできた。
所々から出血させている男が、雪乃の後ろに迫っていた。彼は死んだものだとばかり思っていたので、雪乃は幽霊でも見たような衝撃でその場に硬直してしまった。手足は全く動かず、指の先すら動かせない。完全に体は恐怖で支配されてしまっていた。
……あ、これはもう駄目だ。
雪乃は強張って動かなくなった体から、この先に起こる出来事を悟った。そして、諦めた。あまりにも呆気のない幕引きに、乾いた笑いすら溢れる。足掻きたくても足掻けない。そんなやるせのない感情の所為か、雪乃の目から涙は溢れなかった。
雪乃に男の手が迫る。
その時間はとても長く感じられた。ゆっくりと、刻々と押し寄せるその手に、雪乃の恐怖は倍々と増幅していく。でも逃げ出せない。雪乃の四肢は既に逃走を諦めている。逃げることが許されない雪乃に待っているのは、灰になる運命だけだった。
雪乃に男が触れる瞬間、雪乃はせめてもの思いで目を瞑った。自分の体が消えていくのは見たくない。それに、悲しくなってしまう。
そして、雪乃の視界は暗闇に包まれた。
………だからこそ、何が起こったか理解できなかった。
雪乃は突然強い力で押し飛ばされるような感覚が襲った。その際、雪乃はアスファルトで腕を擦ったようだ。唐突に押し寄せた擦り傷の痛みが、硬直していた雪乃の体を自由にした。
雪乃は事態を確認するために、すぐさま目を開けて体を起こした。
すると、雪乃の目に飛び込んできたのは見たくもない無残な光景だった。
「………友絵‼︎」
男に触れられたのは、雪乃ではない。
雪乃を庇うように飛び込んだ友絵だった。




