19話『常識の欠落』
《アクアマリン》
何ら変色のない日常だ。宝石を貰って既に数週間と経過したが、まるで何も変わらない。
今日だって普段通り出勤し、普段通り事務作業をこなし、普段どおり時間は過ぎていく。
倦怠感が網羅する日常に刺激を求めるOLでも、殺し合いには手を染めないのだろうか。美静はそんな事を考えながら、電子画面を睨み続けていた。
ーーそして午後1時。漸く昼食時間だ。
社内に食堂はあるが、外の空気も吸いたいという理由から、美静はいつも社外のレストランなどで昼食を取っている。その習慣は長く、近くに立ち並ぶ店はかなり制覇した。路地裏の名店というのは本当に存在するもので、大通りに並ぶ大手チェーン店に比べても味が上質だった。蕎麦屋やラーメン屋、串カツ屋に、珍しくオムライス専門店なども存在していた。青いソースがかかったオムライスはかなり衝撃的だった事を覚えている。
本日は何処で食事を取ろうかと街を散策していると、何やら向こうの大通りが騒がしい事に気が付いた。普段そんなことには興味はないのだが、余りにも騒然としているので少しばかり行ってみることにした。
交差点の向かい側。何かあったのかと覗いてみると、風変わりな情景が目の前に広がっていた。
そこには、ペストマスクを被った人間が後ろに沢山の人形を引き連れて歩いているという奇々怪々な姿があった。ファンタスティックでもなければ、メルヘンチックでもない。ただ非常に気味が悪かった。
だが、自身が把握していなかっただけで、何かの記念パレードだったのかも知れない。でなければこの様な珍列は形成されないだろう。
様々な国の人形が列をなして歩行している。
人形の中に入っている人もさぞ羞恥や苦悩などを感じていることだろう。御愁傷様としか言いようがない。
不思議な出来事もあるものだと思い、美静は再び歩き始めた。
だが、その足はすぐに止まった。
美静の目前。
流れゆく人の中に、金髪に摩訶不思議なタトゥーの入った男性がこちらを見つめるように立っていた。
相手が誰なのかは知らない。だが、不思議と体が萎縮し、脳内で警鐘が鳴り響いていた。
あの男性は危険だ。
美静は目を伏せ、荒波を立てぬよう静かに通り過ぎようとした。美静は事勿れ主義だ。厄介な出来事に巻き込まれない様に影を潜めるのは得意中の得意だ。今回も、何時もと同じ様に頭身を下げて横へ並んだ。
その瞬間、その男に声をかけられた。
「ーー死ぬのは怖いかい?いいや、怖くないさ。死は正真正銘の自由だ。誰からも干渉されず、会社という鳥籠からも飛び立てるんだ。序でにこの世の柵からもね。」
美静は振り返ることなく全速力で逃走した。
誰かから恨みを買った覚えはない。そもそもあの男のことを美静は微塵も知らない。ならば不審者だろうか。それにしては正々堂々と大通りで声を掛けてきている。金髪にタトゥーとは余りに悪目立ちし過ぎだ。だったらただの世間話をしに来た兄さんだろうか。だが、死ぬなどと言葉にしているあたり平和な話題では無かった。
寧ろ、答えは一つしかない。
宝石争奪戦の『プレイヤー』の一人だ。賞金に煽られた哀れな若者だ。
「……厄日だわ。」
まさか本当に宝石を奪いに来る者がいるとは想像だにしなかった。こんな馬鹿げたゲームを間に受けるような輩が存在するとは思っていなかった。心の中で暴言を吐き捨てても、幾ら鬱陶しそうに舌打ちしても、この鬱憤は晴れることはなかった。
美静は必死に足を回した。普段運動しない所為か、上手く走る事が出来ない。その上、会社には大体ヒールで出勤する。最も運動に適さない靴だと言ってもいい。
なのに、あの男は一向に追いついてこない。
それ程走るのが遅いのか。
いいや、違う。
あの男はわざと追いつかないように走っている。このゲームを楽しんでいる証拠だ。格好からして馬鹿だというのに、中身まで狂ってる。あの男は明らかに、神様の失敗作だ。
運がいいのか悪いのか、大通りと言ってもこの時間帯はかなり空いていた。車通りは多いが、歩道にはまるで人はいなかった。美静は途中でヒールを脱ぎ、手に持ちながら走った。舗装されているお蔭か、足裏に余り痛みはなかった。だが結局、商店街に地下通路、様々な路地を駆使してもあの男を振りきれはしなかった。
そして一つ妙なのが、何度もすれ違う一人の男性の存在だ。癖っ毛のある黒髪に澱んだ目。一度見たら忘れないような冷ややかな眼光は、ここ数分の間に何度もすれ違っている。まるで後を追うように……いや、逃げる先を読まれるように。
恐らく、その不吉な男も宝石所持者なのだろう。金髪の男の仲間だと仮定できる。攻撃してくるつもりは無いらしいが、念の為に美静は所持する宝石ーー『アクアマリン』の力をその不審な男性に行使しておいた。
だからと言って何かが変わるとは思えないが、気休め程度にはなるだろう。問題はあの金髪の男だ。奴を振り切らない限りは、美静に平穏は訪れないだろう。
ならば、人生を賭けた博打に身を投じる他ない。
美静は大通りに飛び出し、点滅している信号へと身を乗り出した。
既に赤へと変わる直前。美静は絶好なタイミングだと初めて信号に感謝をした。次に信号が青へ変わるのは大体1分程度。それだけあれば奴を撒ける可能性はある。
だが、何事も思惑通りにいかないのが現実だ。
金髪の男は人の運動能力を超越した速度で、赤へと変わった信号へ飛び出した。大通りの距離の長い信号とはいえ、その速度では1秒を満たぬ内に渡り切るだろう。あの超人的な身体能力が、金髪の男の持つ『宝石の力』なのだろう。美静の持つ『アクアマリン』とは比べ物にならない上位の能力だ。まともに戦って勝機など万に一つもない。
だが、美静は笑った。
まるで“作戦通りに上手くいった”と言わんばかりに口角を吊り上げた。
「……お前の『常識』を一つ『消しておいた』。」
男は既に横断歩道の半分を渡りきっている。
美静に迫りくるまであとコンマ数秒に等しい。だが、美静はその場から動こうとしなかった。
男は遂に反対車線へ踏み込んだ。
美静への距離は僅か数メートル。
今から動き出しても、もう間に合わない。逃走は不可能だ。
だが、男が美静の元へ辿り着くことはなかった。
気がつけば、男は道路に倒れ伏せていた。
横断歩道が赤信号ということは当然、車線は青信号だ。スピードに任せて直進してきた大型トラックに、奴は側部から思い切り衝突したのだ。トラックの運転手は慌ててブレーキペダルを踏むも、最早事後だ。そのまま男は吹き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられた。生で見るのは初めてだった。これは俗に言う交通事故だ。
可哀想なことに、被害者はどちらかと言えばトラックの運転手だろう。男は『宝石の力』によって目にも留まらぬ速さで駆け抜けてきた。気づけるはずがなかった。赤信号の信号無視に加え、その素早さによる飛び出し。もしブレーキを踏んでいたとしても、衝突は免れなかっただろう。
「人生は何事も上手くいかないもんね。今回お前が学ぶべき事は、『赤信号は渡ってはいけない』だ。思い出したか間抜け。もう一度小学生からやり直せ。」
捨台詞を吐き、美静はヒールを履く事も忘れて路地の中へと走り去った。
青いオムライスは、実際に近所にありました。
……流石に食べようとは思いませんでした。




