18話『運命の明日』
《アメジスト》
あの『トルマリン』の小娘に受けた傷は無事に全て回復した。宝石の力のお蔭か、傷跡一つ残らぬ快復だった。だが、怠慢が招いた心の害毒は決して癒えることはなかった。
このゲームの“王”ともあろうものがなんて失態だ。よもや、このゲームをまるで知らない赤子の様な愚民に殺されかけたなど以ての外だ。誇りは唯の小石によって貫かれ、自信の破片は音を立てて崩潰した。
王が赤子に首を取られるなどあってはならない。そう、あってはならないのだ。
だが、一度の失敗で女々しく苦悩する時間は存在しない。勝利は勝利だ。過程はどうであれ、結果は結果だ。どれだけ無様に深い創痍を負っても、どれだけ困難な状況に立たされようと『勝ち』という最終的結果は覆ふことはない。ならば、何時までも頭を抱えて悩むような問題でもないだろう。そう自己暗示をかけても、妙な柵に囚われた気分だった。
…… 絢成は普段通り、あの廃ビルに身を隠していた。電気も点かない闇に包まれた一室で、気分を癒す様に戦果を転がしながら眺めていた。今、絢成の手元には運営から配られた『アメジスト』と巳空の持つ『ムーンストーン』。そして、運の悪い少女から強奪した『トルマリン』の三つの宝石があった。
現在、このゲームで最も有利な位置に立っているのは絢成だ。情報においても、宝石においても、絢成を超えるものはいない。それは間違いない事実だ。
……そして次の標的も既に決定している。
「……翌日、『アクアマリン』を襲撃する。」
絢成は静かな声で巳空へ伝えた。
普段と変容せず部屋の隅で蹲る巳空は、無力気に頷いた。いつも通り文句や愚痴すら一言も零すことなく、絢成の言うことにただ相槌を打つだけだ。人一人を間接的とはいえ殺めたというのに、この変化の無さには奇妙を通り越して不気味に感じる。表情にも嫌悪を表すことはない。目は口ほどに物を言うという言葉があるが、巳空の目はひたすらに濁っている。現実社会の本質を示すように淀みきっている。
絢成が巳空と出会った当初からこれは一切変わってはいなかった。影を好むように路地の隅で屈み込み、何処に行くでもなくただその場に座り込んでいた。そこらの浮浪者よりよっぽど惨めな風貌だった。巳空と言葉を交わしたのは、その時が最初で最後だった。巳空は自身の名前と宝石の種類、そして宝石の力だけを簡潔に告げ、あとは絢成に生死を一任するといったように黙りこくっていた。彼の声は低く冷たく、そして小さかった。だが、彼の容貌とは似つかわしく澄んだ声だった。
絢成は巳空と共に行動することを決めた。
このまま巳空を放置していても、いずれ野垂れ死ぬだけだ。可哀想といったお人好しな感情は無かったが、巳空はどんな酷な判断も一つの頷きで実行してくれる。言わば王に付き従う忠実な下僕に相応しかった。
つい最近の出来事だが、巳空と出会ったのが既に懐かしく感じる。無意識の内に巳空への評価が上がっているのかもしれない。王は下僕を愛ではしない。奴隷同然にモノとして使用する者だ。だが、最近の絢成は巳空をそのような考えとは裏腹に、僅かながら気遣っている。それはあまり宜しくない変化だとも言える。巳空は最後に必ず殺してやると約束した。それまで奴隷は奴隷のままで王に仕えなくてはならないのだ。巳空を斟酌するのは、絢成の抱く理想の王とはかけ離れている。
巳空を信じて背を任せたい自身もいるが、理想を貫き通したい自身もいる。
その奇妙な葛藤が、敗北への憂鬱感と共に絢成の感情を揺さぶっていた。
「……今日は疲れた。もう寝る。」
絢成は力なく立ち上がり、巳空を置いて部屋を出た。そんな事は考えるだけ無駄だ。
一晩寝れば気分も爽快になるだろう。この靄を晴らすためには、今日はもう休むしかなかった。
《アクアマリン》
宝石を無料で貰えるのは嬉しかった。
『アクアマリン』という名に相応しく、透明に近い淡いスカイブルーが光を輝かしく反射している。美しい浅瀬の海を覗き込んだように煌びやかな宝石だった。
神からの贈り物だとも感じたが、実際は悪魔の悪戯だった。
汐崎美静は長い残業を済まし、帰路についていた。
社畜とまではいかないが、優先すべき書類が多く、片付けても片付けても尽きる事はなかった。
美静は、若くして優秀さを認められた数少ない女性社員だ。上司が頼ってくれるのは有難いし光栄な話だ。たまに気遣い、食事にも誘っていただけるのも嬉しい話だ。だが、事務作業で険しい顔をして睨めっこするパソコンは最早、親の顔よりも長く見ている気がする。
有害なブルーライトを防ぐ専用の眼鏡も購入し、目の疲労への気遣いは化粧や美容よりも重要視している。
美静は深く長い溜息を吐いた。
ゲームへの招待状を投函されても、そんな物に構っている暇は無いのだ。翌日にはまた地獄のような書類整理が待っている。無職の暇人共で勝手に宝石を奪い合っていればいい。美静には関係の無い話だ。
帰宅するのはいつも深夜0時を過ぎている。鍵を開けて玄関で靴を脱ぎ捨てると短い廊下を早足で通り抜けると、安いベッドに力無く倒れこんだ。暫く体を休めるように寝転がった後に入浴し、軽い夜食を済ませる。毎日決まったカップ麺を虚しく啜る日々だ。コンビニで弁当を購入するよりかは安くで召しあがれるし、時間も三分と短時間で済む。暫く料理もいう行為は行っていないだろう。金と時間はなるべく使わないように節約しているのだ。
一時間程度何をするでもなくソファーに無気力に座り込み、そして深夜2時頃にようやく就寝。そして午前6時には目覚めて出勤の準備をする生活だ。
当初は一人部屋で弱音を零す暮らしだったが、そんな境遇にも既に慣れた。慣れとは恐ろしいもので、次第にこんなストイックな生活も当たり前に変わる。休日でも自然と体は午前6時に目覚め、特に趣味も無いので家で一日を呆けて過ごしている。
そんな自分自身に美静は嫌気がさしていた。
いつからこんな事になってしまったのか。
ほんの少し前は、大人とはもう少し自由で楽しいものだと思っていた。だが現実は違った。会社という鳥籠に自由への翼をもがれ、飼い慣らされ、束縛される。だが給料は他社と比べてやや高めなので否定もできない。まさに籠の中で大人しく餌付けされている気分だ。
しかし眠ってしまえば、そんなまだるっこしい事は考えなくて済む。人間が安息を得れるのは睡眠時間だけだと美静は考えている。
ベッドと布団の隙間に深く潜り込み、美静は無心で目を閉じた。
明日が人生の正念場になるとも知らずに、自由な明日を望んで夢を見た。