第二十八話 全部見るな
危機は止まった。
蓮人の視界から、線だけが消えなかった。
北塔と南塔。
旧副塔。
治癒院。
市場。
迎賓館。
井戸。
警報鐘。
人と設備と命令を結ぶ光が、何重にも重なっている。
「北塔、七割で安定」
ミナの声。
「南塔、再接続準備」
エドの声。
「旧副塔、炉心冷却へ移行」
伝声石からの報告。
全部を確認しなければ。
一つでも見落とせば、別の場所で壊れる。
蓮人は線を追う。
最初は、目の奥が熱いだけだった。次に、近くのものへ焦点が合わなくなる。ミナの持つ確認石より、壁の向こうへ伸びる線の方が鮮明に見えた。
「旧副塔、温度は」
『上限の五低下。冷却継続中』
リクの返答を聞いた直後、数字だけが抜け落ちた。
「何低下ですか」
『五です』
「単位は」
『さっき決めた暫定目盛です。レントさんが紙へ書いた』
自分で決めたものを思い出せない。
蓮人はノアの記録をのぞこうとした。文字は読めない。黒い線が紙の上で光の線へ変わり、北塔の壁まで伸びて見えた。
実在する関係ではない。
疲労した頭が、わからない文字にも意味を作ろうとしている。目を閉じれば消えると思った。
瞼の裏にも線が残った。
「レント」
セラに呼ばれた。
「返事をしろ」
「聞いています」
「何を見ている」
「全部です」
「全部とは」
説明しようとして、言葉が出ない。
線の一本が揺れた。
治癒院。
「生命維持床は」
「安定している」
「本当に?」
「確認済みだ」
別の線が薄い。
井戸浄化。
「井戸は」
「水番から問題なしと」
「誰が確認した?」
「水番だ」
「数値は?」
「レント」
セラの声が強くなる。
「お前が確認する必要はない」
「でも、報告が間違っていたら」
「水番が判断する。異常なら連絡する」
「気づかなかったら」
前世の監視画面が浮かぶ。
正常。
異常なし。
問題ありません。
その言葉を信じて、障害の開始を十五分見落とした。人へ任せれば、見落とされる。
自分が見なければ。
「南塔の再接続、待ってください」
蓮人は伝声石を取る。
「北塔との圧力差を確認してから」
『確認済みです』
エドが答える。
「測定石だけではなく、出口も」
『ミナさんの手順で確認しました』
「手順のどの版ですか」
『今朝の改訂版です』
「変更点は」
『レントさん』
エドの声に苛立ちが混じった。
『こちらでも判断できます』
「判断できるなら、どうして最初の七回を止められなかったんです」
口から出たあとで、誰へ向けた言葉か気づいた。エドは夜勤を一人で回し、三つの塔を歩いていた。警報を隠したのは彼ではない。
伝声石の向こうが静かになる。
『いま、その話をしますか』
「違います。俺は」
『北塔との圧力差、四。出口温度、規定内。水音は二人で確認しました。再接続の判断を続けます』
エドは必要な報告だけを残し、石を切った。
「謝るのはあとだ」
セラが言う。
蓮人はうなずこうとした。首が動いたか、自分ではわからなかった。
わかっている。
そのために手順を作った。
判断を渡した。
それなのに、渡した瞬間から不安になる。ミナが南塔用の手順書へ、新しい時刻を書き加えた。
「何を変えました」
「市場の停止確認が早かったので、再接続待機を三十数える分に短縮しました」
「勝手に変えないでください」
ミナの筆が止まる。
「北塔圧は七十で安定しています。エドさんとも確認しました」
「条件を一つ変えれば、ほかの確認が全部やり直しになる」
「全部ではありません。待機時間だけです」
「その判断が間違っていたら」
「停止基準で止めます」
「止める前に別の場所へ影響が出るかもしれない」
ミナは記録板を胸元へ引いた。
「では、何のために私を停止判断者にしたんですか」
声は大きくなかった。
だから、炉室にいる全員へ届いた。
蓮人は答えを探した。ミナが判断するため。自分以外へ権限を渡すため。正しい言葉はいくつも浮かぶ。
そのどれも、いまの自分の行動と合わない。
「事故を防ぐためです」
選んだ答えは、質問への答えになっていなかった。
「私の判断を止めることが、ですか」
ミナは蓮人を見なくなった。変更時刻をノアへ伝え、南塔への指示を続ける。蓮人が守ろうとした確認手順は、人の判断を狭める命令へ変わっていた。
線が増える。
視界の端から端まで光で埋まる。誰かの声がするたび、その人につながる線を探す。
商人組合長。
冷蔵箱。
穀物倉。
パン工房。
セラ。
城壁。
北門。
避難路。
ガルド。
水輪。
新型冷却核。
接続具。
ノア。
命令書。
代官。
王都。
線の中に、実際には同時に存在しないものが混ざり始めた。市場の焼損した冷蔵箱が、治癒院の生命維持床へ直接つながって見える。どちらも北塔の負荷を受けたというだけで、一方が他方を動かしているわけではない。
ガルドの工具箱から、バルガスの命令書へ白い線が伸びる。ガルドが命令を受けた記憶と、いま目に入った道具を頭が勝手に結んでいる。
「この線は違う」
蓮人は声に出した。
「何がだ」
セラには見えない。
「違うものが混ざっています」
「なら見るのをやめろ」
「どれが違うか確かめないと」
誤った候補を消すために、さらに観測しようとする。見れば見るほど、古い記憶と現在の報告が重なった。
額の奥で脈が打つたび、視野が狭くなる。周囲の顔は見えないのに、その人から伸びる線だけが残った。人ではなく、情報の出どころとしてしか見ていない。
「止めて」
蓮人は言った。
「何をだ」
「全部。一度、変更を止めてください」
ミナが手順書を伏せた。
「止めません。南塔の再接続は、治癒院の蓄魔が切れる前に必要です」
「俺が確認できていない」
「確認を待つ条件は手順にありません」
「追加してください」
「いま?」
「見落としがあるかもしれない」
「それは停止条件ではありません」
ミナは初めて、蓮人の提案を明確に拒んだ。
「レントさんが不安だから町を止める、という基準は作っていません」
正しい。
それでも蓮人には、役割を奪われたように聞こえた。
「判断材料を整理したのは俺です」
炉室が静かになった。
口にしてはいけない言葉だった。皆が集めた情報を、自分の所有物のように扱っている。
ミナは一度だけ蓮人を見た。
「だから、私の判断もレントさんのものですか」
答える前に、彼女は伝声石へ向き直った。
「エドさん。再接続を続けてください」
蓮人の指示ではなく、停止判断者として命じた。
「いま止めれば、南塔を戻せない」
「でも、確認が」
「各担当がしている」
「その確認が正しいかを」
頭の奥で、何かが弾けた。
前触れはあった。
右の視野から色が抜け、ガルドの声が水の中から聞こえるようになる。質問しようとしても、物の名前が出ない。
「あの、銀の……」
「冷却核か」
「違う。止める、下の」
「封印板はもう閉じた」
言葉が見つからないたび、線だけが増えた。名前を失ったもの同士が、光で勝手につながっていく。
光が白くなる。
線の始点と終点がわからない。
誰の報告か。
何が起きたのか。
前世の会議室と北塔が重なる。会議室の隅にいた若い運用担当者。
『こちらでも判断できます』
エドと同じ言葉を、前世でも誰かに言われた気がする。蓮人はその社員へ、念のため自分の確認を待てと答えた。帰宅時間を過ぎても待たせ、最後には名前さえ思い出せないまま倒れた。
北塔の床に、使い捨てのコーヒー容器が転がって見えた。実際には、ガルドの工具箱だった。
十二万人。
原因不明。
復旧見込み未定。
担当者、久瀬蓮人。
「俺が見ます」
自分の声が遠い。
「全部、俺が」
足元が揺れた。
実際に塔が揺れたのか、自分がふらついたのかわからない。
セラが腕をつかむ。
「座れ」
「時間が」
「座れ!」
強い声だった。
蓮人は振りほどこうとした。
右手が動かない。
指先の感覚が消えている。
「ミナ、治癒術師を!」
「でも北塔を離れられません」
「離れるな。伝令を出せ」
正しい判断が、自分以外の人から次々に出る。それさえ確認しようとする自分がいた。ミナは蓮人の方を見ず、伝令札へ治癒院と書いた。
さっきまでなら、自分で走ろうとしたかもしれない。
「北塔の判断者は離れられません」
誰に弁解するでもなく言い、入口の兵士へ札を渡す。セラは蓮人の腕を自分の肩へ回した。ガルドが反対側を持とうとすると、リクが代わる。
「親方は銀輪を見て」
「だが」
「俺が運ぶ」
ガルドは一瞬迷い、炉室へ戻った。蓮人一人を運ぶために、設備側の担当まで空けない。誰が残り、誰が離れるかがその場で決まっていく。
廊下へ出ると、白い線は壁の向こうまで追ってきた。治癒院へ向かう道、市場へ曲がる道、北門へ上がる階段。
「右です」
蓮人は言った。
「治癒院は左だ」
セラが答える。
線が示す方向と、現実の道がもう一致していなかった。
「南塔は」
「エドが戻す」
「旧副塔」
「リクとハンスが冷却している」
「治癒院」
「医師が見ている」
「警報」
「ミナがいる」
「記録」
「ノアが書いている」
セラは一つずつ答えた。
「お前がいま担当しているものは何だ」
蓮人は答えられなかった。
担当はない。
すべての担当へ、勝手に自分を加えていた。
「呼吸だ」
セラが言った。
「いまのお前の担当は、息をすることだ」
蓮人は息を吸おうとした。
胸が動かない。
二度目で、浅く空気が入る。
白い線が激しく瞬いた。
その向こうで、誰かが自分の名を呼んでいた。
蓮人は返事をしようとした。
声になる前に、視界が暗くなった。最後に聞こえたのは、ミナの声だった。
「南塔、再接続を続行。北塔は七割維持」
蓮人が止めようとした作業が、彼を運び出したあとも進んでいた。
返事はできなかった。
けれど、その命令を取り消す者がいないことだけは、暗くなる意識の中でもわかった。それを安堵と呼べるほど、蓮人の頭はまだ手放せていなかった。




