第5巻 第8話 噂の値段
黒嶺鉱山の賃金箱は、いつもより軽い音を立てた。
オルド・ガイゼは、坑道の入口に置かれた鉄箱の蓋を押さえた。まだ賃金日ではない。箱の中身が減ったわけでもない。それでも朝の支度をする坑夫たちは、箱を見てから自分の靴を見る。金がここへ届く前に、町の商会が何を止めるかを、皆が気にしていた。
昨日の夕方、麓の酒場で誰かが言ったらしい。北水路の水を調べる者が、黒嶺まで来る。鉱山の水が疑われている。
誰が言ったかは分からない。けれど今朝、鉱石を運ぶ荷車の御者は、次の便の約束を紙でほしいと言った。坑夫の妻は、靴職人へ渡した前金が戻るか聞きに来た。燃料商は、月末までの掛けを一度見直すと使いを寄こした。
まだ調査班は山へ来ていない。まだ誰も、黒嶺が水を悪くしたとは確かめていない。
噂だけが、賃金より先に町へ着いていた。
「坑夫長」
若い坑夫のユードが、入口の外で待っていた。泥のついた手袋を外し、指先を何度も曲げている。
「妻が、冬靴を取り置きしてもらえなくなった。店が悪いとは思わない。俺だって、金が入るか分からない人に革は渡せない」
彼の後ろには、小さな女の子がいた。古い靴のつま先を、紐で巻いている。雪が来る前に新しいものを買うと、ユードは先月から言っていた。
オルドは、娘の靴から目をそらさなかった。
「賃金日は変えない」
「商会が融資を引いたら」
「引かせないよう、今から話す」
言った言葉は、約束にはならない。融資帳を持つ者は、坑道の湿りも、子どもの靴も見ない。鉱山という名が水の苦みと並んだだけで、春の売上まで待てる人間が先に手を引く。
オルドは坑道の中へ入った。朝の灯が、壁の濡れた筋を黄色く照らしている。下の段からは、排水輪の音が続いていた。桶で汲んだ水を、溜め槽へ送り、沈んだ泥を分け、決まった量ずつ外の水路へ回す。採掘の槌の音より、この水の音が止まったときの方が、坑夫長には怖かった。
採掘を止めることはできる。槌を置き、火薬を仕舞い、坑夫を外へ出せばいい。
だが排水まで止めれば、坑道の水位は上がる。溜め槽がいっぱいになれば、泥の混じった濃い水が、決めた樋を通らず低いところへあふれる。坑夫を帰したあとに水が出れば、誰が弁を見て、誰が泥をせき止めるのか。水を疑われている時に、最も扱いにくい水を、見えない場所から出すことになる。
オルドは壁へ耳を当てた。いつもの水音だ。速くも、遅くもない。だから安全だとは言えない。けれど、止めれば安全になるとも言えなかった。
排水輪のそばには、採掘に入らない二人の男がいた。一人は夜まで弁を見て、もう一人は溜め槽の泥を掻く。坑夫の中には、槌を持つ者だけが働いていると思われることがある。だが水が上がる坑道では、鉱石を掘らない二人の手が先に止まれば、掘らない日にも水だけが溜まる。
「商会の使いが、炭の掛けも見直すって言ってました」
弁を見ていた男が言った。排水輪の軸へ油を足しながら、声を落としている。
「炭が来なければ、この輪を回す灯も減らす。調査の人に、そこまで書いてもらえるんですか」
オルドは答えなかった。排水輪は魔力だけで動くものではない。夜の見回りに使う灯、軸を直す鉄、泥を運ぶ手がいる。鉱山を止めるか続けるかという言葉の間に、排水だけ残す日の費用が落ちている。
坑道を出ると、ユードの妻が入口の石段に座っていた。娘の靴を膝に置き、靴底の裂け目へ布を詰めている。
「靴職人は、取り置きを取り消したわけじゃないんです」
彼女は、オルドが近づくと先に言った。
「今日までに半分だけでも払えたら、革を残すって。でもユードの前借りは、今月もう使ったでしょう」
オルドは賃金箱を思い出した。前借りを増やせば、次の賃金日までの箱が薄くなる。増やさなければ、娘は雪の前に同じ靴で山道を歩く。鉱山の名が水と並んだだけで、坑夫たちはまだ閉じてもいない坑道の損を先に払っている。
「役所の人が来たら、靴の話もするんですか」
妻が尋ねた。
「水を見に来る人に?」
「水を見たあとで、ここを止めるかもしれない人に」
その言い方は、役所を責めるものではなかった。止めるなら、止めたあとの夕飯まで見てほしいという、当たり前の頼みだった。オルドは、調査班が持つ採水瓶を思い浮かべた。瓶には水だけが入る。靴の裂け目も、排水輪の炭も、賃金箱の軽い音も入らない。
「話す」
オルドは言った。
「水を無視して、門を閉じるつもりはない。だが、入れる前に、止めたとき誰が残るかを聞かせる」
坑道の奥から、年長の坑夫バンが出てきた。顔に煤をつけ、排水輪の軸を見ていたという。
「外に、役所の人間が来た」
「何人だ」
「若い書記と、水番の娘。あと、知らない男が一人。水を採る許可があると言ってる」
オルドは、入口へ戻った。
門の前には、ノアとリナが立っていた。レントも少し後ろにいる。荷車も道具も持たず、採水瓶と帳面だけを持っている。その姿は、坑夫たちにとっては軽く見えるかもしれない。だが瓶へ入った水がどこへ行き、誰の口から鉱山の名になるかを、オルドは軽く見られなかった。
ノアは許可書を差し出した。
「上流水路の限定調査です。採るのは、川へ出る前の水路と、外側の溜め場だけです」
「鉱山の名は」
「公表しません。原因とも書きません」
オルドは紙を読んだ。産業補佐の印がある。三日の通行。採水場所も人数も決まっている。紙の上では、筋が通っていた。
その背後で、ユードが娘の手を握っていた。彼だけではない。坑夫たちの妻が、朝の弁当を渡しに来たまま門の外へ残っている。皆、許可書の字は読めなくても、役所の人間が水を見に来たことは見ている。
「名を出さないなら、なぜ来た」
バンが言った。
「来たことが町へ伝われば、名を出したのと同じだ」
リナは、すぐに否定しなかった。
「水を見ないまま、違うとも言えません」
「見たあと、違ったらどうする」
「違ったときも、記録に残す」
「その記録を、誰が信じる」
問いはリナだけへ向いていなかった。測定石が青でも、水が苦いと彼女が書いたように、紙は人を守ることも、疑いを長引かせることもある。オルドは、リナの手にある帳面を見た。彼女が自分の感覚だけで水を止められないように、坑夫たちも許可書一枚では門を開けられない。
「鉱山を閉めると言うために来たんじゃない」
レントが言った。
「水がどこで、いつ変わるかを確かめたい。もし鉱山と関係がないなら、そう残すためにも必要です」
「関係があったら」
オルドが聞く。
レントは答えを急がなかった。
「そのときも、止めるだけで終わらせない。坑道の水がどこへ行くか、排水を誰が見続けるかを、あなたたちと確かめる必要があります」
その言葉で、オルドはレントが坑道の水を少しは見ていると知った。採掘だけを止めて、排水係まで外へ出せばよいという話ではない。けれど、必要があると言われても、今日の賃金と明日の融資が待ってくれるわけではなかった。
「必要なら、誰が払う」
オルドは言った。
「排水だけ残す日が続けば、槌を置く坑夫の賃金は減る。濃い水を出さないために残る者は、家へ帰れない。町が水を守るために、坑夫の夕飯を誰が守る」
レントは、すぐに答えなかった。ノアが許可書の端を見る。フェルドが守ろうとした融資と雇用は、ここではまだ紙の中にある。調査の札には、排水係の賃金も、冬靴の前金も書かれていない。
坑夫たちは、オルドの後ろで黙っていた。誰も水の苦みを笑ってはいない。治癒院の話も、代替水を担ぐ人の話も聞いている。だが、自分の家の薪が買えなくなることまで、調査のためだからと渡せる者はいなかった。
ユードが娘の靴を見下ろした。
「水が悪いなら、直してほしい」
彼は小さく言った。
「でも、俺たちの名前だけを先に悪くしないでくれ」
オルドは、門の脇にある排水の木樋を見た。透明ではない水が、泥を沈めたあとに細く流れている。これが北水路の苦みと同じものか、自分には分からない。分からないからこそ、知らない者へ弁の内側まで見せるのが怖い。見せなければ、町の人はまた疑うだろう。見せれば、噂はすぐに賃金箱へ届く。
彼はノアの許可書を返した。
「今日は入れない」
「許可があります」
ノアは言ったが、紙を前へ押し出さなかった。
「許可は、門を壊すためのものじゃない」
オルドは答えた。
「坑道を見たいなら、排水を止めずに見る手と、坑夫の家へ何が残るかを持って来い。今の紙には、採る場所しかない」
リナが一歩出た。
「外側の水路だけでも」
バンが首を振った。門の前にいた坑夫たちも、作業用の灯を持ったまま動かなかった。オルドが止めるまでもなく、誰も道を開けない。
「調査班は入れない」
バンの声に、坑夫たちが頷いた。
坑夫が調査班を拒んだ。




