圭太くんへ 一九九三年一月八日
そうですか。よかったですね。ぼくもそんなきれいなひとをみてみたいです。でも、ぼくはちかいうちにそんなひとにであえるようなよかんがするんだ。よくわからないけれど。そうだ、きょうはぼくのおとうとのことをはなすね。おとうとはこっけいなやつで、いつもとんでもないことをするんだ。このまえはエレベーターのとびらにゆびをはさんで、てをちまみれにしておおさわぎしていたし、なによりぼくがきにいらないのは、ひとのものをかりていったあげく、なくしたりこわしたりして、しかもあやまりにこないこと。なくしたことをおしえにもこない。あやまるというのは、じぶんのしためいわくや、たにんにそんさせたことをもとのじょうたいにひきもどすゆいいつのやりかたなのに。いちばんこまるのはぼくがようちえんにもっていくクレヨンやれんらくちょうやはさみや、なくされるととこまるものをなくされることです。こまるのはぼくだから。おとうとがわるいのにぼくにせきにんがかかるから。ぼくがしまつしなきゃいけないから。ぼくはじぶんのテリトリーというか、じぶんのことやものをほかのひとにくちをだされたり、はいってこられたり、てをだされたり、じゃまされたりすることがいちばんきらいです。
それからきのうカーテンのひっかけるところをフックというのだとおかあさんにおそわりました。ぼくのなんでもわすれっぽいきちんとしていないおとうとはあたまとげんじつをつなぐフックがひとつかふたつはずれているのかもしれません。だからげんじつにひつようなことがあたまにはいってこないし、あたまがげんじつにたいしてよくまわらないのかもしれません。
ところで、洋平くんとはそんなになかがいいのですか?ぼくは圭太くんしかすきなにんげんがいないので、ちょっとしっとしてしまいます。こんなことはペンパルの圭太くんにしかいいません。ぼくはおかあさんにもおとうさんにもさみしいからかまってくれとかいわないし、じぶんからひつようもないのにはなしかけることすらありません。すこしはあるけれど。でも、おかあさんたちがぼくにとく(得)をさしてくれることはうけいれます。それだって、ほんとうにうれしいわけではなくて、「とくしてる」っていうふうにほかのひとからみえるということをうけいれているだけだけれども。うまいことばがみつかりません。ただ、そうしないと、ぼくはいじめられっこでおやにもそんさせられている、ただそんばかりしているかわいそうなこっていうめんがめだってしまうばかりなので。圭太くんはぼくがじぶんのこころのつめたいめんをてがみにかいても、ぼくのことをすきだといってくれたので、圭太くんにはいろんなことがはなせます。でもぼくは「つめたい」は「れいせい」で、「れいせい」は「ただしい」ことだとおもいます。また、おてがみください。ぼくも圭太くんがすきなので、圭太くんのことをよくしりたいです。
仁以千絵より