第4巻 第33話 一室目の夜
夜番の鐘が一度鳴るまで、サナの部屋の扉は開けたままだった。
誰かを閉じ込めるためではない。今夜、この部屋を新館の帳簿へ移し、必要なら旧館へ戻す。その途中で、廊下にいる人が誰でも中止の声を聞けるようにするためだった。
寝台の脇には、いつもの鈴がある。紐はサナの右手へ届く長さに結ばれ、その下に小さな板が置かれた。板には、太い字で三つだけ書かれている。
息が浅い。
胸が白くなる。
叔母と話せない。
サナは何度も読んだ。自分が決めた言葉だった。医師の言葉に直せば、もっと長い記録になる。発作の兆候、感覚の異常、連絡確認の不成立。けれど、呼吸が詰まり始めた時に読めるのは、この三行だけだ。
「この紙は、今夜だけの注意書きではありません」
イレナが、寝台の足元で言った。
「中止する理由です。サナさんが言えば止める。言えなくても、私がここに書かれたことを見たら止める」
「言えない時まで、私の代わりに決めてもらうのは怖いです」
サナは正直に言った。
イレナは頷いた。
「だから、止めたあとに続けるかどうかは、決めません。止めるところまでです。戻って、呼吸が整ってから、サナさんがまた選ぶ」
その言い方なら、紙は自分から何かを奪う命令にならない。サナは鈴を少し引いた。廊下の机に小さな音が届く。受付係が顔を上げ、イレナが指を一本立てた。
「一回は、いったん止めてこちらを見る合図。二回は、旧館へ戻す準備を始める合図です」
「言葉でも、鈴でも」
「言葉でも鈴でも。どちらか一つで足ります」
窓際にはミナが立ち、新館と旧館を結ぶ二枚の薄い札を、並べて持っていた。新館の札にはサナの名前と今夜の病室番号、旧館の札にはこれまでの夜間補助の印がある。前の仕組みなら、新しい札を通した瞬間、古い札は役目を失った。今夜は違う。古い札は眠らせるだけで、紐を切らない。
「新館の読み取りを始めても、旧館の暖房と夜間補助は残ります」
ミナは、札の端を指で押さえた。
「戻す時は、旧館の札を先に起こす。新館の記録は『試行中止』にする。完了にも失敗にも、今すぐはしません」
「中止って書かれたら、次の人が困りませんか」
「困るなら、その困り方を表示します。ここで隠した中止は、次の病室でまた同じことを起こします」
サナは、少しだけ安心した。自分が止めることで、誰かの順番を奪うのではない。止めた事実もまた、夜勤のための情報になる。
薬庫係のベルクは、寝台脇の卓上へ二つの小瓶を置いた。一つには旧館の青い札、一つには新館の白い札が巻かれている。中身は同じ夜の薬だが、受け渡し先だけが違った。
「今夜の分は、両方に数を出しています」
ベルクは帳面を開いた。
「白い札を渡したら、青い札は破棄しない。サナさんが飲めない、飲みたくない、あるいは戻るとなった時、旧館の記録で追えます。二重に飲むのを防ぐために、どちらを渡したかは私とイレナさんで声に出して確認します」
「私は、飲んだかどうかも言う」
サナが言うと、ベルクは帳面の余白を差し出した。
「言ってください。眠ってしまって言えない時は、飲んだ時刻を私たちが書きます。けれど、あとで直せる欄を空けておきます」
自分の夜が、他人の記憶だけで閉じない。小さな余白のことなのに、サナは胸の奥に張っていたものが少しほどけるのを感じた。
廊下の机で、電話の受話器が鳴った。受付係が手を挙げる。
「叔母様です。つながっています」
サナは寝台を降りず、受話器を受け取った。
「叔母さん。今から、部屋の札を新館へ試しに移すの」
向こうで、叔母がすぐには答えなかった。何かを言い直す気配がしてから、低い声が届いた。
『試しなら、途中でやめていいんだよね』
「うん。私は、やめるって言える」
『何時でも電話に出る。眠っていても、呼んで』
「もし電話が切れたら?」
『受付にもう一度かける。あなたは、電話のために息を我慢しなくていい』
サナは目を閉じた。叔母が来られない夜にも、電話が一本あれば何でも足りるとは思っていない。それでも、届かない時にどうするかを二人で言えた。連絡先の紙は、ただ安心させるための印ではなくなった。
「聞こえましたか」
イレナが訊く。
「はい。電話が切れても、戻す理由にはしない。でも、私が叔母さんと話したい時に話せなければ、いったん止める」
「その通りです」
書記が、停止条件の三行目へ「本人の希望で通話確認」と書き足した。
扉の外には、まだ数人の患者と家族が立っていた。自分たちの番が来る前に、最初の一室がどう止まるのかを見に来たのだと、サナは分かった。見せ物にされるのは嫌だった。けれど、扉を閉じれば、また裏で誰かが決めたように見える。
「皆さんに、ここにいてもらうのは大丈夫です」
サナは廊下へ言った。
「でも、私の息が苦しくなったら、質問はあとにしてください。今夜は、うまくいった話だけを見せる日じゃないから」
木工職人が、壁にもたれて頷いた。高齢の女性の孫は、祖母の手を握り直す。誰も部屋へ入ってこなかった。
ローデが旧館側の回線を確かめ、ミナが新館の読取盤に札を置いた。灯りが一つ、青から白へ変わる。音は驚くほど小さい。以前ならこの小ささが、移った事実を見えなくしていたのかもしれない。
「開始時刻、二十一時十二分」
ミナが言う。
「旧館の補助、継続。暖房、継続。夜勤記録、二重表示。薬、未交付」
イレナが続ける。
「サナさん、今はどうですか」
「少し、耳が遠い。でも話せます」
「耳が遠いのは、紙にありません」
イレナはすぐに言った。
「今から書きますか。中止の条件に入れますか」
サナは迷った。紙へ増やしすぎれば、何でも止める人になるような気がした。けれど、書かなかったことが無視される方が怖い。
「条件に入れない。今は、知らせるだけにする。耳が遠くなったら、あなたは私の目の前で話して」
「分かりました」
イレナは「観察」と書いた。止めるか続けるかの二つだけで、患者の体を扱わない。その書き方も、今夜のためのものだった。
最初の数分は、何も起きなかった。新館の読取盤が、サナの脈と寝台の温度をゆっくり受け取る。旧館の表示も消えず、二つの場所に同じ夜が並んでいる。サナは自分の名が二つあるような気がして、指先を握った。
ローデが旧館側の小窓を開け、暖房の送風が続いているかを手の甲で確かめた。
「旧館は動いてる。ここを切っても、あっちの夜は切れない」
それを聞いてから、サナは初めて寝台の外へ目を向けられた。新館の白い灯りが点いても、旧館は暗い穴にはならない。戻ることは、失敗した患者を隠すことではなく、今いる場所の手をもう一度使うことだ。
「私が止めたら、誰が先に動くの」
サナは訊いた。
「私がサナさんのそばに残ります」
イレナが答える。
「ミナさんは札を戻す。ローデさんは旧館の補助を確認する。ベルクさんは薬を動かさない。受付は叔母様へ電話する。誰か一人が全部をしない」
「私が説明しなくても?」
「説明ができるなら、聞きます。できないなら、この順です」
サナは、短い手順を自分でも復唱した。止める時にも、自分が何も分からないまま連れて行かれるわけではない。聞けることと、答えられない時に守られることを、別々に置いてある。
受付係が受話器を持ち上げたまま、叔母へもう一度訊いた。
「中止になった時の連絡も、こちらから差し上げます。サナさんが話せるかどうかは、その時に本人へ確認します」
受話器越しの返事は短かった。
『分かりました。話せなくても、決めたことを責めないでください』
サナはその言葉を聞き、頷いた。誰かに許されるために止めるのではない。ただ、止めたあとに一人で理由を背負わなくていい。
ベルクが薬の時刻を告げた。
「白い札の薬を渡します。旧館の青い札は保留。サナさん、今夜の薬を受け取りますか」
「受け取ります」
「飲んだあと、気持ち悪さや息苦しさがあれば」
「言う。鈴も引く」
「復唱できました」
イレナが言い、ベルクが白い札の小瓶を渡す。サナは水を一口含み、薬を飲んだ。ベルクは帳面に時刻を書き、青い札の欄へ赤い線を引いた。消したのではない。今夜は渡していない、と誰が見ても分かる線だった。
その直後、読取盤の白い灯りが一度だけ細くなった。
ミナが顔を上げる。
「新館側の脈が、旧館より遅れて見えます」
「何秒ですか」
イレナが訊く。
「四秒。補正の範囲ですが、増えれば止めます」
サナは盤を見た。数字の遅れそのものは痛くない。ただ、遅れた場所に自分の体が置き去りになるようで、息を吸うタイミングが分からなくなった。
「サナさん」
イレナの声が近くなる。
「胸は」
「まだ白くない。けれど、息が浅い」
サナは、言いながら自分の声が細くなるのを聞いた。板の一行目が、寝台の脇で目に入る。息が浅い。ここで言えば止めると、皆で決めた。
廊下で誰かが小さく息をのんだ。ミナの手は札の上で止まり、ベルクは薬庫の帳面を閉じないまま待っている。叔母の受話器は、まだ机の上に置かれていた。
「中止の条件です」
イレナは、急かさずに言った。
「サナさん。続けますか。止めますか」
サナは鈴の紐へ手を伸ばした。ここで黙れば、皆は白い灯りが安定するまで待つだろう。最初の一室を成功にしたい人の沈黙が、部屋に集まり始めているのが分かる。
けれど、自分で決めた紙を、最初の夜だけ読まないなら、次の患者に渡せるものは何もない。
「止めます」
サナは言った。
そして、鈴を一度だけ鳴らした。




