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俺に魔法は使えない。でも、なぜ王国の結界が落ちたのかは説明できる  作者: pj.masta


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第3巻 第三十一話 職を返す署名

ノアの首元には、身分証の革紐だけが残っていた。


 代官庁の石蔵の前には、封印札を貼られた五つの蓄魔具が箱ごと積まれている。雪は横から吹きつけ、青い札の端を小さく震わせていた。返納品はまだ山を下っていない。だが、ノアが供給帳を開くことも、差押えを止める印を使うことも、もうできない。


「署名だけなら、書記官でなくてもできる」


 エマが言った。


 共同炉の板を抱え、石蔵の扉の前に立っている。板には牛舎、学校、治療所、製粉所、避難小屋の札が重なっている。ノアはそれを見て、すぐに頷けなかった。


「できます。でも、署名が多ければ通るわけではありません」


「なら、何が足りない」


「誰が何を引き受け、どこで止めるかです」


 自分が書記だった頃なら、ここで署名欄の形を整え、名を集めることへ急いだだろう。だが、紙の名前だけが増えれば、寒波の夜に誰が炉を離れ、誰が車を待つかは残らない。


 ノアは共同炉へ戻った。炉の火は低い。薪をくべるゴドは、片手で火箸を持ち、もう片手で石蔵の方角を指した。


「署名して、五つが戻るのか」


「戻るとは言えません」


「なら、紙へ名を出す暇に薪を割る」


 もっともな返事だった。ノアは炉のそばへしゃがみ、板の一番下に新しい紙を置いた。


「名を出してほしいのは、返してほしいと言うためだけではありません。五つが戻らなくても、寒波をどう越えるかを、王都の返納先と同じ紙へ出すためです」


 ゴドは火箸を止めた。


「村が名を出せば、削る順番も村の責任になる」


「なります」


「王都の不足まで、こっちが背負うのか」


「背負いません。王都側が何を止められないかは、クレイさんが書く。村側は、ここで何を止められないかを書く。どちらかを空欄にしないための共同署名です」


 ゴドは炭を一つ、炉の奥へ押した。火が少し明るくなる。


「俺の名で、製粉を後にすると書くのか」


「後にする刻と、粉が二袋を切ったら戻すことを」


「それなら書く」


 ゴドは火箸を置き、煤のついた親指で印を押した。署名を書けない者のために、ノアは名前の横へ炉番の印と、今日の粉袋の数を書く欄を作った。印だけでは、誰が何を言ったのか、次の者に分からない。


 ゴドは印を押したあと、板の端に積んだ薪を二本持ち上げた。


「この薪も書くか」


「何のために」


「今夜、炉を細くするなら、明朝まで残す分だ。紙に火だけ書いて、薪が尽きたら笑えん」


 ノアは欄を増やした。《次の刻まで残すもの》。ナダは薬草、ティナは湯桶の布、メラは牛舎の乾いた藁を挙げた。署名は名を並べる紙ではなく、寒波の最中に誰が何を持ち出さずに残すかを、互いに見える場所へ置く紙になっていく。


 学校から来た母親は、自分の印を押す前に尋ねた。


「これで、私の家が学校より後になると決まるの」


「決まりません」


 ノアは答えた。


「家の炉が消える条件も、学校の火番が一人になる条件も、同じ紙へ書きます。どちらかが越えたら、順番を戻すための署名です」


 母親は少し考え、指の腹へ墨を付けた。家の印の横に、《幼子、寝床二つ》とティナが書き足す。ノアは、誰かの暮らしを細かく書かせすぎないよう、その言葉だけで止めた。


 治療所のナダは、寝台の間から出て来た。湯袋を替えたばかりで、指先が赤い。


「私は、治療所の火を守ると書かない」


 彼女は言った。


「患者の足先が冷え、薬を飲めない者が出たら、学校の火も、製粉の刻も、もう一度席へ戻すと書く。治療所が先だから黙って受け取る、では夜を越せない」


 エマが板を押さえる。ナダは自分の名の下に、患者名ではなく《薬湯一口・指先》と書いた。見知らぬ上役へ病の名を差し出さなくても、火を戻す条件は伝えられる。


 ティナは、学校の子どもたちを連れて来なかった。代わりに、火番表の端を切り取り、二人組の印が並ぶ部分を持って来た。


「子どもの名を、署名に使わないでください」


「使いません」


「でも、夜に火を見られる人数はここへ書く。大人が足りなくなって、眠い子を一人にしたら、学校は火を受け取れない」


 ノアは、署名の横へ《火番二人》と写す。責任を子どもへ渡さないために、子どもが今している仕事を消さない。


 メラは牛舎の木札を広げた。水、金具、乳、瓶、運び手。炭の字は濡れて滲んでいる。


「牛舎は、また後か」


 ノアは答える前に、板の紐を指で辿った。西村の患者車、学校の乳待ち、治療所の粥まで、牛舎の札はつながっている。


「一夜目は、治療所と学校の最低線を先にします」


「分かってる」


 メラは言った。


「だから、二夜目まで乳が二桶を切ったら戻す、と書く。村が牛を後にしたんじゃなく、どこまで後にできるかを決めたと残してくれ」


 ノアは、そのまま写した。自分の言葉へ丸めなかった。


 エマが板を伏せた。


「待って。ノアが書記でなくなったら、この紙を誰が監察席へ通すの」


 炉のそばが静かになった。共同署名を書いても、冬季例外の承認印を押せる者がいなければ、石蔵の封印は朝に荷車へ戻る。ノアは、自分がいなくても紙が動くと言ったばかりだった。


「少年職員が写しを作り、流路番が石箱の値を添える。クレイさんが王都の受領先を付ける。私は、原本と署名の照合だけを頼む」


「それで誰が、例外を出すと決めるの」


「監察席です」


「返事が来ない夜は」


 エマの声は強かった。弟を治療所から戻し、牛舎を後にし、今夜の炉を守る者の声だ。紙を運ぶ人が増えても、返事を待つ間に村が冷えれば意味がない。


 ノアは身分証のない首元へ手を置いた。


「私が書記の印で決めれば早い。でも、それではまた、村が決めた順番を私一人の許可にする」


「なら、私たちは待つだけ?」


「待たない。返事が来ない一夜は、今日ここで書く最低線で動く。誰かが越えたら、炉の板の札を持つ人が止める。私が残すのは印ではなく、その札が監察席へ届く道です」


 エマはしばらく板を見た。やがて伏せた板を起こし、ノアの前へ押し出す。


「届かなかった時も、誰が止めたかを残して。次に、村が勝手に使ったと言わせないために」


「残します」


 ノアは答えた。署名の下に《夜間停止を求める者》の欄を作る。エマは最初の印を置いた。権限を手放しても、責任まで空にしないための印だった。


 日が落ちる頃、共同炉の板には十を越える印が並んだ。製粉所、治療所、学校、牛舎、患者車、避難小屋。全員が同じ順番へ賛成したわけではない。自分の場所を後へ置き、どこで戻すかを決めた印だ。


 クレイは石蔵の前から、その紙を読んだ。王都の受領予定を書いた控えを持っている。


「これを共同署名として、監察席へ送る」


 ノアが言うと、クレイは紙の端を持ち上げた。


「村の名だけではない。誰がどう止めるかまである」


「王都側も、受領先と止められない刻を書いています」


「書いた。だが一夜で答えが来る保証はない」


「来なくても、送ります」


 クレイは、共同署名の隣へ契約代理として小さな印を押した。賛成ではなく、《受領先資料添付》。それでも、村の紙を王都へ運ぶ箱の外へ置かない印だった。


 その後、ノアは紙を三つに写した。一つは監察席へ、一つは石蔵の扉へ、一つは共同炉へ置く。少年職員が墨を擦り、ノアは写しの余白へ《原本は代官庁記録庫、更新第七二号》と書いた。身分証を失った者が、勝手に原本を持ち出したと言われないためだ。


 写しを待つ間、クレイは御者へ荷車の馬を外すよう命じた。返納品を今夜動かせないなら、馬を荷につないだまま凍らせる理由はない。御者は鼻息の荒い馬の背を拭き、干し草を置く。クレイが村を去らないことは、誰も信用の印とは受け取らない。それでも、王都側の人間もこの夜を越えるための手を動かしているのを、ノアは見た。


「猶予が来なければ」


 エマが小さく言う。


「明け方に、荷車は出る」


 クレイは隠さなかった。


「その前に、共同署名を送る。私の控えにも残す」


 ノアは言った。紙を出すことは、相手を信じることではない。出さなければ、明け方の荷車が村の札を知らずに動くことだけは確かだった。


 使いが馬へまたがったのは、すっかり暗くなってからだ。雪は細かく、道の白さと空の白さがつながり始めている。ノアは紙を渡したあと、首元の革紐を触った。もう札はない。けれど、炉の板から写した印が、彼の手を離れて山道へ出た。


 その夜、監察席の返事は来なかった。


 代わりに夜半、石蔵の扉を叩く音がした。雪まみれの使いが、監察席の短い命令を差し出す。


 《共同署名と受領先資料を照合するまで、返納品の持出しを一夜猶予する》。


 封印札は外れない。だが荷車は、翌朝まで石蔵に留まる。


 ノアは命令の紙を、共同炉の板へ釘で留めた。猶予は一夜だけだった。


 釘を打つ音を聞き、ゴドは炉の蓋を閉めた。今夜は、返納品が戻ることを当てにして薪を使わない。ナダは治療所へ走り、湯袋を替える刻を一つ早める。ティナは学校の火番表を夜半用へ書き換える。猶予は皆を温める魔法ではない。明け方まで、決めた順番を続ける時間を一夜だけ買ったにすぎなかった。

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