第百二話 封印の記憶
三百年前のペール山。
祭壇の上には、白い雪が降り続いていた。
その場を支配していたのは、目の前に立つ魔人の気配だった。
黒い外套の裾を揺らしながら、ネージュとラウルの前に静かに立っていた。
魔人タークが口を開く。
「循環点は破壊させてもらう」
ネージュは翼をわずかに広げた。
「考えは変わらないんだね」
「ああ」
タークの返答は短かった。
「両方の世界を救う道は、もはや絶たれた」
ラウルが、竜杖を肩から下ろす。
雪を踏みしめ、一歩だけ前に出た。
「あんた、本当は両方の世界をーー」
そこで一度、言葉が止まる。
ラウルはタークの目を真っ直ぐ見ていた。
「でも、覚悟は決まってるって顔しているもんな」
タークの口元が、わずかに歪む。
「そういうことだ」
「そちらも引く気はないのだろう?」
「させないよ」
答えたのはネージュだった。
同時に、器に意識を向ける。
遠く離れた場所にいるアルミへ。
(アルミ、タークが来た)
すぐに返ってきた気配は、張りつめていた。
(わかった)
(すぐ行くけど、持ち堪えられる?)
(頑張ってみるよ)
そう返しながらも、ネージュには分かっていた。
タークは今ここで終わらせるつもりで来ている。
それを抑えることは困難だと。
「……では、滅ぶまでだ」
タークが静かに告げる。
その両手が、ゆっくり持ち上がる。
掌が空へ向く。
次の瞬間、闇が集まり始めた。
重く、濃く、液体めいた闇。
空気の中から黒を掻き集めるみたいに、魔力が掌の上で膨れ上がっていく。
「〈〈ブラックレイン〉〉」
打ち上げられた闇の魔力が、空へ吸い込まれる。
直後。
空一面に、黒い雫のようなものが浮かび上がった。
それは、一斉に空から降り始める。
闇の雨。
一滴一滴が、岩を穿ち、雪を溶かし、魔力そのものを溶かすような濃度を持っていた。
「〈〈フォースフィールド〉〉」
ネージュが即座に魔力を解き放つ。
光の障壁が、二人を中心に半球状に展開した。
黒い雨粒が次々にぶつかり、激しく弾け飛ぶ。
光と闇が噛み合うたび、祭壇の石が震える。
周囲の雪が蒸気となって舞い上がる。
だが、ネージュは持ち堪えた。
「なるほど、光の魔力か」
タークが低く呟く。
すると、また掌の前に闇が集まる。
今度は一点へ。
圧縮され、凝縮され、見るだけで息が詰まるような質量へと変わっていく。
「〈〈ダークネビュラ〉〉」
タークの手から、闇の塊が放たれた。
一直線だった。
逃げ場を与えない速度と圧力。
それが、ネージュではなくラウルの前へ向かう。
だが今度は、ラウルが一歩前へ出た。
足を開き、杖を両手で構える。
「〈〈レイ〉〉」
杖の先から、白い光が撃ち出される。
細く見えて、その実、圧倒的に濃い光の奔流。
ダークネビュラと真正面からぶつかった。
轟音。
光と闇が噛み合う。
やがてその二つは、互いを削り合うようにして相殺された。
散った魔力の残滓が、火花みたいに流れていく。
「……」
タークが初めて無言になった。
ラウルは杖を下ろさない。
鋭い目で相手を見据えたまま言う。
「及ばないなら、二人で立ち向かうまでだ」
「なるほどな」
タークがわずかに肩をすくめた。
「ネージュ、行くぞ」
ラウルが言う。
「合わせるよ、ラウル」
ネージュも即座に応じる。
その瞬間、二人の間で呼吸が合った。
「じゃあ、俺の魔力もぶつけさせてもらう」
右の手に雷。
左の手に闇。
まったく違う二つの魔力が、それぞれの掌の上で渦巻き始める。
雷は紫に近い蒼。
闇は底の見えない黒。
それらが絡み合いながらも崩れず、ひとつへ収束していく。
対するラウルとネージュも、同時に魔力を高めていた。
ラウルの杖に集まるのは、リュミエールから与えられた光。
ネージュに満ちていくのは、自らの魔力と、テイムによって繋がった光の魔力。
二つの光が隣り合い、重なり、やがて境目を失っていく。
それはタークの闇と正反対のものだった。
「いくよ!」
「いくぞ!」
ラウルとネージュの声が重なる。
「〈〈シャイニング・レイ〉〉」
放たれた光は、もはや一本の線ではなかった。
巨大な奔流だった。
山頂そのものを貫き、空を切り裂くような、圧倒的な光の魔法。
タークも、それに合わせるように両掌を前へ突き出す。
「〈〈シャドウ・スパーク〉〉」
闇と雷が融合した魔力が、唸りを上げて飛び出した。
黒い雷鳴。
暗いのに眩しい。
次の瞬間、二つの極大魔法が真正面から激突した。
世界が裂けたみたいな音が響く。
山頂の雪が一気に吹き飛ぶ。
祭壇の石溝に刻まれた導線が、過剰な魔力に反応して光り、火花を散らした。
押し合いが続いた。
闇が食い込み、光が押し返す。
だが、ほんの僅かに。
本当に僅かに、光が前へ出る。
「これが光の竜の力か……」
タークが呟いた、その瞬間。
均衡が破られた。
闇が裂ける。
その裂け目を縫うように、光がタークへと突き進んだ。
「ぐっ……!」
タークの体に直撃する。
黒い外套が大きくはためき、その体が数歩分吹き飛ばされた。
片膝が雪に沈む。
ラウルが息を切らしながらも、杖を構えたまま言う。
「俺も、むやみに殺したくない」
タークは俯いたまま、低く笑った。
「甘いな」
その声音には、苦しさと同時に、どこか諦めたような響きもあった。
「その程度の覚悟でここを守ろうと言うのか」
そして、ゆっくりと立ち上がる。
雪の上に片膝をついていた魔人は、まだ終わっていなかった。
両掌を前に出す。
空気が変わる。
今までとは比べ物にならないほど重い。
山頂全体が沈むような圧力。
ネージュの羽が総毛立つ。
ラウルの顔からも余裕が消える。
「〈〈ダークマター〉〉」
その言葉とともに、暗黒が生まれた。
ただの闇ではない。
渦。
周囲の光も音も熱も、すべてを飲み込みながら回転する、圧倒的な闇の渦。
それが、その場を包み込むように二人へ迫った。
「まずい! このままだと……」
ネージュの喉が震える。
ラウルが叫ぶ。
「ネージュ、重ねろ!」
「〈〈フォースフィールド〉〉」
ラウルが光の障壁を展開する。
その前に、ネージュも自分の魔力を重ねる。
けれど、触れた瞬間に分かった。
(ダメだ)
ネージュの中で、絶望めいた確信が走る。
(きっとそれでも……)
その一瞬に、いくつもの光景が頭をよぎった。
アルミに名前をもらったこと。
ゼインから祭壇を任せられたこと。
ラウルと洞窟で火を囲んだこと。
ぶっきらぼうだけど、不器用にこの山を学んでいた顔。
全部が一度に胸を刺す。
「ラウル」
ネージュは小さく言った。
「君と出会って、楽しかった」
「後は頼んだよ!」
「何を言って……!」
ラウルが振り向く。
その時には、もう、ネージュの体が光に包まれる。
翼の一枚一枚が眩く輝き、全身から魔力が溢れ出す。
抑えていたものを全部解き放つように。
ネージュはラウルの前へ飛び出した。
大きく翼を広げる。
その姿は、まるで白い壁だった。
「〈〈ホーリーフェザー〉〉」
世界が、白に染まる。
眩い光が辺りを満たした。
神々しいほどの純白。
だが、その直後。
タークのダークマターが、真正面からネージュにぶつかる。
光と闇が、ゼロ距離で食い合った。
ネージュの視界はそこで真っ白になった。
ただ、自分の魔力が砕け散っていく感覚だけがあった。
⸻
ペール山の山頂。
ネージュは静かに目を伏せた。
「そこで僕の記憶は途切れた」
「気がついたら、封印の水晶の中だったよ」
風が静かに吹き抜ける。
僕はしばらく、何も言えなかった。
三百年前のその光景が、まだ胸の奥に強く残っていた。
「……その後、タークはどうなったんだろう」
ようやくそう口にすると、ネージュは少しだけ首を振った。
「循環点が守られているってことは、ラウルが上手くやったんだろうね」
「あと、僕に封印魔法を施したのはゼインとアルミだからね」
「みんなが駆けつけてくれたんだと思うよ」
僕は小さく息を吐く。
「それならよかったのかな」
「そうだね」
ネージュは頷いた。
「だから、僕の記憶では、杖の行方まではわからないんだよ」
「だよね……」
「ただ」
ネージュが、少しだけ目を細める。
「ラウルやゼインなら、街に杖を残すと思うんだ」
その言葉に、僕ははっきり頷いた。
「じゃあ、僕がフロワまで行って探してくるよ」
「わかった」
ネージュは静かに答える。
「じゃあ、中腹の洞窟までは送るよ」
ネージュが言った。
「ありがとう」
僕は頷く。
「あ、その前に」
器へ意識を向ける。
(みんな、そっちの様子はどう?)
すぐにパンの落ち着いた声が返ってきた。
(魔零派のみんなは下山してるよ)
次に、パディットの声が続く。
(モンスターの気配は今のところ大丈夫そうだ)
(パディット、別ルートでバレないように下山できる?)
(登ってきたとこなら大丈夫だ)
(じゃあ中腹から乗せてもらっていいかな)
(わかった、中腹で待っている)
そこで意識を戻すと、ネージュが小さく頷いた。
「じゃあよろしくね、ネージュ」
「うん」
ネージュは翼を広げた。
僕はその背に乗る。
次の瞬間、ネージュが山頂を蹴る。
冷たい風が顔を打つ。
祭壇が遠ざかる。
雲の上が、すぐに小さくなっていく。
白い尾根を越え、ネージュは中腹の洞窟へ向かった。
⸻
洞窟の前には、すでにパディットとムーがいた。
雪の中に溶け込むように身を伏せていたパディットが、僕たちに気づいて立ち上がる。
ネージュが地面へ降り立つ。
僕はその背から降りて、すぐに二人の方へ向かった。
「パディット、ムー、大丈夫だった?」
「大騒ぎだ」
パディットが鼻を鳴らす。
「アレイシスとレバンには気をつけろ」
「街へ戻っても、もう目立った行動はできないね」
僕がそう言うと、ムーがぷるんと揺れた。
「とりあえず早く戻って、リーザたちに報告するのん」
「帰りはまかせろ」
パディットが唸る。
「君たち、頼んだよ」
ネージュが静かに言った。
ムーがぴょこんと前へ出る。
「ネージュ、はじめましてなのん」
「よろしくね、ムー、パディット」
ネージュの声が、やわらかくなる。
パディットはネージュをじっと見てから、尋ねた。
「話は聞いていた」
「魔人は本当に倒されたと思うか」
ネージュは少しのあいだ黙った。
そして、首を横に振る。
「わからない……」
「ゼインたちが何か残していればあるいは」
そこまで言ってから、ネージュがふと何かを思い出したように目を細める。
「……あ、でも」
「そういえば、封印文字で何か書いてたっけ」
僕の記憶とネージュの言葉が重なる。
「フロワにあった燈魔書かな」
「その可能性はあるのん」
ムーがすぐに言う。
「封印文字の解読は、水晶の封印と一緒だよ」
ネージュが続ける。
「テイムを使えば読める」
「そうなんだ!?」
僕はそこで、ふと、別の記憶が引っかかる。
「でも、そういえば……おじいちゃんもゼインの文献を解読していたような……」
「血筋だからだろうね」
ネージュが言う。
「リュミエールに関係する人物なら、封印文字の解読は多少ならできちゃうんじゃないかな」
「とにかく、フライが封印文字にテイムすれば、読むことができるはずだよ」
「ありがとう」
僕は頷く。
「やってみるよ」
「ただ」
ネージュの声が、少しだけ低くなった。
「誰に伝えるかは慎重にね」
「わかった」
僕はネージュを見て頷いた。
「何かあったら器に話しかけてくれ」
パディットが言うとネージュが小さく微笑んだ。
「そうさせてもらうよ」
そこで、短い沈黙が落ちる。
雪はまだ静かに降っている。
中腹の洞窟の前で、白い息だけがいくつも重なった。
「フライ」
「杖をお願い」
「任せて」
そう返すと、ネージュはもう一度だけ大きく翼を広げた。
白銀の羽が、雪の中で綺麗に見えた。
そして、その姿はまた山の上へ向けて飛び立っていく。
僕はしばらく、その背中を見送っていた。
⸻
「行くぞ」
パディットが背を低くする。
僕はムーと一緒に、その背へ飛び乗った。
「しっかり掴まってろ」
「うん」
次の瞬間、パディットは雪を蹴った。
一気に駆け出す。
人目につかない雪原を、一直線に。
駆けるたびに、雪煙が上がる。
ただ最速で、最短で、真っ直ぐに、フロワへ戻るために。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次話も読んでいただけると嬉しいです。




