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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第3巻 第十九話 正しく凍る式

ノアは配分局の長机に、平均表、冬季原票、王都工房の予約簿を三列に置いた。そこへラグナの現物記録を加える。欠けた臼の歯、桶の継ぎ目を写した紙、焦げた毛布、学校の古い名札。机の上は報告書というより、冬を越せなかった生活の小さな残り物になった。


 局長は最初に式を確かめた。分子、分母、登録人数、余力の順。計算に誤りはない。ノアが再計算しても、答えは同じだった。年間の総量では、ラグナは割当を使い切ってさえいない。春と夏に余った分が、寒波週の不足を帳面の上で相殺している。


「なら、規程は正しい」


 局長は言った。


「不足した日があっても、年間で不足していない。王都の予約を削って補う理由にはならない」


 ノアは焦げた毛布を広げなかった。物を痛みの飾りにする気はなかった。ただ、平均表の一月十四日の欄へ置いた。


「正しいです。式が約束したものについては」


「何を約束した」


「年間の公平です。一年に同じだけ配る。ですが、炉が必要なのは年ではなく刻です。治療所の薬湯、牛の水、子どもの椀、製粉所の臼が同じ朝に重なる。余った六月の熱は、一月の凍った指を温めません」


 局長は窓の外を見た。王都の空は晴れている。ここでは、暖かい記録庫の炉が静かに燃えている。


 ノアは黒板へ、簡単な線を引いた。横に日を並べ、冬の七日だけ高い柱を立てる。次に、式の線をまっすぐ引く。線は柱を越えない。越えない分が不足だ。式は異常を消すのではない。異常を要求として扱わない。それが仕様だった。


「では、寒波に備えて村が蓄えればいい」


 局長は言った。


「蓄えの器も、冷えます。石は治療所へ回り、薪は湿り、粉は臼が止まれば増えない。現物の余りを、いつでも使える余りと数えるのも同じ間違いです」


 ノアは製粉所の交代札を差し出した。人の腕にも、夜を越える上限がある。計算式は石の残量を持つが、夜番の眠気も、火鉢を借りる学校も、桶の氷も持たない。


 配分局の若い書記が、小さく息をのんだ。彼は第十七話で原票を出した男だった。


「寒波週を計算に戻せば、王都の優先枠が減る」


「減ります」


「義手工房も、病院も、軍の補修も契約を結んでいる」


 局長が帳簿の青い蝋印を押さえた。王都は工房へ、特定の刻に一定の熱を渡すと約束している。式を変えてその刻を辺境へ振れば、契約違反になる。違約金だけではない。途中で火を細らせた釜の損失を、組合と工房の下働きが被る。正しい式を悪意として責めれば、別の生活を紙から消すことになる。


 ノアは頷いた。


「だから、式を秘密に書き換える案では駄目です。契約を破るなら、破る側と被る側を見せる。変えないなら、ラグナで誰が凍るかも見せる。その二つを同じ机に置きます」


 局長は長く黙った。答えのない沈黙ではない。署名のある紙と、署名を失った死者のあいだに、どちらも消せない重さがある。


 やがて彼は式の下に赤字を書いた。『季節上限・未設定』。誤りの印ではなく、仕様にない項目の印だった。


「契約会議を開く。だが、今月の式は変えられない」


 ノアは黒板の柱を消さなかった。正しく計算された結果として、ラグナは次の寒波でも凍る。契約があるからといって、その事実まで正しくなるわけではなかった。


 局長は、議論をそこで終わらせなかった。配分器室へ行け、と鍵を渡した。石壁の向こうでは、今この刻も各地へ熱を割り当てる器が動いている。止めれば王都の共同炉も、遠い村の蓄魔具も同時に揺らぐ。確認のために止めることはできない。


 配分器は腰ほどの高さの青銅箱だった。前面の細い窓の奥で、刻印の付いた円板がゆっくり回っている。左の溝へ各地の年間量を記した札が入り、右の溝から当日の配分札が出る。監視役の女が、出てくる札を一枚ずつ受け、封をして配達籠へ移していた。


「触るなら、窓から読むだけにしてください」


 彼女は言った。


「歯を一つでもずらせば、次の刻の札が変わる。変わった理由を、今から待っている家へ説明できません」


 ノアは手を背に回し、窓の内側を読んだ。ラグナの札が、黄色の春夏束と青い冬束を通る。青札は途中で小さな脇溝へ滑り、主の歯車へ届かない。脇溝の底には『臨時補正』と刻まれていた。そこで丸められた数は、翌月の余力箱へ落ちる。


 器は壊れていない。札を正しく読み、規程どおりに青札を分け、年間の線を越えない配分を出している。ノアは、動く歯車の音を聞きながら、これまでなら「故障ではない」と書いて席を立てたことを思った。


 壊れていないから直せない。そう言えば、原本の余白も、凍傷の足も、自分の担当外にできる。


 その逃げを、ノアはもう使えなかった。


 午後、クレイ・ホルンから照会状が届いた。王都供給契約の代理人として、冬季例外を入れた場合の不足先を明示せよ、とある。文面の下には、薬液保温、義手留め具、共同炉用の熱石と、契約先が列になっていた。青い契約印が三つ、乾いた蝋で紙へ押されている。


 ノアは返書の前に、配分器から出た札を三刻分写した。ラグナへ寒波週の量を戻すには、義手工房の待機枠だけでは足りない。病院の薬液保温か、共同炉の予備か、契約で確保されたどこかを削る。クレイの照会は脅しではない。どの印を破れば、誰の手当てや仕事が遅れるかを尋ねていた。


 彼は器室の監視役へ、村へ出す説明札を一枚もらった。配分量だけが書かれた、いつもの小さな紙だ。その裏へ、青札が脇溝へ落ちる絵を描いた。寒波の七日は、量が無かったからではなく、年間の線を守るために主の歯車へ入らない、と。


 夕方、ノアは王都の工房街で、それを住民へ説明した。義手を待つ少年の母、共同炉の湯を受けに来た老女、帰り支度をする職人が足を止める。ノアは、辺境のために王都を責める言葉を選ばなかった。


「この器は、皆さんへ約束した量を出しています。ですが、同じ約束の外側で、毎年冬に届かない村があります。冬の札を戻せば、ここへ来る熱の一部も減ります」


「誰が決める」


 職人が聞いた。


「今までは、誰にも見せずに器が決めていました。これから変えるなら、契約の印を持つ人と、減る熱を受ける人と、凍る村の人が一緒に決める必要があります」


 少年の母は、息子の手袋を握ったまま黙っていた。老女は説明札の絵を見て、裏返した。分かったから頷くのではない。自分の暮らしも削られるかもしれないと、初めて紙で見た顔だった。


 夜、ノアはクレイへ返書を書いた。寒波週の量、削られる契約枠、現物記録、説明を聞いた者の数。最後に、配分器は仕様どおり動いている、と記した。その一文のあとへ、だから変更には契約当事者の署名が要る、と続けた。


 冬の値を主の歯車へ戻すことは、計算の修理ではない。王都が押した印の約束を、誰が引き受け直すかということだった。


 次の日、ノアは配分器室で一刻だけ札の流れを見守った。止めずに読めるよう、監視役が出た札の時刻を声に出し、彼が控えへ写す。王都病院、義手工房、北の谷、ラグナ。器は迷わない。青銅の歯が札を噛み、決められた量を決められた籠へ送る。


 ラグナの青札が脇溝へ落ちるたび、ノアはその刻を記した。故障なら、歯を取り替える理由にできた。誰かの改竄なら、封を切る理由にできた。しかし器は帳簿の印と一致し、原本の規程と同じ動きを繰り返す。何も壊れていないことが、最も重い確認だった。


 監視役の女が言った。


「あなたは、直す人でしょう」


「そう思っていました」


「なら、動いているものを止めるのも仕事ですか」


 ノアはすぐに答えなかった。義手の金具を待つ少年、共同炉の湯を待つ老女、ラグナで朝を待つ寝台。そのどれかを、配分器の外へ置いて直すことはできない。


「止めるなら、先に説明します」


 彼は言った。


「誰にも見えない溝へ落とす形では止めません」


 その日の夕方、クレイから短い返事が届いた。照会内容は確認した、契約印のある枠を一方的に減らせば、代理人は違約の処理を開始する、と。末尾には、義手工房の引渡し日と病院の薬液保温の刻が添えられている。相手もまた、誰かの生活をただの印とは扱っていない。


 ノアは返書を畳まず、翌日の説明会へ持って行くことにした。契約の紙と、青札の写しを同じ机へ置く。壊れていないから触れないという逃げは、紙を別の場所へしまうことにすぎない。


 器室を出る前、ノアは窓の中の脇溝を見た。そこには今も、寒い朝の七日が小さな札になって溜まっている。歯車は静かに回り続け、札を捨ててはいない。ただ、届けるべき籠から外している。彼はその事実を、これ以上「仕様」の一語へ隠さないと決めた。自分の署名の後ろにも。王都とラグナの人々の前で、逃げずに。


 式を変更することは、契約違反だった。

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