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22話『正亥での出来事』

《アクアマリン》



オフィスの柱に掛けられた時計を見れば、短針は10の数字を指していた。十四時間にも及ぶ労働を終え、やっと帰宅する時間となった。労働基準法云々などまるで関係がないと言ったとんだ鬼畜企業だ。その上、美静の自宅から通勤するには、二時間程度を要する距離にある遠場に位置する。


だが、その分給料は良いので否定はできない。




何はともあれ本日も無事、上司からの叱責も愚痴も喰らうことなく勤務時間を終了しすることができた。今からこの会社を出たならば、一本先の電車にはゆっくりと歩いたとしても間に合うだろう。美静は椅子に折りたたんでかけておいたベージュのコートを羽織ると、そのまま会社と外を繋ぐ自動ドアを通過した。




外は既に夜の帳が下り、昼間は目立つことのない街灯やビルからの漏光が光源として、闇夜を眩く照らし出していた。“眠らない街”とはよく表現したものだ。そういった現代科学の発展の所為か、今では夜空を仰いだところで小さな星ひとつ見えない。幼少期に暮らしていた田舎なら、ビーズを床にばら撒いたような綺麗な星空が一面に拝めたというのに。まるで少しずつ光の強さが衰退していってしまったかのように、仄かな星彩は人工灯によって空しく掻き消されていた。


ただ、夜間でも昼間のような明るさを保っていたのは都市部分のみだった。少し路地に入れば閑散としていて、明滅寸前の街灯が弱々しく足元を照らすだけだった。大通りのような夜空を焦がす活気もなく、ただ静謐に美静のヒールを履いた甲高い足音だけが響いていた。都市から切り離されたこの路地は、別世界に迷い込んだかのような、何処となく寂しく不気味な雰囲気を漂わせていた。




そんな時、ふと寒気がした。


それは気温や温度といった気候的な寒さからではない。



明らかに、殺意の込められた鋭い視線を浴びたからだ。この感覚は初めてではない。つい“昨日”に経験したばかりだ。


美静は普段から勘は敏感ではない。人からの視線なども気にすることもない。それでも、脅威的な視線は無意識に感じる事が可能な程悍ましく、怨嗟の込められた刃のように美静の背に突き立てた。



美静は、思わずその場で立ち止まって振り返った。

しかし、その場には誰もいなかった。


単なる思い込みだろうか。

昨日の出来事が、この様な妄想を生んでいるのではないか。


美静はそう考えたが、やはりあれは想像などではない。明らかに、気の所為ではなかった。



確実に、誰かが美静の後ろにいた筈なのだ。

しかし、美静の影を追尾している筈である人物の姿はどこにも無かった。なんとも気味の悪い話だろうか。




そんな事を思いながらも、美静は薄々心の奥底では感付いていた。


この視線の正体は、通り魔やストーカーの類ではない。かといって一般市民のものでもない。


恐らくだが、美静をつけ狙っているのは“宝石争奪戦のプレイヤー”だ。いや、恐らくなどという不確定的な言葉は不適切だ。“確実”だ。100パーセント、絶対的にそれだけは間違いなかった。



狙われる心当たりも、不本意だがある。



美静は突如の不安に駆られながら、再び歩き出そうとした。なんでこんな目に合わなきゃいけないのだろう。どうしてこんな不運を毎度掴まされるのだろう。美静はいるのかいないのか分からない神に愚痴をこぼしながら、心早足でその場から逃げ出そうとした。


だが、それは叶わなかった。








美静の目の前に、あの男が立っていた。


昨日、白昼堂々と襲撃を仕掛けてきたあの狂気的な男が立っていた。




「よぉ、昨日ぶりだな。」




最悪の再会だ。

美静は心の何処かで、確実な死を直感した。

不愉快だが、足がすくんで抵抗もできない。

手が震えて思う様に動かない。


今回ばかりは助かる道を見つけることが敵わなかった。




「それじゃあ、とりあえず死ねや。」




男は無慈悲に美静と別れを告げ、固く握られた拳を振り下ろした。













《エメラルド》




夜は特にする事がない。


暇を潰すように毎日街に繰り出し、涼太は適当にコンビニやレンタルビデオ屋を巡っていた。


暇な時は友人はバイトで齷齪と働き、涼太がバイト中の時に限って遊びに誘う連絡が入る。面白いくらいにタイミングが不一致なのだ。




今日も涼太は、いつもと変わらずコンビニで雑誌を立ち読みして時間を潰していた。


ただ、週を越さなければ大して内容の変わらない雑誌が並ぶので、次第に飽きは来る。


それに、最近の雑誌には余り面白いネタがない。一部の客層を狙い過ぎて、その他の読者は置いてけぼりで楽しくない。ほんの少し前ならば、万人受けするような興味のそそられる記事が多かった。…その中には根も葉もないゴシップやでっち上げも多かったが。


それでも目も心も奪われる記事だった事に間違いはない。だが、今はすっかりネタはマンネリ化だ。何でもかんでも最近の流行を取り上げ、まるで攻撃するかのような過剰な表現が主体だった。


涼太は残念そうな溜息を吐いて、雑誌をぱたんと閉じた。流石に立ち読みだけして何も買わずに帰るというのも気が引けるで、涼太は適当に肉まんを買ってコンビニを出た。



スマホの電源を付ければ、画面にはデジタルで22時と表示されていた。これ以上当てもなくほっつき歩くのは面倒の極みだ。購入した肉まんを貪りながら、大人しく家へ帰る事にした。





その帰り道のことだった。



涼太は家への近道である路地へと足を踏み入れた。最近物騒だが、不良程度ならどうということはない。喧嘩慣れしている訳ではないが、涼太は高校時代に少しやんちゃしていた。それのお陰か、最近の見掛け倒しだけの不良程度なら軽くあしらう事ができる。現代の不良など、恐るるに足らないような存在だった。


耳にイヤホンをはめ込み、最近ダウンロードしたお気に入りのバンドの曲を流す。涼太は自分だけの世界へと入り浸っていた。




しかし、涼太は直ぐにイヤホンを外す羽目になる。

















《アクアマリン》




美静は目を瞑り、心の中で硬い覚悟を決めた。しかし、恐怖が心を掌握している。手足が震え、立っているだけでも酷い疲労を感じた。結局は表面上だけの覚悟で、死への恐怖には抗えなかった。






・・・








男が拳を振り上げてから、何秒だっただろうか。未だ振り下ろされない。極度の緊張の所為か、体感時間が狂っているのだろうか。この数瞬が、永遠のように永く感じる。



……それにしても遅すぎる。




そのような疑心を抱いた美静は、恐怖に抗いながらゆっくりと瞼を開けた。


そして、驚いた。






男は拳を振り下ろさなかったのではない。

振り下ろせなかったんだ。




金髪の男が振り上げた拳を、とある少年が美静との間に割り込み、押しとめるような形でしっかりと掴んでいた。それは、あの陰気そうな男ではない。


現代風で、少し上調子そうな少年だった。


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