旅立ちの馬車
地面に横たわるマハトに、場の空気が固まった。突然現れた上に、老婆の盾になったマハト。その姿に、頭の整理が追いつかない。しかし、動揺により体が動かない者は、俺だけではなかった。
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サンダとの交戦はまだ少し先の話。山に積もっていた雪が溶け始め、木々や草花が色づき始めた頃。
216は山を下ることを決め、自警団への入団を目指す。
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「そうか。街へ降りるのか」
ローレンのその言葉には、微かな寂しさが含まれていた。暖炉の明かりに照らされて、淡い赤色に染められたテーブル。それを囲うように、俺とローレンとアイシャの三人が座っている。春ももうすぐだというのに、山の中腹にあるこの家は、まだまだ寒さが肌を刺した。
あの日、アイシャが襲われてから、ずっと考えていた。ローレンの話では、以前に比べてこの辺りに変な輩が住み着いてしまったと。その時期を考えると、あの日俺が研究所から脱走した頃からのようだった。そして明らかに、襲ってきた男は能力持ちだった。
この世界に、能力持ちの人間は決して多くはない。目立つ能力を持っているものは、そのほとんどが軍へと徴兵される。国が捕獲する形で、強制的にだ。ならば、野良の能力持ちなど、あの研究所からの脱走組くらいのものだろう。
俺の暴走が起こした事故とそれによる脱走劇。それは215と離れ離れになるだけでなく、回り回って、アイシャが傷つく結果となってしまった。それが許せなかった。自問自答する日々で、自身に腹が立った。
「はい。このままご迷惑をかけ続ける訳にはいきません。それに、俺には親友を探すという大事な目的がありますので」
この言葉自体は本心だ。ただ、目的はそれだけではない。研究所から脱走した奴らを全て捕獲する。そうすれば、この二人も安全になるだろう。奴らはガルナーレ付近で人々を襲ったり、攫ったりしているらしい。そういう意味でも、街で過ごす必要がある。
「……わかった。そういう事なら、知り合いを照会してやろう。よくアイシャを街まで運んでもらっている。彼なら自警団にも顔が利くだろう」
「寂しくなってしまいますわ」
シュンと顔を伏せるアイシャの頭を、ローレンがやさしく撫でた。俺も、ここでの生活は本当に心地よいものだったし、出来るならば手放したくは無いとも思っている。それだけに、責任を果たさなければいけない。
「きっと街なら、お友達の情報も集められますわ。自警団には色々な人がいますもの」
アイシャはぐっと涙をぬぐうと、いつもの気丈な笑顔に戻った。寂しさに声が震え、我慢していることがまるわかりだが、それでも、その眼は真っ直ぐだった。強い子だ。そう思った。
翌朝、荷物の整理が終わると、ローレン、アイシャと共に家を出た。坂の少し下で、ローレンの知り合いが待っているらしい。七日に一度、アイシャを街へ連れて行くために馬車を寄せてくれているとのことだ。
坂の下に、確かに一台の馬車が止まっていた。ローレンはその馬車の男と何やら話している。ローレンは担いでいた袋を男に渡すと、男は別の袋をローレンに返した。そしてこちらを指さしながら二言三言。男が数度頷くと、ローレンが俺たちを呼んだ。どうやら、話がついたらしい。
「やあ、君が街へ行きたいっているニーロかい? 随分と変わった名前だね。僕はダン。しがない野菜売りさ」
短く整った黒い髪。歳は四十の前半といったところだろうか。男は人懐っこい笑顔で俺に話しかける。商売人の笑顔をそのまま信じて良いものかとも思ったが、ローレンの紹介なのだ。きっと大丈夫だろう。
「はい。俺が216です。初めまして。急に無理を言ってすみません」
「いやいや、僕もガルナーレに行く用事があるし、そのついでだしね」
少し大仰に手を振って、ダンは気にするなという。その言葉に甘え、アイシャと共に馬車の荷台に乗せてもらう。
「また遊びにこい。歓迎してやる」
「是非、落ち着いたらまた来ます」
別れの挨拶は淡泊なものだったが、それもまたローレンらしいと思った。
馬車に揺られ、街道を進む。ダンの話では、この調子ならば、日が昇り切るまでにはガルナーレに着くだろうとの事だった。その道中を、アイシャと他愛のない話をして過ごす。山の上に比べて随分と温かいこの道は、まさしく春を告げていた。隙間から降り注ぐ太陽が、ポカポカと温めてくれる。
「もう少しで街に着くよ!」
馬の蹄と馬車の車輪が刻む音に負けないよう、大きな声でダンが言う。もうすぐ、アイシャともお別れだ。少しだけ、心がざわついた。アイシャの顔を見ると、彼女もまた、小さく唇をかんでいる。やはり、どうにも寂しさが込み上げてくる。それは、お互い変わらない。
馬車は少しずつ速さを落とし、そしてゆっくりと止まった。着いたよ、とまたダンの声。
荷台から降りようと、腰を上げたとき、急に右足に重さがかかり、態勢を崩して尻餅をついてしまった。
見ると、ぎゅっと目をつぶったアイシャが、俺の右足に抱き着いていた。




