第3巻 第十五話 粉にならない麦
エマは、麦袋を持ち上げたまま動けなかった。
家の隅には、冬用に残した袋が三つある。中身を数えれば、七日分はある。村の帳面にも、各家の備蓄は足りると書けるだろう。
だが袋の麦は、そのままでは弟の口へ入らない。
ユリクは治療所から戻っていない。薬湯を飲めるまで温まったとナダは言ったが、固いパンを噛む力はまだない。粉がなければ、粥も作れない。石臼が止まった村では、備蓄は食べ物になる前の重さだった。
「姉ちゃん、これ、挽けないの」
隣家の少女が、木の椀を持って戸口に立っていた。昨夜、学校で火番をした子だ。椀の底には、ふやかした古い粉が少しだけ残っている。
「製粉所が止まってる」
「うちの臼は小さいから、やる?」
少女の家には手回しの臼がある。だが一椀分を挽くのに、二人で半刻かかる。指がかじかめば、石を回す力もなくなる。エマはそれを知っているから、すぐに頼めなかった。
村の道を下ると、家の前に麦袋が並んでいた。皆、自分の袋を持ち出している。誰かが飢えたのではない。粉にならないなら、今のうちにどうするかを聞きに来ている。
「うちはあと二日分の粉がある」
老女が言う。
「でも孫が熱を出した。粥にするなら、明日でなくなる」
「乳を搾れなかった家は、粉を多く使う」
メラが、空の桶を脇へ置いた。
「子牛へ飲ませた分、人には回らなかった」
エマは袋を地面へ置いた。村長代理として、余っている家から集めて配ればいい、と言えば早い。だが備蓄は、春までの種にもなる。手回し臼を持つ家へ麦を集めれば、その家の手だけを夜まで使わせることになる。
「製粉所へ行く」
エマは言った。
共同製粉所の戸は半分だけ開いていた。ブラムが臼の周りへ油布を掛け、石を冷えから守っている。中には粉の袋が六つ。どれも明朝の配給へ回す予定だった。
「回せないんですか」
エマが聞く。
「回せば治療所の熱が減る」
「一刻だけでも」
「一刻動かして止めると、臼が次に回るまで温まらん。昼の熱を食って、夜の粉も少なくする」
ブラムは言いながら、石臼の隙間へ指を入れた。冷えた石は、粉を細かく砕く前に麦を弾く。中途半端に回せば、粒の残った粉が増え、子どもの粥へ使いにくい。
「家の備蓄だけでは、吸えません」
エマは言った。
「袋はある。でも、粉にする手と時刻がない。学校の子に手臼を回させるのも、牛舎の人に夜まで働かせるのも違う」
ブラムは油布を外し、臼の歯を見た。
「なら、夜を分ける」
「夜を」
「治療所の薬湯が落ち着く刻まで、臼を止める。そのあと一刻だけ、ここを回す。粉を挽いたら止めて、残りをまた治療所へ返す。牛舎の朝へ間に合うよう、粉の袋は夜のうちに各家へ出す」
「それでは、あなたが夜通しになる」
「一人では回さない」
ブラムは戸の外の麦袋を見た。
「臼の音を聞ける者と、袋を縫える者と、粉を運べる者を交代で出せ。石を回す腕だけが製粉じゃない」
エマは村の人たちを振り返った。手臼を持つ少女の父、牛舎のメラ、学校のティナ、治療所のナダ。誰もが自分の火を失いたくない顔をしている。それでも、粉にならない麦を袋のまま抱えて帰るつもりではなかった。
「夜の交代を、村で決める」
エマは言った。
「ただし、治療所の火を勝手に削らない。学校の子どもを夜番へ出さない。牛舎の朝番を残す」
ブラムは、止まった臼の上へ手を置いた。
「それでいい。夜間交代運転にする」
石臼は、まだ一度も回っていない。けれど麦袋を抱えた人たちは、誰が何刻にここへ来るかを話し始めた。
粉にならない麦が、夜の当番を待っていた。
エマは村の名簿を開かなかった。代わりに、ブラムの前へ三つの椀を置いた。治療所へ回す柔らかい粥用、子どもの朝用、働く者が持ち出す硬いパン用。粉が少なければ、どれかを作れない。
「夜に挽く粉は、全部同じにしない」
ブラムが言った。
「粥の分を先に細かくする。残りは粗くてもパンにする。袋ごとに行き先を決めてから臼へ入れろ」
エマは頷いた。備蓄を集めるだけなら、村長代理の仕事に見える。粉になる順番まで、治療所と家と牛舎の朝を知る人たちと決めなければ、麦はまた誰かの空腹を隠す。
戸の外では、袋を抱えた者たちがまだ待っていた。エマは一人ずつ、袋の口を見た。種籾と同じ袋に入れている家。粉が残り半椀しかない家。老人一人の家。乳が減った家。
「全部を集めません」
エマが言うと、ざわめきが止まる。
「今夜挽く分を出せる家だけ、半袋ずつ持って来て。種と、明日の朝に食べる分は残す」
「誰が半袋を決める」
老女が聞く。
「各家が言う。私は、足りない家が先に粉を受け取れるよう、椀の行き先を聞く」
村長代理が取り上げる形にはしない。だが言わせたまま、声の大きい家が粉を多く持ち帰るのも違う。エマはブラムへ視線を送る。
「粉袋には、粥、子ども、持ち出しと印を付ける。受け取る時、家の人だけでなく学校か治療所の人が一人見る」
「監視するのか」
「間違えて渡した時に、戻せるようにする」
ブラムは臼の横の板へ、夜の刻を書いた。薬湯が落ち着く刻、臼を温める刻、粉を袋へ詰める刻、牛舎が起きる前に止める刻。石臼を回す男の字は大きく、粉塵で白い指が震えていた。
「交代は四人。臼の口を見る者、麦を入れる者、袋を縫う者、外へ渡す者」
メラが、牛舎の朝番を残すため一刻目だけ来ると言った。ティナは学校の子どもを出さず、避難している父親を一人出すと言う。ナダは治療所を離れられない代わり、粥に必要な粉の細かさを紙切れへ書いた。
エマはその紙切れを受け取った。粉にならない麦は、誰かが怠けたせいではない。熱の刻が、麦が臼へ落ちる刻と合わないせいだ。
ブラムは油布を外し、石臼の柄へ手を掛けた。
「夜になったら回す。回したら、朝までに必ず止める」
止まった臼の前で、エマは初めて、麦袋がただの備蓄ではなく、村の夜を分ける重さだと感じた。
夕方、エマは家へ戻り、残した麦袋を一つ開けた。底には、春に蒔く分が混じっている。弟が元気なら、来月には畑の筋を一緒に作るはずの種だ。今夜の粥へ回せば、春の畑が少し減る。残せば、今夜の椀が一つ減る。
エマは袋を縛り直した。自分の家の分だけ先に決めないため、製粉所へ半袋を持って行く。種は残す。粥用の粉を受け取る家が、自分より先になるかもしれない。
戸を叩いたのは、治療所のナダだった。
「ユリクが、粥なら食べられると言ってる」
エマの手が止まる。
「粉は」
「夜の臼を待つ」
ナダは答えた。
「あなたの家の麦を急がせるためには来ていない。粥が必要な寝台は三つある。細かい粉がどれだけ出るか、ブラムに伝えた」
エマは泣きそうになったが、袋を抱え直した。
「私も夜番へ行く。臼を回す役ではなく、袋の行き先を見る」
ナダは頷く。
「それなら、ユリクの椀も他の椀と同じ順で待てる」
夜の製粉所では、石臼がまだ沈黙していた。粉になる麦を待つ家々の袋が、壁際に並ぶ。エマは自分の袋へ小さく印を付け、粥用の列の最後から二つ目へ置いた。
ブラムが灯を見上げ、交代の者たちへ言った。
「薬湯が落ち着いた。臼を回す」
石が最初に動いた音は、眠れない村のどの鐘より低く、長く響いた。
けれど、音が出たからといって、袋がすぐ軽くなるわけではなかった。石のあいだからこぼれる粉は、最初は爪先ほどの細さで、受け桶の底に白く貼りつくばかりだった。麦を入れるメラは、眠気で一度、手元の札を取り違えかけた。外へ渡す役のティナは戸口の冷気に当たりながら、同じ問いを何度も受ける。
「うちのパンは、何枚薄くなる」
その言葉を聞くたび、エマは袋の口を結び直した。粉が一袋分たまるまでに、粥用の札が三枚、子ども用の札が二枚、朝に働く者の札が四枚、灯の下で待っている。どれか一枚を先へ出せば、残りの誰かのパンは薄くなる。粥を水でのばす家も、子どもの分を半分にする家も、今夜のうちに決まってしまう。
ブラムは石臼の縁へ耳を寄せ、粉の出方よりも石の唸りを聞いていた。止める刻を過ぎれば、翌朝の治療所まで臼が使えなくなる。彼の目の下にも、油煙の影より濃い疲れがあった。
「二刻で交代だ。腕が震えた者は、粉を量る役へ移れ」
命令というより、倒れずに朝まで持たせるための提案だった。誰も返事をしなかったが、メラは空いた手を握って開き、次の者へ柄を渡した。石が止まれば、待つ袋はみな同じ紙切れに戻る。だから夜番の疲れも、誰か一人の我慢にしてはいけなかった。
エマは壁際の荷札を数えた。自分たちの村の列の隣に、隣村へ朝出す予定の袋が二つあった。これをこちらへ回せば、ユリクの粥も、今夜の子どものパンも少し厚くできる。札の裏には、細い字で「西の村・治療所・明朝」とある。
一度だけ、エマはその袋の縄へ手を伸ばした。隣村の顔は浮かばない。それでも、向こうにも熱で噛めない者がいて、炉の前で薄いパンを待つ子がいるだろう。村の境を越えた途端に、その椀を軽く扱うことはできなかった。
「これは動かさない」
エマは手を引いた。
「他村の分まで削って、うちだけ朝を越えることはしない」
ティナが戸口から振り返った。待っている家へ、何と伝えるのかという顔だった。エマは粥用の札を取り、今夜出た粉を三つの椀に分ける印を書き足す。自分の家の印は、その下だった。
「足りないことは隠さない。薄くなるパンを決めるのも、ここで私が一人で決めない。今夜出る粉は、寝台と子どもの椀へ先に渡す。朝のパンは、各家で量を見て決めてもらう」
厳しい言い方だったが、誰の分を奪ったのか分からないまま配るよりはましだった。ティナはゆっくり頷き、一袋目を持って戸を開けた。
夜半、受け桶がようやく一つ満ちた。石臼の音はまだ低く続いている。エマはその粉袋を抱え、最初の家へ向かった。腕の中の重さは足りなかった。それでも、隣村の二袋が壁際に残っているのを見て、足を止めなかった。夜間交代運転は、粉を増やすためだけではない。誰の朝も、見えないところで削らないために回すのだと、エマは初めて分かった。




