第2巻 第二十七話 帰還者
セラは、叩く音を聞いた瞬間に走っていた。
閉じた旧巡礼門へ近づく前に、兵二人を左右へ散らす。門面はもう光っていない。石枠の内側には、壁しかない。なのに、右下から三度、こぶしで叩くような音がした。
「外から返す。誰も枠へ触るな」
手鈴を三回。
返事は二回の叩きだった。
ユナの合図かもしれない。けれどセラは、それだけで扉を壊させなかった。人がいるなら、開ける方法を急ぐ。人がいると思い込んで崩せば、石の向こうにいる者まで傷つける。
「西荷役門へ行く」
ミナからの伝声が届いていた。閉鎖の直後、白の残留灯が最も長く残ったのは西だった。そこなら旧巡礼門の代わりに、向こうから押し出されたものを受けられるかもしれない。
西門は、荷車一台分の低い石枠だ。前には二重の柵。ガルドがすでに下部の接合を開け、ミナが膜の厚さを測っていた。
「人が来るなら、ここからですか」
「保証はできません」
ミナは答えた。
「ただ、向こうの圧はこの門へ寄っています。開けるなら、幅を手のひら二つ分に固定します」
「人ひとり通れない」
「最初から人を通す幅にすると、何が押し出されるかわかりません」
セラは柵の隙間から石輪を見た。救助の現場では、すぐに腕を伸ばせないことがある。そこを飲み込めずに突っ込めば、助ける側が穴を増やす。
「その幅で。何か出たら、私が引く」
兵が綱を結び、毛布を広げる。治癒術師が蓄魔具の灯を確かめた。地域基盤の門が揺らいでいても、彼女の腕の小さな治療具はまだ使える。長くは続かないから、先に温めた湯と包帯を並べた。
ガルドが細い止め金を回す。
石輪に、指二本ぶんの光が生まれた。
最初に出てきたのは、水だった。泥と灰を混ぜた冷たい水が、石床へあふれる。次に、革靴の先が見えた。
「引け!」
セラが身を伏せ、兵と一緒に綱を引く。光の隙間から、若い男が半身だけ滑り出した。肩に深い裂け目があり、顔は泥で黒い。足首には、見覚えのある青い案内紐が巻かれていた。
「生きている!」
治癒術師が叫ぶ。
男を毛布へ移す間にも、隙間の向こうで誰かが咳き込んだ。セラは綱をもう一度投げる。二人目は老女、三人目は荷役の男。四人目は七歳ほどの子で、胸に木の札を抱えていた。
光の隙間が揺れ、白の残留灯が強くなる。
「閉じます!」
ミナの声に、セラは子の手を掴んだまま頷いた。
「あと一人、いるか」
向こうへ問いかけても、返答はない。兵が石枠を閉じ、光が細くなった。最後に、青い紐の端だけがこちらへ残った。
引き出した四人のうち、歩ける者は一人もいなかった。裂けた肩、打ち身、脱水。老女の足には、石の破片が刺さっている。治癒術師は蓄魔具を一人へ使い、残りを湯と包帯へ任せた。
「名を言えますか」
セラは肩を縫われる若い男へ聞いた。
「ゲイル……王都から、薬を……」
「どこにいた」
「村。地図に、ない村」
彼は目を閉じ、喉を鳴らした。
「ミレア。門の下に、崩れた待機所がある。子どもが……案内役の娘が、名前を書いてた」
セラは息を止めた。
「赤い帽子か」
ゲイルは、かすかに頷く。
「ユナは」
「残った」
青い紐を結んだ足首が、セラの手の中で濡れていた。
「動けない人を、先に出した。自分は、名簿を……」
その先は咳に消えた。
救えた四人を運び出す担架が、石床を急ぐ。セラは後を追わず、西門の前に残った。
治癒院へ向かう担架の一つで、子どもが木札を離さなかった。セラは膝をつき、無理に取ろうとせず尋ねる。
「誰が持たせた」
「赤い帽子のお姉ちゃん」
子どもの唇は紫だった。治癒術師が毛布を首まで引き上げる。木札には、震えた字で名前が並んでいる。ゲイル、マルタ、エド、ルウ。戻った者の名と、まだ戻らない者の名。最後の行に、ユナ・ハーゼとあった。
「お姉ちゃんは何て言った」
「動ける人から、縄を持ってって。名前をなくすと、帰れないって」
セラは木札をノアへ渡した。紙が濡れて読めなくなる前に、写しを二枚取らせる。一枚は治癒院へ、もう一枚は西門の救助班へ。戻った者の名だけで、救助が終わったことにしないためだ。
ゲイルの肩は、裂けた傷の奥まで砂が入っていた。治癒術師が蓄魔具を当てると、淡い緑の光が一度だけ満ちる。傷口は閉じきらない。魔力が尽きる前に、まず血を止める。
「待機所は、どんな場所ですか」
セラは包帯を押さえるゲイルへ聞いた。
「石の下……古い荷置き場。雨水が溜まってる。門が開くたび、違う場所から人が落ちてきた」
「何人」
「わからない。ユナが壁に線を引いてた。名前を聞ける人と、聞けない人を分けて」
「食べ物は」
「古い非常箱。乾いた麦菓子が少し。水は赤錆の味がした」
救助を急ぐ理由が、名簿の外にも増える。だが、西門の隙間を広げれば、待機所の天井をさらに揺らすかもしれない。セラは医師の手元を見る。ここへ戻った四人を助けることも、向こうのユナを助けることの一部だ。担架が足りなければ、次に戻る者を寝かせる場所もない。
「西門の前に湯を二鍋。毛布を十枚。担架を戻したら、空の台車を一台置く」
兵が走る。セラは最後に、子どもの手の木札を撫でた。
「名簿を守ったんだな」
子どもは眠りへ落ちた。
ユナは、まだミレアにいる。
治癒院の入口では、薬師が担架の順を決めていた。肩を裂いたゲイルには、清めた湯を流し続ける。老女の足から石を抜くのは、その次だった。子どもは呼吸が浅く、蓄魔具の灯を一番長く使う必要がある。
セラは治療具の残量を聞いた。小さな蓄魔具は地域基盤が揺れても動く。だが一度に三人を治せるほどではない。術師は、傷を閉じるのではなく、まず命を落とさないところまでしか戻せない、と言った。
「向こうに残った人にも、同じものが要る」
セラは西門へ湯、包帯、木板を運ばせた。次に戻る者は、歩けないかもしれない。狭い門から引き出すなら、担架より先に身体を滑らせる板がいる。
ゲイルが目を覚ました時、セラはそばにいた。
「ユナさんは、なぜ残った」
「名を……消すなって」
ゲイルの声は掠れていた。
「壁に、着いた人の名を書いてた。水を配る人、子どもを見る人、動ける人。俺が肩をやられて、先に出ろって。あの子は、最後の名前が書けてないって」
「誰の名だ」
ゲイルは首を振る。わからない。ユナは、自分が残れば全員を助けられると思ったのではない。門がまた開くなら、次に出す順を決める者が必要だった。だから負傷者と子どもへ縄を渡し、自分は壁の文字の前に残った。
セラは窓の外の西門を見た。救助は、勇敢な一人が待っているから急ぐのではない。向こうで、まだ誰かが次に倒れる者の名を忘れないようにしているから急ぐ。
子どもの木札には、まだ読めない名が二つあった。ユナは、口を利けない負傷者にも印をつけていたらしい。セラは木札を火にかざして乾かし、線の形だけでも写すようノアへ命じた。
西門の前には、戻った老女の娘が来た。母の足へ巻いた包帯を見て、何度も頭を下げる。セラは「まだ治療中です」としか言えない。助け出せた者がいることと、助かったことは違う。次の門を開くなら、戻すだけでなく、受け入れる場所まで空けなければならない。
兵が湯を運び、宿屋から寝藁が届く。セラはその数を確かめた。向こうに残る人数は不明でも、こちらで寝かせられる人数は数えられる。救助は門の前だけで終わらない。
セラは救助班へ、戻った四人の名を声に出して引き継がせた。ゲイルは肩の傷、マルタは足、エドは脱水、ルウは低体温。名を言うたび、ユナの木札に書かれた線が、ただの報告ではなくなる。次に門が開く時、誰をどこへ寝かせるかまで決めておかなければ、救えた者を床へ置くことになる。
西門の光は閉じたまま、石の下だけを淡く照らしていた。セラは兵を二人残し、誰かが助けを求めて叩いた時に、門を壊す前に返事を確かめるよう命じた。戻った者を治す手と、向こうにいる者を呼ぶ手を、同じ夜に切らさないためだった。
治癒院の灯が一つ消え、術師が次の蓄魔具へ替えた。セラは、その手元を見届けてから西門へ戻った。向こうに残るユナを急ぐためにも、ここで戻った四人を途中で取り落とさない。
セラは木札の写しを胸の内ポケットへ入れた。ミレアに残る名を、次の救助班へ渡すために。




