第二十五話 壁の汗
北塔の裏手には、草の生えない細い一帯があった。清掃係の女が「雨のあとだけ温かい」と話した場所だ。
地表は乾いている。
それでも石壁の根元へ手を当てると、わずかな湿りがあった。湿りは塔だけでは終わっていなかった。
裏通りのパン工房では、壁際へ積んだ小麦袋の底が黒く変色している。主人が袋を開くと、酸っぱい匂いが上がった。
「雨の翌日は床が温かい。冬なら乾くから助かると思ってた」
袋の下には、白い黴が広がっていた。祭り用の粉六袋。そのうち二袋は捨てるしかない。
隣の共同井戸では、厨房を動かした夜だけ水面が下がるという。水番の女が縄の濡れた位置を示した。
「朝には戻るから報告しなかった。祭り前は皆が水を使うものだと思ってたよ」
迎賓館の地下厨房へ入ると、排水溝の蓋が一枚だけ新しかった。増築時に古い溝へつないだ跡だった。
結露は設備の内側だけの問題ではない。粉を傷め、井戸を下げ、厨房で流した湯を北塔の壁へ運んでいた。
「地下に流路がある」
ガルドが地面を踏む。
「古い迎賓館の排水かもしれん」
「図面は?」
「建て替え前のものなら、代官庁か石工組合だ」
ノアが書庫へ走り、セラは石工を呼びに行く。リクとハンスは、壁沿いに等間隔で木杭を打った。杭へ耳を当て、地下の水音を比べる。
「ここが強い」
リクが北塔から十歩ほど離れた杭を指す。
「流れが二つ重なってる」
「そこは外れだ」
ガルドが別の杭へ耳を当てたまま言った。
「塔から離れすぎてる。太い音は開水路だ」
「細い方を聞いてくれ」
「厨房排水だろ」
「厨房は今、止めてる」
リクは迎賓館を指した。ミナの命令で、朝から湯を流していない。
ガルドが顔を上げる。
「では、この速い音は何だ」
「俺が聞いてる」
リクは杭を抜き、半歩だけ塔側へ打ち直した。細い振動が強くなる。
ガルドは自分の棒でも確かめた。眉間のしわが深くなる。若手の前で間違いを認めるまで、数呼吸かかった。
「冷却の戻りだ。開水路の下を斜めに横切ってる」
「図面と違う」
「現物がそう言ってる」
ガルドは自分の杭を抜き、リクが示した線上へ打った。
「続けろ。俺は反対側を追う」
若手の発見を奪わず、その先の仕事を分けた。
「どうしてわかる」
見学していた結界庁の若い術師が問う。
「低い音の中に、速い音がある。太い排水路へ細い管が入ってる音だ」
「測定石もなしに?」
「測定石があるなら使う。ないから杭を使う」
リクの答えに、ガルドがわずかに口元を緩めた。石工組合から来た老人は、地面を一目見て言った。
「ここは昔、開水路だった。迎賓館を増築したとき、上をふさいだ」
「北塔とはつながっていましたか」
「直接は知らん。ただ、塔の冷却水があふれたとき、町の外へ逃がす溝はあった」
ノアが古い図面を持って戻る。現行図面にはない線が、北塔から開水路へ延びていた。
旧排水溝。
その上に迎賓館の厨房排水が接続され、祭り前だけ流量が増える。
「壁を開けます」
ハンスが言った。
「勝手に壊すな」
結界庁主任が、遅れて現場へ来た。
「北塔外壁は結界庁の管理だ」
「調査契約に接続設備を含めました」
ノアが答える。
「石を外すだけでも塔の強度へ影響する」
「だから石工を呼びました」
老人が壁をたたく。
「この三枚は化粧石だ。構造には関係ない。戻すときは目地を打ち直す」
主任が反対する理由は一つずつ消えた。
最後に言った。
「祭り前に、見苦しい穴を開けるな」
セラが白布を持ってきた。
「作業中は囲う。終われば戻す」
化粧石を外す。
壁の内側から、冷たい空気が漏れた。一本の古い銅管が通っている。表面は濡れ、細かな水滴が連なっていた。
「壁が汗をかいてる」
見ていた子どもが言った。
専門用語より正確な表現だった。
冷たい冷却水が管を通る。
迎賓館の厨房排水で、壁の内側は温かく湿る。
温度差で水滴が生まれる。
水滴は管を伝い、下部の接続具へ集まっていた。
「これだ」
リクが膝をつく。
接続具の下半分だけ、緑青が厚い。
「雨のたびじゃない。厨房を使うたび、内側で濡れてた」
「流路圧が上がると?」
「腐食した継ぎ目がわずかに開く。水そのものは漏れなくても、空気を吸う」
ガルドが金属棒を当てる。
「泡の音はここからだ。出口が詰まったんじゃねえ。空気が入って、流れを切ってた」
冷却輪停止の直接原因が見えた。清掃後に増えるのは、管内の空気を抜いて流れが強くなり、腐食部からまた空気を吸うため。雨の日に多いのは、地下の湿度が上がるため。
迎賓館を使う祭り前に増えるのは、厨房排水で結露が生まれるため。別々に見えた条件が、一つの場所へ集まる。ハンスは腐食部の下へ乾いた布を巻き、一刻ごとの水滴を量る印をつけた。
「交換する前に、どれだけ濡れるか残したい」
「原因はわかった」
ガルドが言う。
「次に同じ色になったとき、交換時期を決める比較が要る」
ハンスは布の端へ時刻を書く。ガルドは急がせようとして、口を閉じた。
一刻後、下半分だけが濃く濡れた。リクの見立てどおり、排水路全体ではなく細い戻り管との交差部に水が集まっている。
「俺は泡の音で継ぎ目までわかった」
ガルドが言った。
「でも、親方がいない夜は?」
リクが問う。
ガルドは答えず、濡れた布を手に取った。
「同じ幅に切った布を点検棚へ置け。下半分がこの印まで濡れたら報告。音が聞けなくても使える」
自分の耳を手順へ置き換えることを、ようやく始めた。
「交換部品は」
ハンスが問う。
「工房に同じ径の接合具が一つある」
ガルドが答える。
「ただし旧型だ。あと何年もつかは言えねえ」
「新型冷却核の接続具は?」
「径が違う」
「変換具を使えば」
「圧が変わる。試験なしには使わん」
主任が苛立った声を出す。
「また試験か。原因は見つかったのだろう。腐食部を替え、新型をつなげば終わりだ」
「終わりません」
ミナが言った。
「壁内の結露対策。厨房排水との分離。出口測定。接続後の段階試験が必要です」
「歓迎紋の時刻まで、あと半日だ」
「だから全部はできません。今日は旧型接合具へ交換し、外側へ点検口を作る。新型冷却核は洗浄後、再試験します」
ミナは停止判断者として、作業範囲を決めた。
「北塔は七割制限を継続。迎賓館厨房は、排水の迂回ができるまで本稼働しない」
「王都使節団の食事はどうする」
商人組合長が答えた。
「市場の共同厨房で作り、運ぶ。店から人を出す」
迎賓館の料理長は、その案に反対した。
「使節へ市場の鍋を出せと?」
「同じ料理を運ぶ」
「厨房が違えば温度も盛り付けも落ちる」
「北塔を壊して温かい皿を出すよりましだ」
共同厨房の料理人が言い返す。料理長は、自分たちが王都の客へ出す仕事を奪われると感じていた。市場側は、迎賓館の都合で冷蔵箱まで止められたと思っている。
ミナは排水の迂回条件を示した。
「迎賓館では湯を流さない。下ごしらえと加熱は共同厨房。盛り付けだけ迎賓館の広間で行う。洗い物は市場へ戻す」
「冷める」
料理長が言う。
パン屋が保温用の木箱を貸すと申し出た。氷屋は冷やす皿と温かい皿の荷車を分ける。料理長はしばらく黙り、運搬時間を四分以内とする条件を出した。
設備を止める代替は、誰かの仕事を消すのではなく、仕事を別の場所へつなぎ直す必要があった。代替案は、すでに作られていた。
主任は何も言えなくなった。
リクが腐食した接続具を外す。ハンスは結露の位置と量を記録する。ガルドは新しい接合具を、自分では取り付けなかった。
「やれ」
リクへ渡す。
若い職人が接合し、ハンスが確認し、石工が点検口を設ける。最初の締め付けで、リクは上側を強く締めすぎた。
「片寄ってる」
ハンスが横から言う。
「規定の位置だ」
「下の目地を見ろ。指半分浮いてる」
リクは反論しかけ、点検鏡を差し込んだ。鏡の中で、接合具の下側に細い影がある。
ガルドにも見せる。
「やり直せ」
「一度外せば封材が減る」
「だから予備を測ってから始めろと言った」
声が荒くなった。
ハンスが工房の旧封材を薄く二枚重ねる案を出した。ガルドは耐久を疑い、リクは径を測る。三人で水へ浸し、膨らみが一枚分と同じになることを確認した。
接合をやり直す。今度はハンスが下側を鏡で見てから、リクが完了を宣言した。
点検口には、扉を付けた。
石工は祭り後に壁を埋め戻すつもりだったが、ミナが残すよう頼んだ。見栄えが悪いという主任の反対には、子どもが言った「壁の汗」という言葉を札へ書く。
『ここで水滴を確認する』
扉の内側には乾いた布を十枚。交換日と確認者を書く小板。鍵は保守工房だけでなく、北塔当番も持つ。
パン工房の主人が最初の見学者になった。黒くなった粉袋の布を持参し、点検布と湿り方を比べる。
「同じ酸っぱい匂いだ」
設備の異常を、塔の中だけの者が最初に見つけるとは限らない。市場側の観察も連絡先とともに記録した。
共同井戸の水番には、朝夕の水位へ印を付けてもらう。厨房の排水迂回が効けば、祭り準備中でも水位低下が小さくなるはずだった。
修理の完了は、接合具を替えた時刻ではない。塔の外の粉と井戸が、次の変化を示すまで観測が続く。
夕方、パン工房から新しい布が届いた。朝から壁際へ置いたものだが、酸っぱい匂いはない。井戸の縄につけた水位印も、前日より指二本分高い。
まだ一日の結果にすぎない。ノアは「改善」と断定せず、日付と天候と厨房の使用停止だけを記した。
明日は厨房を低出力で使い、同じ印を比べる。修理が効いたかどうかは、その差が出てから判断することになった。
壁際には乾いた布を一枚だけ残した。日付と天候を書いた札が、その上で風に揺れていた。




