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55話『今までありがとう』



《サファイア》



………間に合わなかった。



絶望感が海音の心と体に重くのしかかる。今にも崩れ落ちそうな程、目を背けたくなる現場だった。


あと一秒………いや、あと一瞬早く気づいていたならば、涼太の危機に気づけたかもしれない。




だが、海音は怯んでしまったのだ。


涼太が放った巨大な炎は屋上にまで達し、海音は扉付近から動く事ができなかった。肌が焼けるほどの熱風と、降り注ぐ火の粉が飛び出そうとする海音の足を妨げる。それ程涼太の一撃は強烈で、この街一帯を燃やし尽くすような威力だった。


それから涼太の攻撃が止んだと同時に、海音は屋上へ出たものの、そこに涼太と巳空の姿はなかった。既に何処かへ移動してしまったのではないか。そう思った海音は、急いでビルの端まで駆け寄った。そして海音は、涼太の背後から歩み寄る巳空の姿を目撃したのだ。


今から自分が駆け下りても間に合わない。

瞬時に判断した海音は、大声を張り上げた。いくら夜中で街は静まり返ってるとはいえ、屋上から地上だ。涼太はあまり聞こえていないように感じた。その間にも、巳空は一歩ずつ忍び歩きで涼太に歩み寄っていく。だから海音は、急いで異能を発動させた。



………だが、間に合わなかったのだ。







悲しい事だが、これが現実だった。





海音は力なくその場に座り込み、悔しげに嘆いた。自身のこの優柔不断な性格が、決断が怖いと感じるこの性格が涼太を殺したも同然だ。海男の叫びは、乾いた夜によく響いた。



それでも海音の目は、しっかりと巳空を捉えていた。意識的にではない。海音は無意識のうちに、巳空の行動に注視していた。声を荒げ、涙を目頭に溜めながらも決して巳空から目を離さなかった。


それが海音の背負う“責任”なのだろう。

無意識に抱え込んだ“重荷”なのだろう。


そんな海音の裂帛の声には気にも留めず、巳空は涼太に近付くと彼の懐から何かを取り出した。この高さからはそれが何なのかは見えないが、海音はすぐに察する事ができた。と言うよりかは、“それ”以外あり得ない。




ーーー宝石だ。




涼太の宝石はたった今、巳空の手元に移ってしまったのだ。


それだけは不味い。涼太の持つエメラルドは強力な部類の異能だ。その貴石を奪われてしまっては、本当に裕仁陣営の勝ち目が薄くなる。何としてでも、涼太の宝石を奴から取り返さなければならない。



落ち込んでいる暇などない。

泣いている暇などない。


ーー今ここでへたり込んでいるのは最悪の選択だ。



海音はビルの角度を大きく傾けると、滑り台のように壁面を器用に足裏で滑り降りていく。擦れるような痛みが靴底を通しても伝わってくる。だが、その程度の痛みに構っている場合ではない。海音はそのままビル壁を滑走していく。


しかし角度が急だった所為か、勢いを殺しきれずに海音はアスファルトの上を転がった。頭部を庇った腕に、幾つもの擦り傷が出来上がる。そして転がり止まった場所は、倒れ伏せる涼太のすぐ近くだった。



「涼太……にーちゃん」



海音は自分の怪我など放って置いて、すぐに涼太に駆け寄った。涼太の腹部に突き立てられていたのはナイフだった。その患部から広がるように流血は生じていた。涼太に触れた海音の手も、真っ赤な血に染め上げられる。だが、厭わない。


海音は、とある事に気が付いたのだ。




「まだ………息がある。」




涼太はまだ生きている。

その事実が発覚しただけで、海音の気持ちが楽になっていくのが分かる。膨らんだ絶望と悲哀の風船は、徐々に空気が抜けて萎んでいく。それだけで海音は、目から涙が溢れそうになる。


ただ、彼の状態はよろしくない。

素人目から見ても、この出血量はかなり危険な状態にある事を察する事が出来る。今すぐにでも、病院に連れていく必要があるだろう。


こういった時に、ナイフを抜くのは間違っている。刺さったナイフは出血を抑えてくれている役目があると、海音は何処かで聞いたことがある。そして海音は涼太の着ているコートのファーを取り外し、ナイフの刺さった部分を円形に囲うように保護した。本当はタオルのような清潔な布が良いのだが、都合よくそんな物が転がっている筈もなかった。それにしても、学校で習った面白くも何ともない応急処置が、こんな所で役立つとは思ってもいなかった。


だが、所詮は応急処置なのでそう長くは持たない。それに、巳空を前にして救急車を呼んでいる暇もなかった。それに今呼んだ所で、巳空によって被害が拡大する可能性も否めない。


だから何としてでも、早急に奴から宝石を取り返さなければならない。そしてここから速急に離れなければならない。



海音は強く決意したように、震える声をあげた。







「その宝石は………渡さない。」






涼太の宝石を持ち去ろうとする巳空を、海音は呼び止めた。その声に反応し、巳空は首だけを傾けて海音に双眸を向けた。


恐怖は勿論感じている。

この殺人鬼を呼び止めるのも、本当は怖かった。このまま奴が去るのを待ってた方が、精神的には幾分も楽だっただろう。


だが、それではまた海音は“見てるだけの腰抜け”となる。他人は「仕方ない」と言ってくれるかもしれないが、海音はそれが嫌だった。


それともう一つ。裕仁が巳空を倒すためには、ここで涼太の宝石を持ち逃げされては困る。




だから海音はこうして、彼の前に立ちはだかったのだ。





「渡さない……ねぇ。違うな。」



巳空はため息混じりの声で、何も分かってないなと言いたげに口を開いた。



「お前が俺に宝石を、大人しく“渡すんだよ”。」



そう言うと、巳空は海音に向かって躊躇なく歩き出した。その図はまさに怯える小動物と強大なプレデターだ。巳空は嘲るような笑みを浮かべて海音に語りかけた。



「足が震えているぞ。」



「……気のせいよ。」



「呼吸が荒いぞ。」



「……元からよ。」



海音は精一杯強がった。だが、そんな物はお見通しだと巳空は更に話を続ける。




「……汗はかいているか? 喉は乾いているか? それが自然な反応だ。それが恐怖という感情だ。」



巳空は饒舌に口を動かしながら、それでもゆっくりと海音に逼る。



「さぁ、お前には二つの選択肢が与えられた。脅威から逃走するか、それとも脅威に立ち向かうか。」



確実に一歩、また一歩と距離を詰めてくる。鼓動は更に早くなり、呼吸もまた荒くなる。

脅威そのものが、海音に歩み寄っているのだ。死そのものが、海音の目の前に存在しているのだ。



「恐怖によって、人は集中力が増すと聞く。それは、人間にとって恐怖は“防御的、生存的な本能の働き”だからだ。………さぁ、早く決めろ。お前は一体、どちらの行動が正しいと考える?」



海音は一度、血まみれになって倒れている涼太を一瞥した。彼は正真正銘、ヒーローだった。命を懸けてまで、今日出会ったばかりの海音を助けようとしてくれた。いくら海音が子供だといっても、そんなお人好しは涼太以外にはいないだろう。


……いや、海音の周りにいる人達は皆、お人好しだ。裕仁だって、雪乃だって今まで海音を優先的に守ってくれた。本当にどうしてか分からない。大切な価値のある姫君でもなければ、守ってくれたお礼に謝礼金を払えるほどの財力もない。何も持たない海音を、彼らは必死に守護してくれた。


だから海音は命を張って守ってくれた人に対し、逃走という恩を仇で返すような真似は出来ない。


男の意地?

男の決意?


そんなものは彼の自己満足だ。

海音はそんな身勝手な理由で引き下がれるほど心は大人ではない。子供だから。子供だからこそ、後で御免なさいして許してもらう。だから今、彼を死なせない。海音が謝る前に、死なれては困るのだ。


涼太の覚悟を踏み躙ってでも、彼を助けるのが海音の“恩返し”だ。


海音は歯を食いしばり、恐怖を押し殺すようにして巳空を睨みつけた。



「当然………抗ってみせる! 涼太にーちゃんにもまだ謝ってないからね………。」



海音の返答を聞いた巳空は



「だったら、二人仲良く同じ場所に旅立てると良いな……。」



と言い、巳空は全速力で駆け出した。

彼の行動から分かる通り、巳空は確実に海音の息の根を止めるつもりだ。そこには一切の躊躇いなど存在しない。海音の持つ宝石すらもこの場で略奪するつもりだ。


いつもは裕仁と雪乃が隣にいる。だが、今回はいない。


実質、一人で真剣に戦いを挑むのは初めてかもしれない。その初めての相手が、最強最悪の因幡巳空だ。無気力で根暗な容姿をしていても、正体は残忍で残酷。慈悲という文字は彼の頭になく、やる時は徹底して相手を痛めつける。どういった経緯かは知らないが、彼は既に四つの宝石を手にしている。雪乃との会話を聞く限りだと、恐らく全員殺害しているに違いない。きっと彼の体には黒い血が流れているのだ。



………だが、巳空は海音に触れることはできない。


普段のように超人的な速度で駆け出した巳空だったが、海音のいる場所とは全くの別の地点に行き着いた。


巳空は少々鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべたが、すぐさま再び攻撃の姿勢に移った。だが、結果は同じだった。またもや巳空は海音とはかけ離れた場所で立ち止まった。


流石の巳空もこれには驚きを隠さなかった。何か、何か攻撃を受けている。“宝石の力”によって、何らかの攻撃を受けている。巳空は海音を初めて訝しげに睨みつけた。


それから巳空は、様々な方法で海音に接近を試みた。弧を描くように移動、ジグザグに曲がりながら接近、はたまた上空からの攻め。


だが、全て失敗に終わった。


何度試しても、巳空が海音に辿り着くことは一度としてなかった。




巳空は明らかに怒りを顔に貼り付けている。屋上で飄々とした余裕の表情は既に無く、そんな彼からは想像できないような忿怒の目だ。濁った瞳には光が宿ることなく、静かなる激怒が込められていた。


海音は俯き気味に巳空を睨み、小さく口を開いた。



「……1度。」



海音の呟きに、巳空は過剰に反応した。



「たった1度だけ、貴方との角度を“ズラした”。これで永遠に、貴方の攻撃は私に当たることはない。」



そう。海音が変更したのはたったの“1度”だけだった。それでも、その効果は絶大だった。


小学校の頃に習ったように、角度が1度でも違えば大きな違いとなる。最初は確かに僅かな誤差だろう。ただ距離を離れて行くごとに、角度のズレは面白いほどに際立つ。たった1度であったとしても、次第には大きな間違いになるのだ。


ただし、これは海音にとってもあまり推奨は出来ない方法だった。この角度の変更は、海音にも例外ではない。海音もまた、巳空に接近する際に1度のズレが生じる。


つまり、海音も巳空に接近することはできない。互いに接近が許されない、膠着状態にあった。



ーーただ、それを打ち破ろうとするのが巳空という男だった。




「わざわざ、教えてくれてどうも。」




巳空は不敵な笑みを浮かべると、海音と少し違う方向に駆け出した。海音は彼の行動の意味がすぐに理解できた。


彼は、“わざと1度ずれた方向”に向かって疾駆したのだ。そうすれば角度は自然と矯正され、海音に辿り着ける。そう考えたのだろう。確かにその通りだ。ズレが常に生じている以上、巳空の考えは正しい方向へと向かう。巳空は海音にタネを明かされた瞬間、すぐに解決法を見出して食らいついてきたのだ。





……ただ、そんな事は海音が一番よく知っていた。



寧ろ、1度角度が変化していることを“ワザと”巳空に教えたのだ。



そしてまた、巳空は海音に辿り着くことが出来なかった。海音は少し笑みを浮かべ、巳空に嘲笑い返した。




「……残念。今は“2度”ズラしているの。」




“角度を操る能力”というのを彼に見られ、知られている以上、いずれ……いや、すぐにこの異能の仕組みはバレてしまっていただろう。


だったら、こちらからそのタネを教え、相手の行動を操ればいい。


1度角度を変更していることを知れば、巳空は少し移動する向きを変える。これは容易に想像できた。その時に、角度をまた少しズラせばいい。


いつタネを悟られ、対策を練られるかを見計らうように心配しながら待つよりも、こっちの方がはるかに安全だ。彼の取る行動も、角度を変更するタイミングも、こちらの方が何倍も分かりやすい。


今や巳空は海音の掌の上で踊らされている。正真正銘、巳空の攻撃は永遠に海音には当たらないのだ。



こちらからも手は出せないが、相手からも触れられる方法はない。今の海音は、誰からも干渉されない無敵の要塞に引きこもっている状態だ。ただ、このままでは巳空から宝石を取り返す手段は見出せない。どうにかして、奴を無力化させる必要がある。


それがどうしても思いつかないのだ。




こうして裕仁と雪乃の帰りを待つか………。


それでは涼太の命が危ない。彼らがいつ戻ってくるか分からない上、まず戻ってくるかどうかも分からない。彼らがビルから落ちてしまった所から、海音は裕仁達の動向は知らないのだ。




だったらこの異能を解除して、闇雲に、そして我武者羅に真正面から巳空と一戦交えるか………。


それでは勝ち目がない。確実に仕留められるのが目に見えている。


海音はいつ来るかも分からないチャンスを、ひたすら待ち続けることしか出来ないのだ。



しかし、先に動き出したのは巳空だった。



「だったら、此方にも手はある。」



そう言うと、巳空は急に海音のいる方向とは全く別の方へと駆け出した。そこまで大きく角度を変更していない事は分かっている筈なのに。海音は彼の行動の意味を全く理解できないでいた。


海音は視界をそちら側に移すと、漸く彼の行動の理由が分かった。それと同時に、声が出ないほど驚愕の色を見せた。




巳空の進行方向………そこにあったのは、力なく倒れている涼太の姿だった。巳空は、涼太を先に殺すつもりだ。厄介な海音よりも先に、確実に息の根を止めるために動くことのできない涼太を狙い、そして始末するつもりだ。



「この外道があぁっ‼︎」



海音はこの短い人生の中で一二を争うほど激高して叫んだ。よりによって、涼太を狙うとは思いもよらなかった。


ーー今から走っても間に合わない。


海音は仕方なく今変更している角度を戻し、巳空と涼太の角度を大きく違えさせた。これで巳空は涼太にとどめを刺すどころか、詰め寄る事すら不可能だ。海音は涼太を、魔の手から救うことが出来たのだ。



……だが、それが海音の過ちだった。



巳空は突如としてその場に制止すると、恐ろしい速度で方向転換をしたのだ。



「……そうすると、思っていたよ。」



巳空はその瞬間を見計らったように海音に向かって、急速に接近した。


嘘でしょ…………。


海音は心の中で諦めるように呟いた。今から角度を変えている時間はない。その間に間違いなく、巳空に殺される。


結局……なにも出来なかったなぁ。


そんな感情が、海音の中を埋め尽くした。たった12、3年の人生だったが、まさか最期がこの様な理不尽な形で幕を降ろされるとは思ってもいなかった。それでも、大切な仲間が出来た。それだけはとても嬉しかった。



育ててくれた両親や、苦楽を共にした姉。共に学校生活を送ったクラスメイト。そして、こんな巫山戯たゲームに巻き込まれた海音を最期まで守ってくれた裕仁や雪乃の顔が、閉じた瞼の裏に浮かび上がった。


本当に、最後の最後まで迷惑をかけてしまった。本当にごめんなさい。






……そして、ありがとう。




挿絵(By みてみん)








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