61話『繰り返されるトラジディー』
………触れられてしまった。
………友絵が、この男に“触れられてしまった”。
まさか、こんな事になるとは思ってもいなかった。まさか友絵が雪乃を突き飛ばし、自らを犠牲にして庇うとは一片たりとも考えつかなかった。
友絵は糸切れたように、雪乃の方へ力無く倒れ込んでくる。雪乃は未だに信じられず、崩れ落ちる友絵をただ受け止めることしか出来なかった。
どうしてこんな事に………。
原因は全て雪乃にある。友絵がこうなってしまったのも、全て雪乃の油断の所為だ。それは痛いほど理解していた。人を殺してしまったかもしれないという重量のある罪悪感が、友絵を巻き込んで雪乃を押し潰してしまったのだ。
罪の意識に下敷きにされた雪乃を引き摺り出してくれたのは友絵だ。しかし、その所為で雪乃には新たな罪悪感がのしかかってきた。この時、雪乃は一つ明瞭に理解した。
この罪責感は、一生雪乃に付き纏って離れないのだと。
「………ごめんね」
友絵は今にも消えそうな声で、小さく呟いた。雪乃には、なぜ彼女が謝罪したのか分からなかった。彼女は何も悪いことをしていない。それどころか、彼女は雪乃を庇って助けてくれた。それこそ、言葉通り自らの命を捨ててだ。本当は雪乃が謝らなければならない。そして謝っても許されるような事情ではない。なのに彼女は苦痛に呼吸を荒げながらも、謝罪の言葉を静かに漏らした。
瞬間、雪乃の目には涙が浮かび上がった。
「どうして……友絵が謝るの………?」
雪乃は友絵の背に回す手に力を込めた。すると友絵も震える腕でそっと雪乃を抱きしめた。彼女の手からは既に力が感じられない。正真正銘、最後の力を振り絞っての行動だったのだろう。そして友絵は、泣きそうな雪乃を宥めるように頭を撫でた。
「雪乃は何度だって……私の無茶に付き合ってくれた。なんだかんだ言いながらも………私について来てくれた。それが嬉しかったんだ………。とても。」
友絵は一呼吸置くと、必死に声を絞り出す。
「私は……ひとりぼっちが嫌だった。だからいつも戯けて……笑って……周りに友達を集めてた………。そんな時にこの宝石が届いて………本当はとても怖かったの………。」
雪乃は何も言わず、黙って友絵の言う言葉に耳を傾けていた。ただ、涙が流れるのは我慢できなかった。彼女の発する一言一言を噛みしめるように、泣きながらも静聴を続ける。
「だからさ………雪乃にも宝石が届いてたって知って、私は救われたの。そして、雪乃がいたから私はここまで笑顔でこのゲームを楽しめた………。」
友絵は少々苦しげに口角を上げると、無理に雪乃に笑ってみせた。その表情はとても切ないものだった。
「……最期に、私のワガママ……聞いてくれない?」
最期。
その言葉が、雪乃の心を更に締め付けた。今まで口を閉じていた雪乃も、思わず悲痛に叫んだ。
「最期なんて言わないでよ………! 友絵のワガママだったら………私が何度でも聞くから………!」
そんな虚しい雪乃の主張に、友絵は今日一番の笑顔を浮かべた。彼女の笑顔は、いつだって人を幸せにする。ただ、今回だけは雪乃を非常に悲しくさせた。薄っすらと血の滲んだ口元。枯れそうな表情から流れた一縷の涙。小刻みに震える彼女の体。そよ全てが雪乃に直接伝わってくる。友絵は悲哀に満ちた笑顔を保ったまま、雪乃の耳元で願った。それは声こそ小さかったが、とても大きな叫びに感じられた。
「………生きて。」
あぁ、いかないで。
そんな願いも空虚なもので、雪乃の髪に触れていた友絵の手はするりと落ちた。彼女を支えていた残滓のような糸も、遂に切断されてしまった。友絵は雪乃の腕の中で、静かに目を閉じた。そんな友絵の表情は穏やかで、まるで眠っているだけのようにも感じられる。しかし彼女はもう目覚めない。どれだけ願っても、どれだけ懇願しても。
もう一度目を開けてよ………そして笑ってよ。
……いつものように笑ってよ。
どんなに下らない冗談でもいいから口を開いてよ。今なら何だって笑えるから……。
ねぇ、聞こえてないの?
もう一度………あなたとお話がしたい。
そんなささやかな願いすら叶わないことは知っている。それは、誰が見ても明らかだった。何故なら、友絵の腹部には大きな空洞が開いていたからだ。あの男に触れられた部分から劣化が侵食し、友絵の体に風穴を開けたのだ。
雪乃は友絵を離したくない意思を込めて、強く抱きしめたまま涙を流した。人目も憚らず、何度も嗚咽を漏らす。彼女の肌に触れている手が、彼女の体から徐々に体温がなくなっていくのが感じ取れる。それでも雪乃は彼女を抱擁し続けた。到底受け入れる事が出来ないような、理不尽な突然の別れ。そんな不合理な決別を、雪乃は中学生という若い年齢で経験してしまった。それも、呆気なく目の前で。
街灯の明滅する路地に充満した心苦しさを、更に倍加させるように夜雨が泣くように降り出した。音も立てず、弱く振り続ける小糠雨だ。
そんな憂愁の情調を容赦なく切り裂くように、男は口を開いた。
「お前………冷静だな。」
雪乃には、彼の言っている言葉が理解できなかった。そもそも、雪乃に対して言っているのかどうかも怪しかった。泣き崩れるその様を見て、そのような発言が出来る意図を知りたい。もちろん、雪乃は冷静なんかではない。少しでも気を緩めれば発狂してしまいそうだ。
親友を目の前で失ったのだ。一体誰が冷静でいられようか。この男にはその気持ちは分かるまい。容易で人を殺せるような薄情者だ。だからこそ、そんな言葉が簡単に口から出るのだ。
「悲しんでいる気持ち………。今すぐにでも狂ってしまいそうな感情。それは“嘘ではない”だろう。だが、お前はその裏で必死に抗う対策を考えている。“俺には分かる”。」
男は冷ややかな表情のまま、先ほどの発言に訂正を加えた。
抵抗の策略も、立てるに決まっている。彼女の最後の言葉を果たすためだ。友絵は雪乃に「生きて」と願った。自分の命を捨ててまでも、彼女は雪乃の「生」を選んだ。そこに何かしらの可能性を見出したからだろう。でなければ、死ぬと分かっていながら雪乃を救う理由はない。だからこそ、抗わねばならない。必死に考えないと、この状況から脱することは出来ない。好きでこんな事を考えているわけではない。本当は今すぐにでも号哭したい。
「確かに、『生きて』と言われなければお前は考えることをやめていた………。死も容易に受け入れただろう。だが、異常なんだよ。『生きて』と願われた瞬間………なんて言えばいいんだろうな……お前は“覚醒”したんだ。」
男の言っている事は理解不能だ。だから、考えないよう放置する。少しでも無駄なことが入り込むと途端に集中は途切れる。今は何としてでも、この男から逃れる。感傷に浸るのはその後だ。
雪乃は素早く友絵のパーカーから宝石を抜き取ると、友絵を抱えて男と距離を開けた。
それと同時に、『起こりうる可能性の確率を数値化する』能力を使用した。
正直役立つとは思っていなかったのだが、この能力を過大に解釈するならば『未来を大まかに見て、自分で道を選択出来る』能力なのだ。
もし、雪乃が『透』の字を使用して、闇討ちを仕掛けたとしよう。するとその情報を元にして勝手に、雪乃の前にはデータとして確率が表示される。
出現した数値によれば、「不意打ち成功率 0%」だった。0だというのは、幾千、幾万通りの方法を用いたとしても“絶対的”に不可能という事だ。成功は万に一つも有り得ない。
ならば逃走はどうだ。
解析中の文字が、雪乃の焦燥感を駆り立てる。そしてたったの1秒程度で、確率は視界に張り出された。「逃走成功率 2%」。試すには現実的ではない数字だ。
しかし、雪乃はその結果に大きな違和感を抱いていた。
………やはり、いくら何でも“少なすぎる”。
確かに絶望的状況だ。友絵もゲームから脱落し、この男と真正面に立つのは雪乃のみだ。
だからとは言えど、ここまで確率が低いとなるとやはり、男の“宝石の力”を疑わなければならない。
「不意打ち」は100% 成功しない。
それに加え、透明であったはずの友絵の姿を捉えた。作戦の内容までも知らぬ間に把握されていた。それはどうやら情報が流れていたわけではなさそうだ。確実に、彼の持つ能力にが関係している。いや、情報漏洩は全て彼の能力によるものだ。雪乃は疑念を捨てて断定した。
真っ先に思いついたのは「未来視」だった。
だが、それでは理屈に合わない。
彼は雪乃や友絵の能力について事前に知っていたかのような口ぶりだった。作戦を「未来視」で見ていれば、それに矛盾は生じない。ただ、彼が「未来視」では道理に合わない事が一つある。
それは、雪乃の接近に気付かなかった事だ。
「そこまで未来を見ていなかった」と言われれば解決してしまうが、その一点には言葉では言い表せない大きな違和感があった。雪乃の存在を知った後も、まるでされるがままに拘束されていた。それも「油断させるための芝居」で片付けることもできる。ただ、常に優勢に立っていた彼にそんな回りくどい事をする必要があったのだろうか。
いや、ない。
彼が風化能力を「使うつもりがなかった」と明言している時点で、雪乃の拘束は“イレギュラー”なものだったと断言できる。
そうなると、例え見えない物でも「気流などで動きを察知する能力」という線も消える。しかしそれは“作戦内容まで知ることはできない”という時点で思考から削除されていた可能性だ。
だったらもう、考えられる可能性は一つしかない。
その結論に至る根拠となるのは、先程の「俺には分かる」という言葉。
……わざとだろうか。
今考えると、彼は少しずつ発言にヒントを残していた。所詮子供の二人組には気付かれないと思ったからなのか、それともただ単に遊び心なのか。どちらにせよ、彼は推理ゲームのような感覚で、雪乃に手掛かりを与え続けていた。
雪乃の中で、考えは少しずつ纏まり始めていく。その間、彼は何もしてくる事はない。いや、する必要がないのだろう。
確定的な勝利が約束され、ただ立っているだけで情報が次々と流れ込んでいくのだから。
こうして雪乃が思考している時点で、また一つ彼に情報を与えてしまっていたのだ。
あの男の能力………間違いない。
ーーーー「思考を読む」能力だろう。
雪乃は睨みつけるように、彼に双眸を向ける。すると彼は悪魔のように直黒く、そして見る者を憂懼させるような邪悪な笑みを浮かべた。そして、
「正解」
口元を歪めて、一言そう呟いた。
それから男は余裕綽々に拍手をすると、「まさか能力を当てられるとは思わなかったよ。」と雪乃を称賛した。
しかし、これが正解だったとしてもまだ疑問が残る。どの能力だとしても、結局はこの問題点は解決されない。
そんな意図を読んでか、男はサービスだと言いたげに語り出した。
「疑問に思っているようだから、答えてやる。何故俺が“お前の接近を認識できなかった”か……。それはとても簡単な話だ。俺が“ 一人の心”しか読めないからだ。だが、こうなればもう関係ない。」
………なるほど。
悔しいが、これで全て解決してしまった。
「心を読む能力」だという推測は、出来れば外れていて欲しかった。しかし、残念ながら確定してしまった。
心を読まれると言う事は、1秒1秒リアルタイムで新たな情報が男に流れ込むと言う事だ。それは聞いて分かる通り、厄介極まりない能力だ。こうして警戒していることも、男に情報として流れ込んでいることだろう。
能力物の漫画などで「心を無にする」や、「別の事を思ってフェイントを仕掛ける」など、様々な対処法が明言されてきた。しかしそれはやはり漫画の世界だけであり、現実では不可能なのだ。人は何かしらの行動をするとき、必ず考えて四肢を動かしている。無意識や反射的なんてものを意図的に扱えるほど器用ではない。寧ろ、意図的である時点でそれは考えている事と同等。思考は余す事なく男へと伝わる。まさに防ぎようも対処法も一つもない最悪な能力だ。
唯一、どうにかできる方法は“二人組、もしくは三人以上で組んで袋叩き”するしかない。一人の心しか彼は読めないのだ。しかし雪乃はもう、一人だ。友絵がいてくれたならば、まだ何とかなったのかもしれない。
友絵…………。
雪乃は、まだ友絵の死を受け入れることが出来ずにいた。それは当たり前の話だ。つい数分前までこの理不尽な世界を共に生きていた親友が、雪乃を庇って命を落とした。彼女の死もまた理不尽だ。それを直ぐに受け入れられるほど、雪乃は薄情な人間ではない。
しかし、泣くのはこれが終わってからだ
泣いて泣いて彼女の死を嘆くのは、この男から生きて逃げ延びてからだ。雪乃は自分自身に強く言い聞かせ、震える手足を抑えつけていた。
ただ、雪乃が一番脅威を抱いていたのは『心を読む』能力よりも『物体を風化させる』能力の方だ。ただ心を読まれるだけならば、『壁』を生み出して逃走すればいい。たった、それだけで解決する話だ。しかしそれが出来ないのはあの手の所為だ。彼の手に触れた瞬間、どのような物質であれど劣化を始める。
触られれば一発でアウト、それは明瞭たる事実だ。
つまり雪乃が取れる限られた行動は、“常に距離を開けた状態で、真理を把握された程度では防御不可な攻撃を仕掛ける”という事だ。
男は雪乃の思考を感じ取ってか、弱者を淘汰する強者の笑みで駆け出した。考えのネガティヴな部分を容赦なく刺突するあたり、やはりこの男には限度という言葉はない。宝石を奪うと言ったら、何が何でも奪い取る。その目的のためには、殺人も致し方ない。人を殺すことにも、何も罪悪感を抱かない冷酷な人間なのだろう。
男は雪乃に向かって腕を伸ばし始める。
「透」の文字で姿を消したとしても、心の声が聞こえる場所で位置を特定されてしまうだろう。友絵の存在が見知されたのも、きっとその所為だ。
ならばどうする。
………取り敢えず、時間を稼ぐしかない。
雪乃はその場に屈むと、「壁」という漢字を濡れたアスファルトにチョークで書いた。接近戦となると、画数の多い漢字は無闇矢鱈には使用できない。それに加え、「死」や「苦」、としくは「蘇」など、直接的に命に関わる漢字は不可だ。それらがこの「一文字の漢字の力を利用する」能力の弱点だ。
壁をスムーズに生み出したのはいいが、男はすぐにアスファルトの壁を風化させた。彼一人通れるくらいの穴ならば、ものの数秒で完成する。
だからその数秒の間に、新たな策が必要だった。
男が壁を通過した瞬間、雪乃は漢字の能力を発動させた。書かれた文字は「穴」だ。その文字を踏み抜いた瞬間、男はまるで落とし穴にはまったかのように足元から地面へ吸い込まれていった。
この隙だ。
雪乃は新たにその陥没した穴付近にチョークで漢字を書いた。
「蓋」
男が呑み込まれていった落とし穴に蓋をするように、徐々に塞がっていく。しかし、この行動も彼は読んでいたはずだ。なのに、彼は何ら疑う様子もなく落とし穴に落ちていった。
……必ず、彼の行動の裏に何かある。
例えば………。
雪乃は急いで後ろを向き、その場から飛び退いた。すると足元から、地面を風化させながら男がゆらりと現れた。男は愉快げに、
「よく分かったな……。やっぱり、お前は他の奴とは一味違う。本当にこのゲーム初参加か?」
雪乃は彼の質問に、無視を貫いた。
男の口ぶりから、今回のゲームが初ではないらしい。前にも、同様のゲームが行われていたのだろう。そして、この男はこの“宝石争奪戦”の経験者だ。だからこそ、ここまで余裕を保っているのだろう。
だが、そのような態度をこれ以上させてはおけない。そして、“時間稼ぎ”ももうおしまいだ。
「あぁ〜あ………あ?」
突如、路地に気の抜けた陽気な声が響いた。
街灯に照らされて現れたのは、全く見ず知らずの中年サラリーマンだった。
顔を真っ赤に染め、上機嫌に鼻歌を口遊んでいる。見るからに、その中年は酔っ払っていた。恐らく飲み帰りなのだろう。
中年は異様な状況に気付いたのか、間抜けな声をあげた。
「あぁ? …………もしかして、それ、死んでんの……‥か?」
中年は酔いが覚めたのか、一気に怯えた表情になった。男もこの惨状を見られてしまった事に少々厄介そうな表情を浮かべた。
それに対し、『遠くに視界を飛ばす能力』で、その中年がこちらに向かっている事は分かっていた。その情報は当然、男にも伝わっていたであろう。ただ、近付いてくるという事実だけがその時伝わっていた。
ここからの作戦は、“たった今”思いついた出来立てほやほやの戦略だ。
中年は恐怖に染まった表情から一転し、男に視線を移すと喧嘩腰で口を開いた。それはあまりにも大きすぎる感情の変化だった。
「こんな小さい子殺したんは、お前か?」
中年はまるで恐れる様子もなく、のし歩くように男へと歩みを進めていく。拳を固く握り締め、まるで制裁し、断罪するような正義を感じる。その背中はいくら酔いどれた中年とはいえ、凛々しく頼もしいものだった。
しかし、中年のその様子は全て“雪乃の仕業”だった。
「………その通行人に、自分は『無敵だ』と思わせた。」
これまた、使う場面は一生ないと思っていた能力だ。「相手に『自分が無敵だ』と思わせる」能力。使用場面は全く無に等しい外れ能力だ………と思っていた。しかし、その弱小ぶり故に、対象は無制限。周りの人間を巻き込むことを条件とすれば、意外と煩わしい能力となっていたのかも知れない。
酔っ払っている中年は、あたかも自分が無敵であると思い込み、男に喚き立てるように絡み始めた。
もしかすると、あの中年は死ぬかも知れない。
そうだと分かっているのに、けしかけた。
それほど残酷な事を平然と行える程、雪乃の思考はとても危うい状態にあった。命を賭けたやり取りに、感覚が麻痺している。
今は友絵との約束を果たすため、どのような犠牲も厭わない覚悟で相対している。それは言葉通り、雪乃の利用した通行人がどうなっても、だ。
少しでも中年が時間を稼いでくれればいいのだが………。
そんな期待も虚しく、すぐに決着はついた。
男は黙ったまま中年の腹部に膝蹴りを食らわせると、流れるように下がった頭部に回し蹴りを叩き込んだ。中年は苦悶の声を漏らすと、ゴミ袋の山へと吹き飛ばされた。
ただ、意外な事に男は中年を殺さなかった。
この男なら容赦無く殺してしまうと思っていたのだが。
「ゲームに無関係の人間を殺すのは……後々厄介だ。」
このゲームでの犯罪は揉み消される。ルール説明にはそう記されていた。しかし、この男の様子を見るに、その“揉み消し”に至るまでの手続き的な何かが面倒臭いのだろう。
……それにしても、あの中年はかなり雪乃の役に立ってくれた。
雪乃は男が中年に気を取られていた一瞬で、何処からか“拳銃”を調達して構えていた。その現代日本に似合わぬ物騒な武具に、男は少し顔色を変えた。
一体、雪乃は何処から拳銃を手に入れたのか。その準備は、至って簡単だった。
まず、足元から枯葉を拾う。そこから雪乃は“しりとり”を開始させたのだ。その過程は「かれは」から、最初に「はけ」へ変化させた。そうすれば、最短ルートで「けんじゅう」が手に入る。雪乃の手元に顕現したのは、リボルバー式の拳銃だった。
そして雪乃は何となくだが理解した。
男は、雪乃が拳銃を顕現していたことにまるで気づいていないようだった。心を読めるはずの彼が、どうして察知できなかったのか。
それは恐らく、彼の「一人の心を読む」能力の条件が「一番近くにいる人の心を読む」ということなのだろう。だからこそ、男の思考を拝読する対象が雪乃から中年の親父に移ったのだ。
「………お前は、このゲームに向いているよ。俺が言うんだから、間違いない。」
男は素直に認めるような態度で、雪乃に向き直った。
「安全装置は外したか……っと、リボルバー式は安全装置が無いんだっけか。ハンマーは起こしたか? 弾丸は込めてあるか? ちゃんと発射されるか?」
それから男は揶揄うように、雪乃にまくし立てる。
「ちなみに俺には全てが分かる。お前がどのタイミングでトリガーを引くか、どの位置に弾丸を打ち込むのか、そもそも引き金を引く勇気があるのか………もだ。肩や足に打ち込むなんて甘い考えはやめておけ………。狙うなら、心臓部か脳の二箇所だ。」
彼の物言いに苛立ちを覚えた雪乃は、一回目の引き金を引いた。しかし、雪乃が放った弾丸は大きく逸れて命中はしなかった。
それは当然の話だ。
初めて拳銃を触った人間が、一発目から正確に狙い撃てることなどほぼ不可能に等しい。そもそも、まだ男との距離は長い。先ほどの発砲は精々、威嚇射撃程度の効果しかなかった。しかし、男にとっては威嚇にもなっていない様子だった。
雪乃は急いで次弾の準備をする。その間にも、男は猛烈に距離を詰めてくる。雪乃は落ち着いて撃鉄をあげ、シリンダーを回転させる。この回転式拳銃はシングルアクションで、一回撃つ度に自分の手で撃鉄を起こす必要があるらしい。それでも、次弾の発射にそれほど時間がかからないのは利点だ。ただし装弾数は六発。先ほど一発外したので残り五発。それ以上に、発砲音が大きい。いつ様子を見に人が駆けつけるかも分かったものではない。
狙うは、奴の手が触れそうになる紙一重。一刀一足の間合い。ここまで接近されたならば、いくら雪乃が拳銃初心者であろうとも外す筈がない。確実に仕留められる距離だ。
そして、彼は雪乃の作戦を重々承知しているはずなのに疾駆の足を止めない。確実に勝てる策があるのか、それともただリスクを求める狂人なのか。どちらにせよ、機会は一度きりだ。
日本人男性の腕の長さの平均は、およそ72.7cm。だが、彼の身長は悠に180cmを超えているだろう。もう少し腕の長さを考慮して、大体80cm。そこにある程度の余裕を持たせて、1m。その距離が限界だ。雪乃と男の距離が1mに迫った時点で、雪乃は拳銃の引き金を引く。
それまで恐怖に耐えながらひたすら待つのだ。彼の手が届くことのないギリギリを攻めるチキンレースだ。
まだ………。
まだだ………。
妙に冷たい汗が、雪乃の背を撫でる。気味が悪く、呼吸が荒くなる。それでも落ち着けと、自分自身に何度も何度も説得する。もはや催眠だ。
彼との距離は目測で5メートル程度。
まだ引き金を引いてはならない。
トリガーに掛ける指が緊張で震えだす。拳銃を持つ手が震えることで、照準が小刻みにブレる。
そして、あっという間に距離は2メートル。
あと少しだ。あと少しの我慢が必要だ。この恐怖に打ち勝たなければ、勝利に手は届かない。虎穴に入らずんば、虎子を得ず。危険を侵さずして、この男から生き延びる術はない。
彼は指先も曲げることなく伸ばす。
もう、距離は1メートルもない。運命の時だ。
雪乃は掛ける指に全身全霊の力を込めて、引き金を引いた。拳銃は爆裂音を上げて、弾丸を発砲した。ほぼゼロ距離に等しい間合いで、男に弾丸による強襲が仕掛けられた。この距離からならば外す筈がない。
ーーしかし、非現実的な事実が雪乃に突きつけられた。
あろうことか、男はこの距離で弾丸を回避したのだ。
………不味い。
………失敗した。
男は雪乃の考えを読み、タイミングを“わざと”ずらしたのだ。男は踏み込む寸前、まるで地面と反発するように後ろへと退いた。それは雪乃が引き金を引いた、絶妙なタイミングでの出来事だった。拳銃を絶対的な物だと信じきっていた。弾丸を避けるなど、人間業ではない。その考えが仇となってしまった。まさに撃つ場所、撃つタイミングが全て把握されているからこそ可能だった芸当なのだろう。
完全に思考範囲外の数秒間に、雪乃に空白時間が生まれた。その数瞬を最初から狙っていたかのように、男の手が雪乃に触れようと伸ばされる。雪乃が気付いた時には、掌は目前まで迫っていた。回避することはできるだろうか。いや、男には雪乃がどちら側に逃れるかも全て伝わる。ならば彼の腕を払いのけて反撃か。ガン=カタという、拳銃と日本武道の型を組み合わせた武術を映画で見たことがある。ただ、突然言われて出来るような簡単なものではない。
提案、否定の繰り返しが雪乃の脳内に一瞬で駆け巡る。だが、結論は出なかった。成功確率を見たところで、どれも50%を下回っている。
……万事休すか。
雪乃は腹を括った。拳銃をもう一度構え、男の手を躱すと同時に発砲。成功確率は低いが、このまま何もせずに死ぬよりかは幾分もマシだ。「やらずに後悔するより、やって後悔しろ。」その名言は、この切羽詰まった状況だからこそ雪乃に勇気を与えてくれる。
しかしそんな雪乃の覚悟とは裏腹に、唐突に男の動きが静止した。いや、どちらかというと“何かに引き止められる”ような形で動きを止めていた。
「俺は………“無敵”だ………!」
つい数分前に蹴り倒された中年が、未だに倒れながらも男の腰に抱きつき、力強く引き止めていたのだ。
雪乃と男も、既に触れそうな距離だった。
だからこそ、中年の接近に男は察知できなかったのだろう。
これはチャンスだった。
神の存在は信じてはいなかったが、もしかすると実在しているのかもしれない。そして勝利の女神は雪乃に微笑んだ。
「グッドタイミングだ、おっちゃん!」
雪乃は素早く両手で拳銃の照準を合わせると、男の肩に躊躇なく弾丸を撃ち込んだ。これには男も予想外だったらしく、思わず怨念のこもったような声音で怒鳴り声をあげた。
「………クソがぁあぁ‼︎」
もう一撃、もう一発打ち込める………!
雪乃は続けて撃鉄を上げてリボルバーを回転させる。残り三発。ここで仕留める他はない。
しかし男は衝撃に抗って前進した。銃弾を打ち込まれた反動で回転しながら、雪乃の構える銃を弾き飛ばしたのだ。有り得ないあってはならない。こんな人間離れした行動を、断じて許容できない。
雪乃の脳内に、様々な感情が入り混じる。
アスファルトを転がっていく拳銃は男に触れられた事によって、灰と化していく。急いで雪乃は、自身に漢字を刻もうとする。しかし、何もかもがもう遅かった。
踏み込んだ重い蹴りが、雪乃の腹部に叩き込まれた。男の蹴りはまるで刀のようで、貫かれたような錯覚さえ覚える。雪乃は一瞬、呼吸が止まった。女子に対して、更には子供に対して放つような蹴りではなかった。
むせ返る雪乃に、男は更なる追撃を仕掛けた。今の雪乃には、防御する力も残っていない。顔を上げた時には、既に目前まで彼の足が迫っていた。
そして気が付けば、雪乃は夜空を仰いでいた。星も月もなく、ただ広がるのは暗澹とした雲ばかりだった。最初は弱かった雨も、雪乃が倒れ伏せたと同時に本格的に降り出した。少なくとも、天が雪乃を慰めてくれているようではなかった。寧ろ、厳しい洗礼のようにも感じた。全て自分が招いた失態だ。自業自得だと見放すような、大雨となっていた。
男はフードを深く被ると、雪乃から宝石を奪い取った。雪乃の体は麻痺しているのか指先すら動かせなかった。抵抗する事も許されず、友絵と共に集めた宝石を一つ残らず盗られてしまった。雪乃の目から悔やし涙が流れるも、夜雨によって全てかき消された。
男は宝石を乱雑にポケットにしまうと、敗北した雪乃に話しかけた。
「……お前は“面白い”。お前の類いまれなる思考能力は、“あの人”に似ている。殺すにはとても惜しい。」
男は少し懐かしむように呟くと、横たわる雪乃を見て言った。
「再び相見える機会は必ずくる……。その時、俺を殺せるといいな。次は俺もお前を殺す。」
薄れゆく意識の中、そんな彼の声だけが雪乃の耳に届いていた。
「俺の名前は、綴木絢成だ。いずれ、このゲームの王になる男だ。」
こうして、雪乃はこのゲームから事実上のリタイアとなった。宝石を全て奪われた挙句、温情で生かされる屈辱。仇すらも取れなかった無力さ。様々な負の感情が、雪乃を苦しませ続けた。
これが、嘉島雪乃が一人で抱え込んできた過去だ。
そして、皮肉にも雪乃の才能を開花させた悲しい出来事だった。
こうして、このゲームは綴木絢成が優勝して幕を閉じた。そして現実というのは無慈悲で、雪乃は準優勝者として次回のゲームにも強制参加となった。




