第3巻 第十一話 夜明け前の治療所
夜明けの鐘より前に、エマは治療所の戸を三度叩いた。
返事はすぐには来なかった。中では炉の火が小さく鳴り、誰かが椀を置き損ねたような音がした。雪を踏んだ靴のまま待っていると、木戸が指二本ぶん開く。薬師のナダが、毛布を肩へ掛けたまま顔を出した。
「ユリクが起きた?」
「起きたけれど、起きられません」
エマは戸を押し開けなかった。中の熱を逃がさないため、ナダが脇へ寄ってから素早く身を滑らせる。寝台は四つしかない。その一つに、弟のユリクが横たわっていた。頬の色は昨夜より戻ったが、唇はまだ青い。胸の上には小さな蓄魔具が置かれ、青い石の中で火種ほどの光が縮んでいる。
「手は」
エマが聞くと、ユリクは目だけを動かした。
「指は、まだ痛い」
声が出るなら、少しはましだ。エマはほっとしかけ、弟の足元に置かれた湯袋が冷えていることに気づいた。湯袋を替える役の老人が、眠ったまま椅子からずり落ちそうになっている。
ナダが蓄魔具へ触れた。
「日の出前に切れます」
「昨日、ラグナから熱を送ったでしょう」
「送った分は、夜のうちに使いました。凍った人を温める熱と、薬を煎じる火と、ここを人が眠れるところまで戻す熱。どれも同じ流れから取っています」
ナダは答えながら、寝台の隣で眠る女の手首を持ち上げた。女は山向こうの家から運ばれた。凍った靴を脱がせる間に足の皮が剥け、歩けない。ユリクだけを見ていれば、ほかの寝台の呼吸を聞き落とす。
エマは炉の前へしゃがんだ。薪はある。だが、濡れた薪では朝までに室温を上げられない。蓄魔具が持つ間に乾いた薪へ火を移す必要がある。
「学校の避難室から、火鉢を一つ借りられる」
ナダが言った。
「でもあちらも、子どもが起きる前に火を入れなければならない」
「牛舎は」
「乳搾りの前に、桶の水を割らなきゃならない。火を取れば乳が止まる家が出る」
同じ一つの熱が、寝台、火鉢、牛の水桶のどれかになる。エマは村長代理として、そんな言葉を昨日から何度も聞いた。けれど目の前のユリクのまぶたが、寒さで細かく震えるのを見ると、比べること自体が腹立たしかった。
「蓄魔具を、ユリクへ多く回せない?」
ナダはすぐに首を振らなかった。
「回せます。ですが、隣の人の薬湯が冷えます。薬が効かなければ、昼まで熱が下がらない」
エマは弟の顔を見る。ユリクは聞いていた。十四歳のくせに、痛む指を毛布の中へ隠して、ナダの方を見ている。
「俺は、あとでいい」
「あとではない」
強く言い過ぎた。ユリクは目を閉じる。
「学校の子は?」
「まだ寝てる」
「なら、起きるまでだけ、こっちに使えるだろ」
ナダが炉の火を見たまま言う。
「日の出前の一刻だけなら、治療所へ増やせます。学校が火番を始める時刻に戻す。その一刻で、薬湯を二回替え、寝台の人を動かせるかもしれない」
エマは答えを急がなかった。村の火番表は、学校へ集まった家族が自分たちで作ったものだ。村長代理の印で、勝手に一刻を取れば、子どもたちの朝を誰かへ押しつける。
「ユリクを動かすなら、どこへ」
「ラグナの治癒院です。ただし山道はまだ固まっていない。蓄魔具が切れる前に荷車へ載せても、途中で冷えれば危ない」
ナダは、寝台の横に置いた細い板を示した。夜明けまであと半刻。そこへ、蓄魔具の青い光が消える見込みの刻が炭で書かれている。
エマは板を裏返した。裏には、同じ字で「日の出前、学校へ返す」とあった。
「一刻だけ借りる。学校へは私が行って話す」
「決めるのか」
ナダは問い返した。
「決めない。頼みに行く」
エマは立った。ユリクの毛布を首まで直し、額に触れた。冷たい。けれど昨夜の石のような冷たさではない。
戸を開けると、夜の底に牛の鳴き声がした。村のどこかで、早朝の乳搾りが始まろうとしている。治療所の蓄魔具は、日の出前に切れる。
エマは学校へ走らず、先に裏の物置へ回った。そこに、患者をラグナへ運ぶ二輪車がある。荷台の縄は夜露で固くなり、毛布を敷く板は凍っていた。弟を乗せるなら、蓄魔具の熱が残っているうちに板だけでも温めなければならない。
「車を出すのか」
ナダが戸口から見ていた。
「まだ出さない。道が固まったか、橋の縄が張れるかを見ます」
「見に行く人が冷える」
「だから、私が行く」
村長代理の言葉としては足りない。エマは知っている。自分が行けば、学校へ頼みに行く者がいなくなる。治療所で湯を替える手も一つ減る。それでもユリクの荷車を、道が悪いと分かってから慌てて出すわけにはいかなかった。
物置の奥から、松脂の匂いがした。村の老御者が、車輪の軸へ脂を塗っている。
「夜のうちに出せば、橋で止まる」
「日の出まで待てば、蓄魔具が切れる」
「だから橋まで歩いて見た。雪は膝下、渡し縄は残ってる。二人で押せば行ける。だが荷台へ寝かせる人が、途中で冷える」
御者は毛布の端を引き、荷台の隙間へ藁を詰めた。
「温める熱は、道へ持っていけない」
エマは荷台を見た。治療所の一単位が、ここではユリクを乗せる前の板を温める火になる。薬湯を一回我慢させれば、車輪は動くかもしれない。だが、妹のように寝台で待つ女の熱が上がれば、誰を車へ載せるかがまた変わる。
「ユリクは、朝までここに置く」
ナダが言った。
「薬湯を先にする。車は日の出の明るさを待つ。運ぶなら、ほかの寝台の人も一緒に見て決める」
エマは反論しかけ、御者の手を見た。節の太い手が、藁を何度も押し込んでいる。弟一人だけを急がせれば、同じ車を待つ別の患者の順番を見ないことになる。
「学校へ行く前に、火を借りる理由を全員へ言います」
「頼む側が言え」
ナダは、薬湯の鍋を火へ掛け直した。
エマが教室へ着くと、まだ鐘は鳴っていなかった。窓の曇り越しに、火鉢の赤が見える。ティナと、炭を持つ子どもたちが戸口へ出てきた。
「治療所が一刻ほしい」
エマは言った。
「ユリクだけのためではない。薬湯を替えなければならない人がいる。日の出まで借りて、学校が起きる時刻に返す」
子どもたちはすぐに頷かなかった。少女が火番表を見た。
「返す時刻が遅れたら」
「私が火鉢の前へ来て、理由を言う」
「言うだけ?」
エマは一度息を飲んだ。
「遅れたら、村長代理の家の薪を先に出す。学校の火を、ほかの家へ押しつけない」
ティナが頷いた。
「その言葉も、火番表の端に書く」
エマは炭を受け取り、自分の名を紙へ書いた。弟の寝台から離れる間に、火の一刻を借りる責任も置いていく。
治療所へ戻ると、ユリクは目を開けていた。青い蓄魔具の光は、爪の先ほどに細くなっている。
「学校は」
「一刻、貸してくれた」
「返せる?」
「返す」
エマは答えた。炉の火が一度大きく鳴り、薬湯の表面に小さな泡が立った。
ナダが蓄魔具の青い石を外し、残ったぬくもりを寝台の間へ回す。ユリクの足元へ置く時間は短い。隣の女の薬湯が沸けば、また鍋の方へ戻す。
「触っていて」
ナダはエマへ言った。
「冷えたら言って。眠ったから大丈夫とは限らない」
エマは弟の足首へ手を添えた。熱が戻るのを待つ間にも、戸の外では学校の子どもが起き、牛舎では桶が鳴る。治療所だけを朝にしてはいけない。それでもこの寝台から手を離せなかった。
ナダが隣の寝台の女を起こした。凍えたまま運ばれた女は、薬湯を飲むたびに吐いてしまう。ナダは椀を置き、濡れた布で唇を拭き、今度は匙の先へ一口だけ乗せた。女が飲み込むのを待つ間、エマは湯袋を裏返した。冷えた側を背へ当てないよう、布の結び目をほどく。
「火を見て」
ナダが言う。
炉の鍋が吹きこぼれかけている。エマは柄杓で湯をすくい、火の縁へ少しずつ落とした。火を消さず、鍋を割らず、薬草の匂いが焦げないところまで戻す。村長代理の判断より先に、いまは手を動かす順番がある。
ユリクの指先が毛布から出ていた。エマは指を一本ずつ布へ包み直す。赤く腫れた指を強く擦らない。昔、雪遊びの帰りに母がそう教えた。温めるほど急いで、傷つけることがある。
「姉ちゃん」
「いる」
「学校、寒くない?」
エマは答えなかった。借りた一刻で、ここは薬湯を替え、車へ運べる患者を見極める。学校の火を返すまでに終わらなければ、自分の薪を出すと約束した。それを弟へ言えば、また弟は自分を後にしようとする。
蓄魔具の青い光が、ふっと弱くなった。ナダはすぐ鍋を持ち上げ、残った熱を薬湯へ集める。寝台の間のぬくもりが薄くなる。
「あとどれくらい」
「砂が一度落ちるまで」
ナダは小さな砂時計を返した。エマは砂を見ず、ユリクの呼吸に合わせて湯袋を押さえた。砂が落ちきる前に、女は二口目の薬を飲み、ユリクは目を閉じた。
戸の外で、学校の鐘の代わりに鍋を叩く音がした。返す刻だった。




