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第十話 朝の塔

翌朝、蓮人は鐘より先に目を覚ました。守備隊宿舎の借り部屋は、前世の自室より狭かった。窓辺に木の寝台と、小さな机があるだけだ。


 それでも、会議室の床で目を覚ますよりはいい。


 窓の外はまだ暗い。


 北塔の輪郭だけが、夜空を切り取っていた。昨日、ガルドの手帳から確認できた過去の兆候は十六件。そのうち九件は、公式記録にもミナの覚え書きにもない。


 ガルドしか気づいていなかった。そして彼は、結界庁へ九回報告していた。


 返答はすべて同じ。


 規定値内につき、経過観察。


 蓮人は服を整え、宿舎を出た。北塔の入口には、すでにミナがいた。


「早いですね」


「始動確認の担当なので」


「今日は俺たちが調査しなくても?」


「毎日です」


 答えは昨日と同じだった。


 その声はかすれていた。


 ミナは昨夜、十六件の記録を読み合わせたあと、鐘楼の夜間確認も代行していた。目の下に薄い影があり、鍵を選ぶ指が一度、違う輪をつまむ。


「寝ましたか」


「始動担当に遅れない程度には」


 答えになっていない。


 外扉の脇では、夜勤の術師が壁へ背を預けていた。交代を待ちながら眠りかけ、ミナが鍵を鳴らすと慌てて立つ。


「異常は」


「表示上はありません。三刻前、北東流路で一度だけ打音。確認へ行きましたが、南塔の呼出しと重なって、途中で戻りました」


「一人で両方を?」


「夜は私だけです」


 術師は引継ぎを終えると、朝食も取らず宿舎へ向かった。昼過ぎには、また南塔の補助へ入るという。疲れた人が、疲れた人へ塔を渡している。


 夜勤の術師を呼び止め、打音を聞いた場所だけ図へ記してもらった。男は壁の線を二度書き直す。


「北東流路だと思ったが、夜は静かだから上階の音が下へ響いたのかもしれない」


「候補を両方残してください」


「曖昧な報告になる」


「一つに決める方が、間違っているかもしれません」


 男は北東流路と上階監視室へ印をつけた。


「こんなことまで書けば、朝番が読む前に日が暮れる」


 ミナが覚え書きの印を教えた。音は一つ、匂いは二つ、振動は三つ。普段との差がある場所だけ、丸の数で渡す。


 夜勤者は上階へ一つ、北東流路へ三つの丸を描いた。個人の工夫が、初めて交代者へ渡った。ミナは鍵束から三本を選び、外扉、内扉、認証箱を順番に開ける。


 迷いがない。


 百八十五日繰り返した動きだ。


「誰かに教えたことは?」


「手順書はあります」


「そうではなく、実際に隣でやってもらったことは」


「主任が知っています」


「最後にやったのは?」


「私が体調を崩した日です。四か月前」


 扉の内側で、ミナは清掃札を裏返した。前日の作業者名はガルド。確認者欄は空白だった。


「いつもは主任の署名があるんですよね」


「朝、あとから書かれることもあります」


「確認する前に、始動する?」


 ミナの手が止まった。


「清掃札が表になっていれば、完了です」


「誰が表へ戻します?」


「作業者です」


「では確認者は、何を確認するんですか」


「……清掃札が表であることを」


 作業者が完了を示す。


 確認者は、その表示を見る。


 現物を確認する人はいない。


 前世の承認画面が頭に浮かんだ。チェック欄に印があることを確認し、承認ボタンを押す。中身を見た人は誰なのか、最後にはわからなくなる。


「今日は一つずつ、実物を見てもいいですか」


「時間がかかります」


「どれくらい」


「いつもの始動は半刻です。全部見ると、一刻以上」


「交代時刻に間に合わない?」


「私の次の担当は、鐘楼確認です」


 休む時間ではなく、次の仕事が始まるらしい。蓮人は昨日の契約を思い出した。


 三日以内。


 市場を止めない。


 出力を下げない。


 調査時間を増やすだけで、日常業務が遅れる。


「セラさんへ、鐘楼確認の代行を頼みます」


「守備隊に結界庁の仕事はできません」


「灯の色と鐘の金具を見るところまでなら?」


「認証紋の読み取りが」


「そこだけ、あとで一緒に確認する。全部を一人へ渡すのではなく、分けられる作業を探しましょう」


 ミナは不安そうだった。


 自分の仕事を取られる恐れではない。人へ渡して、間違われることを恐れている。


「今日は調査です」


 蓮人は言った。


「誰かへ任せられるかも、調査対象にしましょう」


 セラへ伝令を出し、二人は始動前点検を始めた。


 入口の温度。


 流路圧。


 水輪の外観。


 接合部からの漏れ。


 補助流路の弁。


 出口管の熱。


 ミナが数値を読み、蓮人が前日との差を尋ねる。図面にない管には触れず、接続部の温度だけをガルドの金属棒で聞いた。


「冷たい」


 ミナが言う。


「主流路より?」


「かなり」


「昨日、水輪が止まったときは?」


「確認していません」


 次の観測項目が増えた。


 炉心色は青。


 水輪音は、ガルドが言う「朝の音」よりわずかに低い。入口圧は正常。出口は測定石がないため、金属棒の音と管表面の熱を記録した。


 一刻近くかけ、ようやく始動準備が整った。


「動かします」


 ミナが始動紋へ手を置く。


 青い光が指先から石板へ流れた。


 床下で重い音がする。


 水輪が回り始める。


 入口圧、上昇。


 炉心、青。


 北塔出力、規定値へ。


 すべて正常だった。


 それなのに、蓮人は違和感を覚えた。


 昨日の焦げた匂いではない。


 音だった。


「ミナさん。いま、何か止まりませんでしたか」


「始動したところです」


「水輪ではなく、ほかの音です」


 二人で息を止める。


 塔の中には、水輪の唸り、流路を走る水、上階の結界紋が震える細い音が重なっている。その中に、一定の間隔で鳴っていた小さな金属音があった。


 ちん。


 ちん。


 遠くで細い棒が揺れるような音。それが、始動完了と同時に消えている。


「どこからですか」


 ミナは首を巡らせた。


 蓮人は目を閉じた。


 聞こえていた位置を思い出す。


 上ではない。


 水輪でもない。


 石壁の向こう。


 図面にない細い管が延びていった先だった。蓮人が壁へ近づくと、視界の端に淡い光が走った。


 管から壁の奥へ。


 壁の奥から、上階へ。


 上階から、北の鐘楼へ。


 一瞬だけ、物と物の間を結ぶ線が見えた。


 一本ではなかった。


 図面にない管から鐘楼へ向かう白い線。水輪から上階の監視環へ伸びる青い線。床下から南塔の方角へ沈む、細い灰色の線。


 さらに、ミナの持つ確認石と壁の測定石の間にも、糸のような光が揺れている。どれが原因で、どれが単に接続されているだけなのかはわからない。線同士は重なり、見る角度を変えるたび前後が入れ替わった。


 蓮人は白い線へ目を凝らした。こめかみの奥が、針で刺されたように痛む。


 白い線が二つに割れた。一方は鐘楼へ、もう一方は迎賓館の屋根らしい方角へ伸びる。瞬きをすると、今度は青い線が白へ変わった。


 見えているものが事実なのか、頭痛が作った残像なのか判断できない。蓮人は壁から離れ、観測済みの事実と照らした。


 図面にない管は実在する。鐘楼へ届くかは未確認。水輪と監視環は図面上で接続されているが、信号の向きは読めない。


 南への灰色線は、床下流路の存在自体を確かめていない。確認石と測定石は、同じ値を示すため関係があるように見えるだけかもしれない。


 線は新しい事実を増やしていない。調べる候補を増やしただけだ。


「鐘楼への管路図は」


「上階の監視環を通ります」


 ミナが図面を開く。


「壁の奥は」


「改修記録が必要です」


「では白い線を正しいと扱わない。まず記録と、実際の出口を確かめます」


 もう一度壁へ焦点を合わせても、光は戻らない。都合よく使える視覚ではなく、見えたとしても答えを出すものではなかった。


「今日は、どこまで確認しますか」


 ミナが尋ねた。


「管の出口だけです。監視環と南側流路は、昼と夜で条件が変わる。確認石との関係には、同じ石を別の場所へ運ぶ試験が要る」


「全部、朝のうちに見るのでは?」


「俺が見たいだけなら。でも、あなたの鐘楼確認と夜勤者の休息を削ります」


 まず備品庫まで管を外から追い、壁を開けず通路側の温度を測る。作業範囲を一つへ限定した。


 ミナは予定表から、昼の高負荷観察と重ならない時間を選ぶ。セラの代行者には確認灯の色だけを渡し、認証紋はミナが戻ってから読む。調査項目を増やすほど、現場の時間は減る。


 線が四本見えたことより、今日は一本しか確かめられないことの方が重要だった。ミナが扉の時刻札を裏返す。通常より半刻遅い始動だった。


「遅れを記録します。調査のため、と」


「市場への影響は」


「この時間ならありません。昼の負荷が始まる前です」


 時間を使ったことも、無償にはしない。誰の別の仕事を遅らせ、どこへ影響しなかったかまで残す。


 蓮人は痛むこめかみを押さえず、頭痛が始まった時刻をミナへ伝えた。線だけでなく、それを見た人間の状態も観測条件の一つだった。


「痛み、軽度。視界の異常は一度。再現せず」


 ミナが読み返す。


 能力らしい現象まで、特別な啓示ではなく一件の不確かな観測として記録された。


 蓮人は目をこすった。


 光は消えた。


「どうしました」


「いま、線が」


 言いかけて、床が小さく震えた。痛みが遅れて額全体へ広がる。蓮人は壁へ手をついた。


「顔色が悪いです」


「寝不足かもしれません」


 異世界へ来てから、まともに眠っていない。そう説明できるうちは、線を能力だと決めつけない方がいい。


「見えたものを、そのまま記録してください。管と鐘楼。水輪と監視環。床下と南側。確認石と測定石。四つとも候補です」


「どれが正しいんですか」


「まだ一つも正しいと確認できていません」


 ミナは迷ったあと、四本を同じ太さで紙へ描いた。蓮人が最初に追った白線だけを特別扱いしない。


 壁の測定石は緑。


 塔の出力も規定値。


 だが図面にない管の先で、聞こえなくなった金属音だけが、正常ではないと告げていた。

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