ガルナーレからの帰り道
216が研究所を脱出しているという事が分かり、思わず笑みがこぼれる。そんな僕とは反対に、フィーアはご機嫌斜めのようだ。
「約束の時間、少し遅いんじゃないかしら。馬車が行っちゃったわ」
少しだけ頬を膨らませるフィーア。定期的に出ている駅馬車である。もう少し早く戻っていれば、それに乗れたのだろう。別の馬車が戻ってくる事を待つしかない。
「ごめんよ、フィーア。見たかったものが中々探せなくて……」
「あら、言い訳は聞きたくないわ」
「うう……」
珍しく、冷たい言い方だ。取り付く島もない。約束の夕方に戻ってきているのだが、虫の居所が悪いのだろうか。
うなだれていると、そんな僕をちらりと横目に見て、フィーアが小さく噴き出した。
「うふふ、ごめんなさい。怒ってないわ」
「ええ、一体どうして」
「森から出てきたニーゴが、あんまり嬉しそうにしていたから、ちょっとからかったの」
それに、とフィーアが振り返って、遠くに繋がれた馬車へ指を指す。何となく見覚えのある馬車だ。駅から出ている定期便ではなく、個人所有のものだろう。
「ほら、あれを見て」
「あの馬車がどうしたの? ……何となく見覚えがあるけど」
そう言いながら目を凝らしていると、街から男が一人、その馬車へと近づいて行った。男は二、三度馬を撫でると、こちらを向いて大きく手を振っている。
そうだ。あれは八百屋の主ではないだろうか。道理で見覚えがあったのだ。
「偶然、さっきダンに会ったの。少し待ってくれたら、帰りに乗せて行ってくれるって」
「そうなんだ。こっちに向かって手を振っているけど」
「多分準備が出来たのね。行きましょう」
笑顔で迎えるダンに、フィーアが有難うと答える。馬車に乗り込んですぐに、僕たちはガルナーレを出発した。
「帰る途中に、少し寄りたい場所があるんだけど、大丈夫かな。少し道を外れた場所だから、遠回りになってしまうんだけど」
ガタトゴと揺れる馬車。手綱を握るダンが、大きな声でフィーアに話かけた。時折起こる、跳ねるような振動に声を裏返しながら、フィーアも答えた。
「私は乗せてもらってるんだから、気にしないで。でも、あんまり遅くなるとハロルドを心配させてしまうわ」
「大丈夫。行きがけに寄れなかった家に、物を届けるだけだから。時間はそんなにかからないよ」
その後、街道を三割ほど進んだ所で、タイニーヴァルトへの道から小さな横道に入った。山の上へ延びる道は途中で細くなり、そこからは馬車で進めないとのことだった。
「すぐに戻るから、荷物番をしててくれないかな」
そう言い残して、ダンは小さな袋を片手に馬車から離れていった。走るダンの姿はすぐに森の影に消えていく。
こんな外れに、女の子を一人置いていくなんてとも思ったが、例のごろつき共が現れるまで、この辺りで人が襲われることは殆ど無かったのだという。彼もそんな思いなのだろう。
それに、野犬などが襲ってくるのであれば、僕が追い払えばいい。そのためにここに居るのだから。
「そういえば、お目当てのものは見つかったの?」
ダンの姿が見えなくなった後、馬車の縁で足をぶらつかせながら、フィーアが聞いてくる。僕も隣に腰を下ろした。
「そうだね。見つけたく無かったものは、見つからなかったよ」
「なあにそれ。意味が分からないわ」
顔を見合わせて笑う。
「いや、ごめん。分かりにくいね。とにかく、僕の親友は研究所にいなかった。僕と同じで、脱出しているみたいだ」
「それで嬉しそうだったのね」
「まあね。でも、時間が無くて、それ以上の手がかりは見つけられなかったよ」
「あら、残念。でもきっと見つかるわよ。無事だという事はわかったんだから」
フィーアのその言葉に、頷いた。さっき分かったことは、216があの研究所から逃げられたという事であり、今本当に無事なのかは定かではない。
それでも、フィーアの屈託のない笑みを見ていると、きっと無事なのだと信じられた。根拠はない。フィーアも僕に気を使ってくれているのだろう。その思いもまた、僕の心を支えてくれた。
そんな事を話していると、森の影からダンの姿が見えた。帰ってきたようだが、少し様子がおかしい。
必死の形相で走っている。隣には初老の男性。誰かを背負っているようにも見える。
ダンは馬車に駆け寄ると、息も絶え絶えに、初老の男性を促した。
「ローレンさん。早く荷台に乗ってくれ。すぐに出発する」
「ああ、済まない。アイシャ。もう大丈夫だぞ」
男は、背負っている少女を荷台に乗せた。どうやら足を怪我しているようだ。足首が腫れている。
「一体どうしたの? ダン」
「話は後だ、フィーア。今は逃げるのが先だ」
そういうと、馬車は元来た道へ走りだした。
「ガルナーレからの馬車が多い。あっちでも何かあったのか」
初老の男性がそう呟いた。確かに、何台もの馬車が、タイニーヴァルトへの道を走っていた。




