第五十一話 あの日
ホルスさんは、窓の外に目をやりながらぽつりと言った。
「……とはいうものの、だ」
「俺もお前も、できることはたいしてねぇ」
「せいぜい、ホップを迎えに行くくらいだ」
「そうですね」
僕も、苦笑いを浮かべる。
「ああ」
ホルスさんは、どこか遠くを見るような目で頷いた。
「あの賢いバルダン王のことだ」
「うまくやるさ」
その声には、信頼と確信がにじんでいた。
そのころ、城の奥深く。
陽の届かない地下の小さな部屋で、一人の青年が目を覚まそうとしていた。
⸻
その日は、突然やってきた。
訳も分からないまま地下の小部屋へと連れてこられた、あの日から。
粗末なベッドと机がひとつだけ置かれたこの部屋での暮らしは、もう半年ほどになろうとしていた。
季節が変わり、外の空気の匂いだけが、廊下の隙間風に紛れて運ばれてくる。
ホップは、ベッドの上で体を起こした。
「……はぁ」
いつものように、息を吐く。
(今日も、外の空は見えない)
そんな当たり前になってしまった日々の中で、ときどき思い出す。
すべてが変わってしまった、あの日のことを。
⸻
「今日はテオ様が、王となられるための王家の剣披露式典だ」
あの日の朝。
まだ地下に送られる前、ホップは城の一角で、いつものように剣の手入れをしていた。
そこへ、騎士ガレオンがやってきて、そう告げた。
「式典……ですか?」
ホップは顔を上げる。
「何が行われるんですか、ガレオンさん」
「ん?」
ガレオンは片眉を上げて、少し考えるそぶりを見せた。
「そうか、お前、見習いだから知らんのか」
「王家の剣の儀式だよ」
「王が次の王を選ぶときの、古い儀式だ」
「俺も王家の剣を見られるのかと思うと少し楽しみだ、書物や絵でしか見たことないからな」
「へぇ……」
ホップは、興味半分といった表情で聞いていた。
「と言ってもな」
ガレオンは苦笑する。
「血筋で言えば、テオ様しか次の王候補はいない」
「剣が扱えなくても、ただのお披露目」
「扱えれば尚よし、ってくらいだな」
「なるほど……」
ホップは腕を組む。
「で、ガレオンさんは」
「テオ様が剣を扱えると思います?」
「ん?」
ガレオンが、ぐっと言葉に詰まった。
「あ、いや、そのだな……」
視線をそらし、喉元をかいた。
「……言いにくいこと聞くな、ホップ」
「それとこれは、他の騎士には絶対聞くなよ」
「皆、絶対反応に困るからな」
テオ王子は、剣の腕がからっきしだった。
それは城の騎士なら誰もが知っている事実だった。
「わ、分かりました」
ホップは苦笑いしながら頷く。
「扱えなかったら、どうなるんです?」
「ああ、それはな」
ガレオンは肩をすくめた。
「扱えなかったら扱えなかったで」
「順番に、王家、貴族、騎士が剣を持ち上げてみるのが慣わしだ」
「へぇ、じゃあガレオンさんも?」
「そうだろうな」
ガレオンはにやりと笑う。
「その場にいるほぼ全員に、持ち上げる権利が回ってくる」
「次王が上がらなかった時の、ほら──」
「みんな上がらないから気にするなっていう、妙な緩和の意味があるらしい」
「はは……」
ホップも思わず笑った。
「でもガレオンさんほどの腕だったら、もしかしたら上がるんじゃないですか?」
「バカ」
ガレオンはぴしゃりと言った。
「あれは腕じゃないんだ」
「血筋に反応する剣だ」
「王家と、それに相応しい血でしか、上がらない」
「王に相応しいってことですか?」
「正確には、ちょっと違う」
ガレオンは少し真面目な顔になる。
「王に相応しいじゃなくてな」
「『剣を持つに相応しい存在』に反応する」
「王の資質とは、また別の話だ」
「へぇ……」
ホップは、剣の柄を指先でなぞる。
(剣を持つに相応しい、か)
「でもな」
ガレオンが、ふっと口元を緩めた。
「あの貴族連中も、遠い血筋があるって思ってるから」
「持ち上げてやろうと躍起になってる姿が見られる」
「そればっかりは、ちょっと楽しいんだ」
「ガレオンさん、ちょっとダークっすね」
「ふふふ」
ガレオンは笑いながらホップの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「さ、配置につくぞ」
「お前、今日は門兵として立つんだったな」
「はいっす!」
ホップは慌てて立ち上がる。
「準備します!」
⸻
やがて、式典が始まった。
大広間には、王族と貴族、騎士たちがずらりと並び、張り詰めた空気が漂っている。
ホップは門の側で、他の兵とともに立っていた。
王座の前。
王バルダンが、静かに立ち上がる。
「テオ」
重々しい声が広間を満たした。
「剣を」
「はい、父上」
テオ王子は、少し緊張した面持ちで歩み寄る。
玉座の前に安置されていた王家の剣へ手を伸ばした。
柄を握り、ぐっと力を込める──が。
「重……っ!」
剣は持ち上がるが、振り下ろす際、テオ王子は身体ごとよろめいた。
「ふ……う……」
肩で息をしながら、無理に笑顔を作る。
「もう少し、でしたね」
「ワシも振れなんだ」
バルダン王は、苦笑を隠さずに言った。
「気にすることはない」
そして、振り返って広間を見渡す。
「では!」
声を張り上げる。
「これから、この場にいる皆で、この剣を振ってみてもらおうではないか!」
「さあ、名乗り出るがよい!」
広間がざわめいた。
「私が!」
「いや、ここは私が!」
「王家の古い血筋はこの私の家系にこそ──!」
王族から貴族へと、次々と名乗り出る。
しかし、誰一人として、剣を振るうことはできなかった。
「では、次は騎士だ!」
バルダン王は、今度は下段に目を向ける。
「騎士団、前へ!」
「はっ!」
ガレオンが一歩前へ進み出る。
柄を握り、ぐっと持ち上げ──
「……ぬ、お、おもっ……!」
振り上げ振り下ろすものの、そのままよろめいた。
「お、重い……」
他の騎士たちも次々挑むが、結果はガレオンと大差ない。
剣は、頑なに沈黙を守り続けた。
「次──」
やがて、王の視線はさらに下へと向けられた。
「門兵の二人、こっちへ来い」
ぎくり、と隣の兵が肩を震わせる。
「お前たちで最後だ」
バルダン王が静かに告げた。
「やってみせよ」
「はっ! では、自分が」
ホップが、一歩前に出た。
(どうせ、持ち上がりもしないだろう)
(でも──)
柄に手を伸ばす。
触れた瞬間、胸の奥で何かが、かすかに震えた気がした。
(……?)
「ほっ!」
何気なく、そのまま剣を振り上げる。
その瞬間。
剣は、驚くほど軽く、空気を裂いて、弧を描いた。
風を裂く音が、やけに大きく聞こえた。
誰よりも、軽やかに、誰よりも、自然に。
「……え?」
ホップ自身が、呆然と剣を見つめていた。
「な──」
王座の上で、バルダン王が目を見開く。
「な、なぜだ……いったい、どういうことだ!?」
広間が、ざわざわと揺れた。
「今のを見たか?」
「あの兵、たしか騎士見習いの──」
「王家の剣を……!」
「テオ様は振れなかったのに」
ガレオンも、信じられないものを見るような目でホップを見ていた。
「な……ホップ……?」
乾いた声が、広間に溶ける。
「な、なんでお前が──」
(俺、本当に、振ったのか?)
(この剣を──?)
ホップの心臓が、激しく鳴り始める。
⸻
(まずい)
バルダン王は、即座に悟った。
(このままでは、収拾がつかなくなる)
テオ王子も、目の前の光景に固まったまま動けない。
貴族たちは顔を見合わせ、ざわめきは波のように広まっていった。
「──静まれい!」
バルダン王は、杖で床を強く叩いた。
「静まれ!」
広間が、しん、と静まる。
「今のことが真実かどうか、確かめる必要がある」
王の声は、あくまで冷静を装っていた。
「この者をひとまず、連れていけ!」
指差された先で、ホップはきょとんとした。
「え? な、なんで俺──?」
近くの兵が駆け寄ってくる。
「悪いな、ホップ」
「ちょっと来い」
「!?」
その日を境に。
王城から外への情報は絞られ、城下との交流は縮小され、通行証制度が導入されていく。
バルダン王はあらゆる手段を講じて騒ぎを抑えようとしたが、門兵が王家の剣を振り上げたという噂は、一部の貴族から大商人へ。
やがて──その噂は、テュリップを通してホルスたちの耳にも届くことになる。
⸻
そして今。
ホップは、その騒動の中心人物として、地下の小部屋に押し込められている。
牢に入れられなかったのは、王自身も、どう処分していいか分からなかったからだ。
処刑するにはあまりにも不確定要素が多く、しかし自由にすれば火種になる。
結果としてホップは、地上から半ば忘れられた存在として、地下でその時を待つしかなかった。
「ホップー、おい、ホップ」
鉄扉の向こうから、音がする。
「なんすか、ロブさん」
ホップはベッドから降り、扉の小窓に顔を寄せた。
そこには、この半年で一番顔を合わせている牢兵、ロブの顔があった。
「なんか上で動きがあったらしいぞ」
「動き?」
「お前の……処刑だとかなんとか」
「──は?」
ホップの背筋に、冷たいものが走る。
「まさか、俺ですか」
「かもしんねえな」
ロブは肩をすくめた。
「バルダン様も最近、打つ手なしって感じで悩んでたみてぇだしよ」
「ここで一発、帳尻合わせってわけかもな」
「そんな……」
(処刑……俺、殺されるのか?)
「ホップ!」
その時、別の声が廊下に響いた。
「ホップはいるか!」
聞き慣れた、張りのある声。
「ガレオンさん!?」
ロブが慌てて姿勢を正す。
「ここです!」
「入るぞ」
ガチャ、と重い鍵の音がして、鉄扉が開く。
ガレオンが、いつもの鎧姿のまま部屋へ入ってきた。
「ホップ」
真剣な顔つきで、ホップの肩をつかむ。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないです」
ホップは、引きつった笑いを浮かべた。
「俺、処刑されるかもしれないって聞きました」
「お前を逃す」
ガレオンは、一切迷いのない声音で言った。
「……は?」
「俺、逃亡者にはなれないですよ」
ホップは首を振る。
「そんなの、嫌です」
「違う」
ガレオンは、少しだけ目尻を和らげた。
「バルダン様直々の命令だ」
「お前を処刑されたことにして自由にする」
「……え? どういう、ことですか」
ホップは、ガレオンの顔を見上げる。
「長く話している暇はない」
ガレオンは首を振った。
「俺も、全部を分かっているわけじゃない」
「ただ、バルダン様が、お前を裏口へ案内せよ、と仰った」
「裏口……」
「でもな、ホップ」
ガレオンは、ぐっとホップの肩に力を込めた。
「バルダン様の命令とか、そういうの抜きにしてもだ」
「俺は、お前を信じたい」
「お前は真っ直ぐだ、そして芯のある奴だ」
「そんな奴を、ただ殺されるままに放っとく気はない」
「ガレオンさん……」
ホップの喉が、熱くなった。
「俺……」
「正直、もっと鍛えたかったがな」
ガレオンは、少し寂しそうに笑う。
「お前はきっとモノになる」
「剣も、人間もな」
「正直隣に並んで戦える日を楽しみにしてたんだ」
そう言って、腰の後ろから何かを引き抜いた。
長い布でぐるぐるに巻かれた、それをホップに差し出す。
「それと──」
「これも持っていけ、とバルダン様が」
「これは……」
ホップは両手でそれを受け取り、布の端をめくった。
月光のような刃が、かすかに光る。
「ああ」
ガレオンが頷く。
「王家の剣だ」
「そんな……!」
ホップは慌てて布をかぶせ直した。
「俺なんかが、持っていっていいものじゃ──」
「お前には、何かあるんだろう」
ガレオンは、静かに言う。
「運命みたいな、何かがな」
ホップは、言葉を失った。
(運命、なんて)
(そんな大層なもん、俺が持ってていいのか)
(でも──)
「ありがとうございました」
ホップは、ぎゅっと柄の部分を握りしめる。
「ガレオンさん」
「いつか必ず、俺──」
「いい」
ガレオンは笑って手を振った。
「そんな先の話は、その時でいい」
「今は、とにかく生きろ」
ガレオンは、布の端を整えながらホップの背中をぽんと叩く。
「いいから、早く行け!」
「他の者に見られたら、全部ぶち壊しだ」
「はいっ!」
ホップは、王家の剣を布でぐるぐるに包み直し、背負うようにして抱えた。
ロブが、廊下の様子をうかがっている。
「今だ」
ガレオンが扉の外を示した。
「ホップ!」
振り返りざま、ガレオンが叫ぶ。
「達者でな!」
「はいっ!」
ホップは、全身で頷いた。
「ガレオンさんも、お元気で!」
地下の小部屋を飛び出し、暗い廊下を走る。
処刑されたことにされる青年と、背中には王家の剣を携えて。
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