第5巻 第36話 数値と身体
サナは、診察机の端に置かれた小さな杯を、トワの手の届く低い台へ移した。
杯の中は、東の泉から来た水だった。札には朝三刻、水車小屋、飲水、と太い字である。北水路の札ではないことを、トワの母は何度も確かめてから、息子へ渡した。
トワは両手で取っ手を包んだ。指はまだ震えていない。だが、親指の腹をこすり合わせている。
「ぴりぴりは、いつから?」
サナが訊くと、少年は杯ではなく、自分の右手を見た。
「朝、靴をはくとき。紐がうまく引けなかった」
「水を飲む前?」
トワは頷いた。
「でも、そのあともっと変になる。学校へ行く前に、お椀を洗った。母さんが、もう北の水は使わないって言うから、昨日の鍋に残した水で」
母親が顔を伏せた。残した水は、取水停止の札が出る前に汲んだものだという。捨てるには惜しく、洗い物ならよいと思った。責められるのを恐れて黙っていたのではない。洗い物まで替えなければならない日が続くとは、思っていなかっただけだ。
サナは、母親の言葉をすぐに症状欄へは入れなかった。紙を横へ広げ、《本人が先に気づいたこと》《水に触れたこと》《困った動き》と三つの欄を作る。
「靴の紐で、親指が遅かった。お椀を洗ったあと、ぴりぴりが強くなった。学校で杯を持つと、こぼしそうになった。これで合っていますか」
トワは考えてから、首を少し傾けた。
「お椀の前にも、ちょっとあった。だけど、お椀のあとが、もっと痛い」
「じゃあ、前からあったことも書きます。洗ったから始まった、と決めないために」
少年は、ほっとしたように杯へ口をつけた。飲める水を渡すことと、何が起きたかを聞くことは、同じ動作にはならない。サナはその二つを、紙の上でも分けた。
診察室の外では、雨が屋根を叩き続けていた。水車小屋から運ばれる小樽は、今日も飲む分と薬を溶く分だけだ。洗濯場の湯は減らされ、病棟の窓際には、使い終えた包帯が前日より多く吊るされている。
イレナが、濡れないよう布で包んだ帳面を抱えて入って来た。
「下流の紙を、朝から全部つないでみました」
帳面には、診察を受けた時刻だけでなく、最初に本人か家族が異変へ気づいた刻が、細い線で書き直されている。手の震え、腹の痛み、吐き気、指のぴりぴり。症状の名の横には、飲水、調理、洗い物、洗濯、湯気、薬と、それぞれに丸がある。何もなかった人の行も、消されずに残っていた。
「昨夜の放流が止まったのは、夕方四刻の鐘のあとです」
イレナは、別の紙を上に置いた。オルドの印があり、外弁を閉じた刻、処理炉へ回した量、下流へ残った流れの確認刻が記されている。完全に止められた、という一行の下に、坑内の水位が上がったため、再開の可否は未定、と続く。
「止まったあと、すぐによくなった人はいません。腹の痛みが残った人も、手の震えが続いた子もいます。ただ、新しく『さっきから困る』と言って来た人は、夜半から今まで増えていない」
サナは帳面の端を押さえた。
「来なかった人が、平気だったとは限りません」
「ええ。だから水番小屋の配水札、病棟の当番、下流の聞き取りを照らしました。夜に新しい震えの札は二枚。どちらも、放流停止より前に症状が始まっていたと家族が言っています。一枚は、昨日の鍋の水で粥を炊いた家。もう一枚は、洗濯場の湯を替える前に働いていた人です」
イレナの指は、二枚の札の余白へ止まった。
「病棟でも、夜番ごとに寝台を見ました。夕方四刻より前に腹を押さえた人は六人、手が震えた人は四人。重なっている人が三人います。停止のあとに、痛みが強くなった人は一人いましたが、新しく印を付けた人は、今のところいません。薬を替えた刻、熱が上がった刻も横へ書いてあります」
帳面の端には、薬湯を飲んで眠った患者、雨で窓を閉めた患者、代替水が届く前から眠り込んで聞き取りができなかった患者まで、短い注が並んでいた。症状が出なかった者の行も、同じように残されている。サナは、数字の少なさより、その注の多さを見た。少ないと読める数字ほど、見えない事情を小さくしやすい。
「今夜も、同じ刻に聞きます。昼だけ静かだった、では足りません」
イレナは、次の夜番の欄へ二人の名を書いた。診察室で待つ者と、給水列で聞く者を、同じ人にはしない。片方が欠けても、もう片方の紙に空白が残るようにするためだった。
「でも、これは止めたから増えなかった、と言うための紙ではありません。知らせる人が疲れて眠ったのかもしれない。雨で家から出られない人もいます」
「数えなかった人を、増えていない方へ入れない」
サナは言った。
前の治癒院では、彼女自身の寝台が、記録から抜けかけたことがあった。名前が二つの帳面へ分かれ、薬を受け取った日だけが残り、夜の息苦しさは誰の紙にも書かれなかった。数が合っていると言われても、寝台の上にいる者の身体まで合っているわけではない。そのときの怖さを、サナはまだ指先に覚えていた。
「止まったあとに見るのは、新しい症状だけじゃないです。聞けなかった家、代替水をまだ受け取れていない家、古い水を使い切れずに残している家も、同じ欄へ入れます」
トワの母親が、小さく手を上げた。
「残してある水は、捨てます。けれど、家に来て紙へ書く人がいなければ、私が水番小屋まで行けばいいんですか」
「雨の中を来なくていいように、下流の給水列で聞きます」
イレナが答えた。
「札を読めない家には、杯の絵と、腹や手の絵を付けます。困った人だけに印を付けさせないで、今日も困らなかったかを、配る側が訊きます」
サナは、トワの紙へ《朝、靴の紐で前兆》《古い水で椀洗い後、強まる》《代替飲水では悪化なし・一回》と書いた。最後の言葉の横に、小さく「一回」と重ねる。東の泉の水を一口飲んで震えが出なかったからといって、その水がずっと安全だとは言えない。けれど、その朝にトワが杯を持てたことは、次の看護や給水を決めるために残る。
廊下で、濡れた靴音が止まった。リナが、水番小屋の板を抱えて入って来る。板の左には、下流の瓶を沈めた未使用石の色、真ん中には現用石の数、右には採った刻と採った者の印がある。
「夕方四刻の直前に採った下流の水は、未使用石で黄の端でした。現用石は青です。炉後の瓶も、現用石では青のままです」
リナは言った。
「止めたあと、夜二刻と朝一刻の瓶は、未使用石の黄が薄くなっています。でも、雨が続いています。流れが薄まったからか、放流が止まったからか、両方かは、まだ分けられません」
サナは、板を帳面の隣へ置いた。数字の列は、治癒院の聞き取りと同じ刻で切られている。夕方四刻の線を境に、黄の端、放流停止、新しい症状の知らせ、代替水の到着が、別の色で並んだ。
「石の色が先に戻れば、水を戻すんですか」
トワの母親が訊いた。
リナは、すぐには頷かなかった。
「戻しません。石の色が薄くなっても、同じ刻に腹痛や震えが増えるなら、取水停止を続けます」
「じゃあ、症状が増えなければ」
「それだけでも戻しません」
サナが言った。
「雨で水が薄まっただけかもしれません。家に残った古い水を使い切るまで、症状が遅れて出るかもしれません。水を受け取れず、知らせることもできない家があるかもしれない。数値と身体のどちらが先かではなくて、両方が、どの刻に、どんな水や仕事のあとに出たかを見ます」
リナは、板の下に新しい横線を引いた。
《仮の再開条件》
その下へ、三つの短い行を置く。
《未使用石と第三の石で、同じ安全帯を続けて示す》
《放流を止めた後の聞き取りで、新しい症状が増えていないことを、聞けなかった家と分けて確認する》
《飲水以外の利用で困った人も、同じ記録へ入れる》
「第三の石って、誰が持つの」
母親が問うた。
「隣領の鑑定師、ネルさんです」
リナは答えた。
「鉱山の石でも、水番所の石でもない石で、本人に測ってもらいます。ただ、来るまで北水路を飲水へ戻す約束はしません」
板へ書かれた条件は、今日の水を増やしてくれない。薬を洗う湯も、包帯を替える回数も、まだ足りないままだ。それでも、色が青へ寄ったから、症状の紙が静かだから、とどちらか一つを都合よく選んで、誰かへ杯を渡すことは防げる。
そのとき、下流の給水列から来た娘が、入口で息を整えた。彼女は水車小屋の札を一枚、イレナへ差し出す。
「夕方四刻から今まで、配水札で聞いた家は二十七です。新しく腹が痛い、手が震えると答えた家は、なし。けれど、川沿いの三軒は雨で戸を閉めていて、まだ聞けていません」
イレナは、その三軒を空白のまま数えた。二十七の横に、未確認三、と書く。誰かが「増えていない」と言いかけたが、サナは先にトワの紙を見た。
「増え方が、今は止まっているように見えます」
言葉を選ぶと、診察室が静かになった。
「でも、止まったと言い切るには、まだ短いです。トワくんの朝の前兆も、古い水を使った家も、まだ追います。放流を止めたことが、次の人を増やさなかったなら、それは守るべき条件です。でも、もう大丈夫だと言うための札ではありません」
トワは、空になった杯を低い台へ戻した。こぼさずに置けたことを見て、母親が初めて肩を下ろす。
窓の外では、北橋を渡れない小樽が、旧水車道を一つずつ進んでいた。雨水に薄められた川は、遠くから見れば昨日より澄んでいる。けれど診察机の上では、黄の端、放流を止めた刻、届かなかった三軒、少年の親指のぴりぴりが、まだ同じ紙の上に残っていた。




