第2巻 第八話 行方不明者は損失欄にない
組合会館の巻紙に、ユナの名前はなかった。
リオは最初から最後まで二度読んだ。
治癒院のトーマ。
冬種を待つ北村の農家。
羊乳を待つ乳飲み子のいる家。
門前で仕事を失う荷役たち。
人の名前は書かれている。
荷が遅れたことで困る者の名だ。
転移そのもので消えた妹の名はない。
「行方不明者は、守備隊の別紙です」
組合書記が言った。
「これは門停止の損失一覧なので」
「門を止めたから消えたんじゃない。門を開けたから消えた」
「ですから、別の扱いです」
書記は丁寧だった。
丁寧なまま、巻紙を巻き取ろうとする。
リオは端を押さえた。
「別にしたら、どっちを先にする」
「私には決められません」
「商人組合の紙には、夜明けまでって書いてある。ユナを捜す紙には期限がない」
「捜索を急いでいないという意味では」
「紙を並べる席が違う」
リオは自分でも驚いた。
いつもなら、紙に何が書かれているかなど気にしない。荷役所の帳面は親方がつける。自分たちは縄を締め、車輪を押し、荷を壊さず渡せばいい。
だが今は、紙にある期限だけが夜明けへ向かって進んでいる。
ユナは紙の外にいる。
リオは巻紙から手を離し、会館の裏口を出た。
門前の荷役所は、昼の荷が来ないのに人だけが残っていた。縄を肩へ掛けたまま、壁際へしゃがむ者。空の荷車の車輪を回し、軋みを聞く者。仕事がないなら帰ればいいはずなのに、門が開いた時に呼ばれなければ日当も消える。
「親方、今日の分は」
若い荷役が尋ねていた。親方は答えず、荷札のない空箱を足で寄せる。
「門が止まっただけだ。荷役所は閉じてない」
「でも、積む荷がない」
「待機の銭を出すかは組合の帳面だ」
若い荷役は口を閉じた。妹が消えたリオへ、何を言えばいいかわからない顔だった。リオも、励まされたいわけではなかった。ただ、この連中の名が巻紙の末尾で「門前で仕事を失う荷役たち」とまとめられているのを思い出した。一人ずつ縄の癖も、家へ持ち帰る銭の使い道も違うのに。
荷役所の向かいでは、案内所の年嵩の女が、赤い帽子を膝に置いていた。ユナの代わりに、宿へ回す旅客の道を聞かれている。
「案内役は他にいないのか」
リオが聞くと、女は帽子から目を上げた。
「いるよ。けど、北の宿に着いた人を連れて歩いてる。泊める部屋が変わるたび、また説明しなきゃならない」
「日当は」
「門を通す案内じゃないから、門務局の札は出ない。宿が払える時だけ、食事の分をもらう」
女の指には、客の荷札を結んだ細紐が食い込んでいた。ユナがいなくなったことは守備隊の紙に書かれる。残った案内人が、門の代わりに歩いて働く分は、どちらの紙にもない。
さらに先で、幼い子を抱えた女が乳の桶を見ていた。羊乳を待つ乳飲み子のいる家、と巻紙にあった行だ。桶の中身は白布で包まれ、ぬるくなり始めている。
「門が開かないなら、煮て乳酪にする」
女は言った。
「でも、明日の朝の乳はない。子に飲ませる分まで売り物に回したから」
誰かの損失を並べた紙が、急に遠い言葉に思えた。門の再開を待つ人、宿へ客を運ぶ人、乳を煮直す人。ユナを探す時間と同じ刻を、それぞれ失っている。
リオは会館へ戻った。巻紙の前に立つと、さっきより声が低くなった。
「荷役も案内役も、家族も、別紙にするな。俺が縄と荷組みを見て、調査に入る。門が動いた時、誰が何を失うかを知ってるのは、帳面の人間だけじゃない」
親方は会館の外から、その言葉を聞いていた。いつもなら見習いが組合の紙へ口を出せば、縄へ戻れと言っただろう。だが親方は、荷役所の前に残った若い者たちを一度見てから、短く頷いた。
「縄の色と、箱が傾いた時の癖はこいつが見る。門の前へ出すなら、俺の名も横へ書け」
リオは驚いた。自分だけが妹のために食い下がっているのではない。仕事を待つ者の分まで、親方が紙の端へ入ろうとしている。
リオは青い予備紐を握り直した。調査へ入るのは、妹を捜すためだけではなくなった。その重さを知った。
「一緒の紙へ書け」
「商人組合長の許可が必要です」
「人の名前を書くのに、許可がいるのか」
会館の奥で、ディーンが顔を上げた。
「書け」
書記が止まる。
「組合長」
「門再開の判断に関わる。別紙では見落とす」
リオはディーンを見る。
感謝する気にはなれなかった。
ただ、紙の最上段へユナ・ハーゼと書かれるのを見た。
期限欄は空白。
「いつまでだ」
リオが尋ねる。
「わからないものは書けません」
書記の答えに、また腹が立つ。
「見つかるまでだ」
「それは期限ではありません」
「生きて待てる時間が期限だろ」
ユナがどこにいるかも、怪我をしているかもわからない。
水があるか。
寒いか。
誰かと一緒か。
何もわからないから、何刻と書けない。
「最後に確認した時刻を書きましょう」
蓮人が背後から言った。
「王都中央門を通った時刻。途中でグレイさんが見た時刻。案内紐が見つかった時刻。次の捜索判断時刻」
「次の捜索判断?」
「門を使って救助するか、陸路で旧経路の出口を探すか。その判断を、荷送再開と同じ夜明けまで待つ必要はありません」
「いつだ」
「旧巡礼門の呼び鈴を確認したあと。半刻後です」
リオは書記からペンを取った。
字は得意ではない。
ユナの名の横へ、太く書く。
半刻後。
「お前が決めていいのか」
「決めたのは、捜索を止めない時刻です。救助方法はセラさんが判断します」
「また別の人か」
「一人で全部は決めません」
「ユナが消えたのに?」
「消えたからです」
蓮人の声は穏やかだった。
「焦っている家族だけに決めさせない。危険を知らない商人だけにも、安全だけを見る守備隊だけにも決めさせない」
「安全だけを見る守備隊、か」
入口にいたセラが聞いていた。
「違いますか」
「いまは否定しない」
セラはリオへ、守備隊の捜索票を差し出した。
ユナ・ハーゼ。
最後の目撃。
赤い帽子。青い案内紐。七歳男児を抱えていた。
荷の誤着先で紐を発見。
旧巡礼門の内側から呼び鈴二回。
「呼び鈴の確認班へ加える」
「やっとか」
「案内紐の結び方と、妹の声を知っている者としてだ。救助指揮ではない」
「わかってる」
「返事は」
「指示に従う」
旧巡礼門は、町の北側にある森の手前へ立っている。
石段は苔に覆われ、門前広場だった場所には細い白樺が育っていた。誤着した旅客十二名が歩いた跡だけ、草が倒れている。
呼び鈴は門枠の右へついていた。
外側から引く綱は切られている。
内側の綱は、門を通った先の待機室へ伸びているはずだった。
「いまは鳴っていません」
見張り兵が言う。
「二回とも、短く一度。間は四分ほどです」
「返答は」
「鐘を三回鳴らしました。反応なし」
リオは門へ近づいた。
封鎖線の手前で止まる。
「ユナなら、一回ずつ鳴らす」
「なぜわかる」
「客が迷ったときの合図だ。案内役が一回、門番が三回。もう一回、案内役が一回」
「二回目の一回が、その返事?」
「たぶん」
セラは見張り兵へ鐘を鳴らさせた。
三回。
森へ乾いた音が広がる。
待つ。
風が葉を揺らす。
門は暗いまま。
一分。
二分。
返事はない。
「もう一度」
リオが言う。
「合図は一度だ」
「聞こえなかったかもしれない」
「鳴らし続ければ、別の音を聞き落とす」
セラは片膝をつき、門枠の下へ手を当てた。
「振動がある」
ミナも石へ触れる。
「転移律式ではありません。何かが、向こうから綱を引いている」
呼び鈴は鳴らない。
綱の力だけが、石をかすかに震わせる。
「途中で引っかかってる」
リオは門枠の右上を指した。
鈴へつながる細い金具が、錆びて曲がっている。一度目と二度目で、さらにずれたのだろう。
「直せるか」
「外からなら。でも封鎖線の中だ」
セラはミナを見る。
「残留値は」
「低下中。接触しなければ、二人まで石段へ入れます」
「私とリオ」
「副隊長」
「案内役の合図を知っている。金具も見分けられる」
セラは自分で決めた。
リオが先へ出る。
「前へ出るな。私の半歩後ろ」
石段を上がる。
門枠の白い残留灯は消えている。青の警報灯もない。廃止時に外されたままだ。
リオは鈴の金具へ手を伸ばした。
指で触れる直前、止める。
「糸がある」
錆びた金具へ、細い青糸が巻きついていた。
案内紐と同じ色。
門の内側から出ている。
リオは糸を引かなかった。
「ユナが結んだ」
「今日見たことか」
後ろから蓮人の声。
リオは玉結びを見る。
端から指二本分。
迷った子が握れるように作る、小さな結び目。
「今日、見た」
答えた。
青い糸は、閉じた石の向こうへ続いていた。




