墓石
「あの先にあるの?」
僕の視線の先に、フィーアも目を向ける。
「どこから入るのか分からないわ。本当に山の中にあるのね。ここからじゃ建物なんて見えないじゃない」
「そうだね。初めに一度通ったきりだ。ほら、あの辺り、少しだけ草が倒れているだろう」
そう言いながら、指をさす。周囲の草が腰ほどの高さまで伸びている中で、そこの一人分ほどの幅だけは、膝程の高さまでしかない。
本当だわ、とフィーアが驚く。言われなければ気が付かないのも当たり前だった。僕自身、一月前に来た時に、ふと思い出したのだ。
後ろで、馬のいななきが聞こえる。甲高い鞭の音と共に、僕たちが乗ってきた馬車が出発した。馬車からのぞく子供の顔が、不思議そうにフィーアを見ていた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「ええ。今日の配達は夕方頃には終わると思うから、それまでには帰ってきてね」
「わかった。頃合いを見て戻るよ」
手を振り、別れる。一つ深呼吸をして、僕は研究所への道を歩き出した。
研究所までは一本道だ。懐かしい。当時が思い出される。森の中とは言えども、研究員たちが時折利用している道だ。木々は影を落としているが、空を隠すほどではなかった。
途中、研究所への出入り業者らしき人物とすれ違った。帽子を目深にかぶっており、顔こそは見えなかったが、首元から汗が滴っている。
荷物を抱えているとはいえ、普段慣れているであろうものが、これだけ汗をかくのだ。目的地はまだ遠そうだなと独り言ちた。
それから少しして、ふと前を見ると、木々の隙間に研究所の白い壁が見えた。
「なんだ。思ったより近いじゃないか」
昔の記憶からも、大汗をかいていた彼からも、もっと距離があるものだと思っていたが、どうやら杞憂だったようだ。むしろ、この距離であれだけ汗だくになる彼は、この先大丈夫なのだろうか。
辿りついた研究所は、あの頃と変わっていないようだった。苦い思い出が蘇る。時折窓に人影が映るため、そこが未だに稼働中だという事が分かる。
胸が締め付けられるような気分になるが、今はまず目的のものを見なければならない。
研究所の裏へ周る。途中、研究所の壁に大穴が開いているものを見かけた。立ち入り禁止の看板が掲げられている。修復途中といった具合だ。恐らく、これが半年前に脱走したときのものだろうという事に気が付いた。
あれが無ければ、今頃はどうしていただろうか。216と二人、まだ被検体をやっていたのだろうか。それとも、この先の彼らのように、土の下で物言わぬ屍となっていたのだろうか。
研究所から伸びる裏の道を歩いている間、そんな物思いにふけっていた。どちらにせよ、良い状況ではなかっただろう。そんな暗い気分で歩いていると、不意に視界が開けた。
茶黒く開けた土地。どころどころに雑草が生えている。荒れ放題というほどでもないが、碌に手入れはされていない事はわかる。
風の通りが悪いのか、辺りには腐ったような匂いが漂い、鼻を突いた。そしてその場所の中央、大きな石がある。目的のものだ。
急いで近づく。まだ太陽は高いとはいえ、すでに頂点は超えている。あの意思には大量の数字が刻まれているのだから、暗くなっては見えなくなってしまう。
「216……無いといいけど……」
石の右半分は、風化のためか文字が擦れている。そこの文字は読めないが、少なくとも真新しいものではないのだから、大丈夫だろう。
そして、あの日僕が埋めた彼の番号が刻まれた場所。そこから左側へまた数字が伸びている。あの日から半年経って刻まれた数字は、三桁までは届いていなかった。
一つ一つ、目でなぞる。きっと違うだろうと祈りながら。途中、200番台の文字を見るたびに、ドキリと胸が鳴った。
「……521番。これが最後か」
全て見終わるころには、体中から汗が出ていた。太陽の照りは少し収まったが、この日陰の無い中でずっと日差しに当たっていたのだから仕方がない。
「良かった。無かった」
その刻まれた数字の中には、216番の文字は無かった。もちろん、215番も。
ほっと胸を撫で下ろす。少なくとも、彼はまだ生きているだろう。ならば、もう一つ確かめなければならないものがある。
研究所にいた頃にチラリと見ただけがた、管理室の中に、被験者の番号が一覧で記されていた。
実験中の者、死んだ者、そして成功したもの。僕たちの隣に部屋にいた213番は成功して軍へ徴用されていた。その際に、研究所の責任者らしき男が、嬉しそうにその一覧の番号に丸を付けていたはずだ。
額の汗をぬぐい、立ち上がる。記憶が確かならば、管理室は研究所の三階にあったはずだ。
正直、中まで踏み入れることは怖い。フィーアが僕を見ることが出来るのだから、この施設の中に同様の能力持ちが居てもおかしくはない。そして、ここは恐らく軍事機密として守られているだろう。
見つかったら、殺されるかもしれない。その不安から逃げるために、僕はこの墓石を見に来たのかもしれない。
216が生きている。それだけでいいじゃないか。そう思う自分も確かにいる。それでも、もし216がまだ捕まっているのであれば、僕が助け出さなければいけない。
強く歯を食いしばると、そっと墓石を撫でた。土の下の彼らから、勇気をもらおうとしたのかもしれない。




