リストと斜線
立ち入り禁止の看板。修復中とはいえ、その穴の開いた壁の周りは瓦礫が積まれている。近づくものも少ないのだろう。時間帯の割には静かなものだった。
そもそも騒がしいような場所では無いが、それでもそれなりの人数が収容されていたはずだ。その静けさは、ただ不気味であった。
ゆっくりと、目的の場所を目指す。途中、研究員らしき者たちとすれ違う度、物陰に隠れる。もちろん気づかれるような素振りは全く無いが、それでも、人影を見つける度に鼓動が早くなる。
周囲に目を配りながら歩いていると、懐かしい扉が目に入った。小窓の空いたドアの向こう。四畳半程の狭い部屋で、男が一人、腰を下ろしていた。
見覚えの無い顔だ。僕たちがいなくなった後、この部屋が彼にあてがわれたのだろう。二人部屋のはずのここに、彼は一人しかいない。あの生活の中、一人というのは辛いだろう。
その男は、まるで精気が抜けたかのように、虚ろな目をしていた。顎まで垂れた涎を気にしていないのか、口角にためた泡がぷつぷつと弾けていた。
壊れているのだろうか。僕がいた時に出会った人々は、ここまで廃人になっているようなものはいなかった。実験前後にすれ違うものであっても、ここまで虚ろなものはいなかった。
不快感に、胸が締め付けられる。辛い生活の中で支えあった思い出が汚されるような気がして、嫌悪感に手が震えた。
「静かだとは思っていたけど、こういう事なのか」
隣の部屋も、またその隣の部屋も、中の人数はまちまちなれど、似たように灰色の目が並んでいた。僕たちが脱走した後に、何かがあったのだろう。
中には、見覚えのある顔もあった。見かけた程度の事で、話したことは無いが、当時の面影しかないほどに変わり果てていた。
不快な気分が胃袋を押し上げる。沈む気持ちを頭からかき消すように首を振り、階段を上った。
三階に上がる。目指すは北側の角の部屋である。下の階に比べると研究員らしきものたちが増えた。明るい、という訳では無いが、徐々に話し声も増えてくる。
念のため隠れながら進むが、不意に角から現れる気配に肝を冷やすこともままあった。それでも、やはり誰も僕の姿に気づく者はいないようだった。
目的の部屋に着く。人が出入りする時を見計らい、ドアの隙間から滑り込む。小さな部屋に、数人が働いていた。ここにいる彼らは、全員見覚えがあった。
あの日ドアの向こうから僕たちを呼んだ彼もまた、机に向かって書類の整理をしているようだ。懐かしいような、苦々しいような不思議な気分になる。
そして部屋の隅、ドアと反対側の壁に、目的のものが張り付けてあった。収容されている被検体の番号一覧。そのリストは、600番を越えていた。
僕たちがいた頃は、まだ300番台前半くらいまでしか無かったように記憶している。あれから半年で、倍増しているようだ。
確かにあの墓石にも、500番台が刻まれていた。冷静に考えると、あまりにも急に増えすぎていないだろうか。その答えもまた、リスト上に載せられていた。
200番前後、五十人以上に斜線が引かれていた。卒業したものには丸印、死んだ者には横二重線が引かれている中で、その束だけが斜線である。
その中には、215番も216番も含まれていた。この斜線の番号は、あの日この場所から逃げ出したもの達という事だろう。逃げる事で精一杯で気が付かなかったが、これだけの人間が雪の森の中に解き放たれていたのだ。
斜線を引かれた彼らは、一体どこで何をしているのだろう。麓の町に紛れ込んでいるのだろうか。山を下りることも出来ず、野垂れ死にしたものもいるだろう。
フィーアに会わなければ、僕もそうなっていてもおかしくは無かった。自分が消えている事すら気が付かないままに、当てもなく彷徨っていたに違いない。
フィーアの顔が頭に浮かび、あることを思い出した。
部屋の窓の向こう、太陽が随分低い位置にある。そろそろ戻らなければ、フィーアとの約束の時間に遅れてしまう。
216番に引かれた斜線。これを見るだけでも、今日の目的は果たせた。
急ぎ研究所を後にすると、僕は来た道を戻った。
そろそろ麓に差し掛かろうとしたときに、道の先に、何やら複数の人影が見えた。それはこちらに向かって来ており、研究所を目指しているだろうことは明らかだ。
不思議なのは、研究員らしき姿が見えないことだ。いや、あれが彼らの私服なのかもしれないが、何となく、異なる雰囲気を感じる。
怪しい。あまり関わらない方が良いだろう。そう思い、道の脇の木の陰に身を潜めた。
足音が近づいてくる。それが通り過ぎるのを待つが、中々に大人数のようだ。ちらりと、葉の隙間から顔を除く。二十人は優に超えているだろうか。
その人影の中に、見覚えのある顔があった。昔研究所で見かけた事がある気がする。自信は無いが、そんな顔がいくつか見受けられた。
彼らは、自由行動を許されているという事だろうか。施設の外観は変わらずとも、中身は大きく変わっているのだろう。
その足音が遠ざかると、僕はまた麓へ向かった。
街に出た。門の脇には、既にフィーアが待っていた。




