30話『戯ける狂人と忿怒する常人』
《ペリドット》
「仲間……だと?」
裕仁は目を見開いた。
雪乃と海音をこの場から逃し、目の前の男から彼女達を遠ざける。それが今の裕仁に出来る精一杯の仕事だ。
なのにだ。時間を稼いでいるつもりで男と交戦していた筈が、まんまと罠にはまったのは裕仁の方だった。敵側に属する仲間の存在など、念頭に一切置いていなかった。後悔の念が裕仁の脳内に木霊する。
今の裕仁は、先程と全くの逆の立場だ。
雪乃達の援助に向かいたくとも、この男は裕仁を逃してはくれないだろう。それこそ、男にとってこれは時間稼ぎとなる。
「誰も『俺が一人でお前らを追っている』とは言ってねぇ。今頃、俺の仲間がお前の仲間を襲撃してる頃だぜ。」
男は口角を吊り上げながら舌を回す。邪気を孕んだにやけ面に、裕仁は不快感に思わず忿懣して毒吐いた。
「……くそがっ!」
それと同時に裕仁は駆けるように男へ飛び掛った。男は動く気配もなく、手を大きく広げて裕仁を誘い込んだ。
「はっ、脳がねぇガキだな‼︎ 何度突っ込んでこようが無駄なんだよ‼︎」
しかし聞く耳を持たない裕仁は、先程と同様に拳を振るう体制に入った。
その際、男も拳を固く握った。
それから一秒。互いの振るった拳が、遂に衝突し合うかのように思えた。しかし、裕仁は握った手を寸前で引っ込め、身を屈めて男の横をすり抜けた。この行動は男にとって着想外だったらしく、裕仁が一瞬消えたかのように錯覚してしまう。奴の丸太のように太い腕によって、裕仁の避けた道は死角と化したのだ。
その隙に脇に添えてあった鉄パイプを拾い上げ、裕仁は我武者羅に振り抜いた。常人なら必ず死ぬ一撃だ。言葉通りの必殺だ。しかし男は意に介すことはなく、裕仁の姿を見つけるや否や、握った拳を裕仁に向けて振り抜いた。
しかし、ぶつかり合ったのは“鉄”と“拳”だ。
どちらが勝つか、どちらが強いかなど語るに及ばない。小学生でも分かるような質問だ。誰であろうと“当然の結果”というものを、容易に察する事ができるだろう。
そう、この結果は当然だ。
ーーー押し負けたのは鉄パイプだった。
鉄製のパイプはスプーン曲げのように変形し、男の拳が命中した部分を中心として“ぐにゃり”と面白おかしく折れ曲がっていた。
しかし驚く事に、それだけでは終わらない。
男の悍ましげな力によって、裕仁は後方へ大きく仰け反ってしまう。そこに追するようにもう一撃、男の蹴りが裕仁の目の前に飛んできた。男の動作の一つ一つは別段速い訳でもなく、特別力が強い訳でもない。動き自体は一般人のそれだ。ただ、図体の割には少々すばしっこい。恐るべきはただそれだけの筈だ。なのにこの男の前ではビル壁の鉄筋コンクリートは砂壁のように砕け、鉄パイプはスポンジのように簡単に折れ曲がる。
この男の攻撃には当たってはいけない。
裕仁の心中に、危険信号の警笛が喧しく鳴り響く。回避しないとお前は死ぬぞ、と体が恫喝してくる。
強張る四肢を無理やりに動かし、裕仁は男から距離をとった。
その行動によって、男の蹴りは裕仁の前で空を切る。しかし、男は直ぐに次の攻撃へと移る。
浮いた足を地につけた瞬間、男は前進して裕仁との距離を一気に詰めた。そして足を刀のように突き出し、裕仁の腹部を貫く勢いで蹴りつけた。
だが裕仁は半歩退き、折れ曲がった鉄パイプに男の足を引っ掛けた。機転を利かした対処だ。それでも男は、まだ余裕だと言わんばかりに片足立ちのまま裕仁に手を伸ばす。ただ、裕仁もされるがままに捕まるわけもない。裕仁は男の足を捉えたパイプを、宝石の力……『ペリドット』の異能力で上へと吹き飛ばした。
するとどうだろう。
突如として舞い上がったパイプによって男はバランスを崩し、後向きへ倒れ込んだ。
だが男は反射的に後方へ飛び上がり、後方宙返りの要領で転倒するのを回避した。筋肉質で重量感のある肉体から想像もできない身軽さだ。アクロバティックな躱し方に、裕仁は思わず開いた口が塞がらなかった。しかし感心している場合ではない。
上空へと舞った鉄パイプが裕仁の手元に戻ったと同時に、流れるような動きで男へ向けて投げつけた。
しかしその結果は明々白々で、舞い落ちる木の葉を払いのけるように手の甲で飛来するパイプを弾き飛ばした。この行為は陽動にもならず、姿勢を低くして駆けてくる裕仁に男は嘲笑すら浮かべた。
「弱いものいじめはいいねぇ。悪くない気分だ。」
男がそう口を開いた直後、裕仁の背後から無数の砂利石が高速で向かって飛んできた。だが男にとっては所詮砂利は砂利に過ぎない。どれだけ速かろうが涼風を浴びるに等しい。最早男は避けようともしなかった。堂々と仁王立ちし、石飛礫を真正面から受け止めた。しかし、それは裕仁にとって幸いだった。
石粒はただの囮。男の気を引くためだけのものだ。裕仁の本当の目的は、男の背後にある。
先程簡単に弾かれた鉄パイプは、男の背後からブーメランの要領で旋回していたのだ。軌道を変えた廃材は、回転しながら頭部を目掛けて襲来する。そして、男はそんな事に気付く素振りもなく、裕仁の姿を見据えている。
遂に折れ曲がった鉄パイプは、男の首元を捉えた。首は人間にとって、最も生命活動に支障をきたす弱点の部分だ。強いダメージが加われば呼吸すら困難になる。骨が折れてしまえば植物状態となってしまう。だからこそ狙った。幾ら防御力が高くとも、流石に少しくらいは負傷させる事が出来るだろう。
案の定、鈍い音が路地に反響する。
男の上半身がぐらりと揺らいだ。
この男を仕留めるにはここしかない。
裕仁はこの刹那を縫うように男の目の前に潜り込んだ。
そして指先を滑らせ、男に触れようとした。
………その時だった。
男の体が柔軟に折れ曲がったかと思うと、裕仁の視界の端から拳が飛んでくるのが見えた。奇妙なまでに、予測不可能な攻撃だった。あたかも損傷があるかのように見せかけ、裕仁を誘い込んで仕留める。男の狩人の目が裕仁の目に張り付いて離れなかった。
裕仁は咄嗟に体を反らし、右腕で男の突きを受け流した。何とか軌道をそらすことに成功するも、妙な回転がかかった所為か、裕仁は体勢を崩した。
たった一瞬にして、形成が逆転した。
男の痛烈な一撃が裕仁の腹部を打った。歯を食い縛るも、思わず溜まった唾液が口から溢れ出た。呼吸が難しい。男の攻撃自体が重いわけではない。いや、重い事には重いのだろう。ただ、異常なのは“拳の硬さ”だった。生身の人間に殴られたような痛みではない。金属バットでフルスイングされたような、突き刺さるような痛楚が襲いかかった。
足が思わず地面から浮き上がる。
堪えようとしても、体が流されて言う事を聞かなかった。脳内も全て消去されるように真白と化し、ただ感じるのは激切な痛みだけだった。
それからは一瞬だった。
景色は流れるように移り変わり、気がつけば夜空を仰いでいた。まだ体は地面についてはいない。宙を吹き飛ばされているのだ。裕仁はこんな感覚を味わうのは初めてだった。
しかし、更に悲劇は終わらない。
裕仁が流されるまま飛び出た先は、なんと大通りだ。
たとえ夜であっても、車も数台行き交っている。そんな車道に投げ出されたのだ。裕仁は体を動かす事ができない。このまま身を任せ、抵抗もできずに車道へ放り出されるだけだった。
だが不幸中の幸いな事に、裕仁は走行中の車のボンネットに落下した。
突如の出来事に驚いた運転手は、思わず急ブレーキをかけて停車させた。それもその筈だ。空から人が降ってきたのだから。
急停車の際、裕仁はその衝撃で止まった車の前にどさりと転がり落ちてしまった。運転手は慌てて降車し、裕仁の元へ駆け寄ろうとした。しかし、その行為は一つの声によって阻まれた。
「おーい。まだ生きてるか?」
この状況に不釣り合いな高い声が、クラクションの間を縫って聞こえてくる。路地の闇から、男は笑いながらのそりのそりと姿を現した。裕仁は途切れそうな意識の中、その男の姿を必死に凝視し続けた。
文句を言いたげに男へ歩み寄る運転手を片手で弾き飛ばし、男は身勝手なまでに喋りだした。
「車が爆発する条件って知ってるか?」
裕仁は身震いがした。
男が発した言葉はこのたった一言だったが、これから起こる出来事を予測できたからだ。
「一般的に多いのは、ガソリンが漏れだして熱を持ったマフラーなんかに触れる事だ。それだけで、至って簡単に爆発は起こる。」
「……………やめろ。」
裕仁は声にならない声で叫んだ。
気がつけば周りには野次馬達の人垣が出来ていた。通行も止まり、軽い車の行列も出来ている。もしも、こんな場所で爆発事故が起これば死傷者が出るに違いなかった。裕仁は車に手をかけながら力を振り絞って立ち上がるも、思ったより痛みが激しくて動く事ができない。それでも今この男を止めなければ、最悪の結果を飾る事になる。
「『芸術は爆発だ』なんて言葉があるだろう? 岡本太郎の言葉だ。俺の場合はちと特殊でな……。」
男は絶やす事なく言葉を連ねながら、車の側面まで歩いた。
「『爆発は芸術だ』」
そう言うと、男は車の扉の少し下……燃料タンクを素手で貫いた。
途端に車体は想像もできない程の爆音を奏で、夜空を炎と煙で包み込んだ。一瞬にして光が広がり、裕仁達の視界は白一色に変化した。唐突の出来事に、劈く耳元に裂帛の悲鳴が飛び込む。この爆発は事故として、またもやニュースに取り上げられる事だろう。
ーーただし、爆発が起こったのは不思議な事に“上空だった”と。
見るも無残に焼け焦げた車体は空から地上へと降り注ぎ、裕仁と男の間に落下した。野次馬達が騒ぎ立てながら四方八方と逃げていくなか、大通りには裕仁と男。
その二人だけが残った。
数秒も経てば辺りは静まり返り、再び静寂が支配する空間となった。
「……てめぇ。」
裕仁は鋭い双眸を男へ投げた。
相も変わらず、男は虚無的な笑みを浮かべていた。更に疑う事に、男は盛大に手の平を打った。高らかな拍手が沈静を引き裂く。
その瞬間、裕仁の中で何かが膨らみ、膨張に耐え切れずに噴火した。




