【第一章】5.深淵を見る
夜も更け、その森は暗闇に姿を隠す。
「ヒヒヒ……」
その闇に溶け合うように不気味な笑い声と、それに似つかわしくないほどの澄んだ鈴の音がこだまする。
そこへ一人の、同じく闇に紛れた者が静かに現れた。
「見つけたよ」
その者は不気味な笑い声に向かって言った。
雲の合間から月が顔を出し、辺りをわずかに照らし出す。その明かりに姿を見せたのは、旅人用のローブにフードを深く被った人物だった。
旅人は何もないところを見つめる。しかし、やがてそこには人と同じくらいの大きさの黒いモヤが現れた。そのモヤに向かって旅人が言う。
「古い結界だった。見つけるのに苦労したよ」
「……何の話だ。お前は誰だ」
シラを切るようにモヤは言った。旅人は口だけを動かす。
「シャドール=ベル」
刹那、モヤは人の三倍以上に大きく膨れ上がると、急速に収縮しそこから一体の生き物が現れた。顔は黒く何も見えない。首は人間よりも長く細く、枝のような身体をしている。身体の輪郭は影のように揺らぎ、視界に捉えられない見えにくさがある。そして、その折れそうな手には小さな鈴のついた一冊の古ぼけた本を持っていた。
「我が名を知る者とは」
シャドール=ベルの声が、見えない顔から反響するように聞こえてくる。
「だが、やはり期待通り。お前はここへ招かれた」
細い腕がかすかに動き、開かれた本のページが捲られた。何が書いてあるかわからないそのページに手を添える。
「ヒヒヒ……。さぁ、どうする。我に手を加えるか。それも良かろう。お前を見つけた。お前はここに導かれた。それだけであの街に魔物を送り込んだ意味があるというもの……」
「……よく、喋るやつだ」
旅人はポツリとそう呟くと、ローブの中から手を伸ばし、杖を握る。
それは下に向かうほど細くなっている杖で、上部先端には木に抱き込まれるように翡翠色の宝石が半分埋め込まれている。
それを見たシャドール=ベルは不気味に笑う。
「ヒヒヒ。やはりお前だ。見つけたぞ。さぁ、我を殺せ。そうすればお前はもう逃げられない」
シャドール=ベルは興奮したように不気味な声をキリキリと上げる。その様子に旅人は息を吐いた。
「勘違いするな」
「なに……?」
旅人は背丈ほどある杖をそっと地面に立て、言った。
「お前を殺すのはわたしじゃない」
刹那、上空からパリン――とガラスの割れるような大きな音が森に響き渡る。それはシャドール=ベルの姿を隠していた結界が破られる音だった。
「貴様、何を……」
シャドール=ベルは一瞬動揺したように大きく揺らいだ。手に持つ本に付けられたベルが小さく鳴る。
旅人はその時、ある複数の足音に気がついた。
「もうやってきたみたい」
「……まさか」
旅人の言葉にシャドール=ベルも何かを察した。旅人は関心したように言った。
「さすがヴェルシオンの騎士団だね。結界に気づけなかっただけのようだ。それじゃあわたしは行くよ」
と、旅人はシャドール=ベルに背を向け森の闇の中へと姿を消していった。
「……」
残されたシャドール=ベルは立ち去った旅人の後を追おうとはせず、本を閉じるとその場から逃げようと動き出そうとした。
「――!?」
しかし、気づくとその細い手足にはいつの間にか地面から伸びた植物の蔦が絡みつき、動きを封じていた。
「くっ」
シャドール=ベルは閉じた本を再び開き、ブツブツと呪文を唱える。ベルが鳴り、モヤが蔦を覆う。しかし、それは途端に激しい火花と共に弾かれた。
「なぜだ。なぜ影を捕らえているのだ」
普通の植物ではないことを悟りながらも、理解が及ばず今にも身体が折れてしまいそうなほど強い力で抜け出そうとする。
「こいつか」
不意に男の声がする。シャドール=ベルはゆっくりと顔を上げた。
そこには全身を黒装束で身に纏った集団――ヨルム率いる翠影団が立っていた。
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