【02】ラビットホール
かつて、この世界には魔法があった。
しかし、時代が進むにつれて魔法使いの数は減り続け、今では誰も使うことができないものになっている。
その代わりに発展したのが、魔科学だ。魔力素と呼ばれる魔法の源を利用した魔科学によって作られた技術や道具は、人々の生活を豊かにし続けた。
そして、魔科学によって造られた兵器は地上をひどく荒らし、人々を地下へと追いやった。
世界最大のシェルター都市であるラビットホールは、そうして作られたシェルターのうちのひとつである。
クローリカは、そんなラビットホールに何らかの偶然によって転がり落ちてきた異世界人…………らしい。らしいというあやふやな表現になってしまうのは、彼女には記憶の欠損が多くあるからである。覚えているのは、ある程度の日本人としての常識が主であり、個人的な情報は決して多くない。
個人情報ではっきりとしているのは、宇咲亜李歌という日本人としての名。クローリカという出所不明の馴染んだ名――おそらく、よく使っていたハンドルネームか何か――のことくらいだ。
しかし日本風の名は、この都市で名乗るには珍しいものである。余計な悪目立ちを避けたい彼女は、専ら「クローリカ」のほうを用いている。
この世界では、大昔に行われた大魔法の残滓によって、ごく稀に異世界人が現れるのだという。
しかし、元の世界に戻る手段は不明、戻った異世界人がいるのかも不明。そういった状況なので、クローリカが日本に戻る手段を探す手がかりは現状何もない。だから、クローリカは元の世界に思いを馳せることはあれど、行き場のない彼女を拾ってくれた老夫婦の店を手伝いながら日々を過ごしていた。
だけど、もしかしたら……あの世界との縁である手帳を持つアリトなら、何らかの情報を持っているのではないか。
だって、クローリカは断片的な記憶以外、何も持っていないのだ。
クローリカは、そう思ってしまう衝動をどうしても抑えきれなかった。
全身を眺めても大きな外傷が見あたらないことと、アリトの加入する保険に対応した病院が近場にないことを言い訳に用意し、クローリカはジャンクショップの奥に彼を引きずり込むことにした。
……なお、引きずり込むにあたり覆せない体格差があったため、文字通り引きずることになったのは大変申し訳ないなと、一応思っている。
そうして、長くはないはずの距離を奮闘すること十数分。
幸いなことに、クローリカがアリトを引きずる問題の姿を、誰かに目撃の末に咎められることはなかった。店の裏口がある路地は、この時間帯は特に人通りが少ない。さらに、現在は濃い霧があって見通しも悪く、きっと問題はないだろう。
もしかしたら、連合セキュリティ――日本で言う、警察と消防がまとまったような組織のこと――の防犯ドローンが通ったかもしれないが、万が一見咎められたとしても用意した言い訳が通るはずだ……多分。
そして、さらに店の奥にて試行錯誤をすること更に十数分。クローリカは、アリトを休憩用のソファへ寝かせることに成功した。
あらかじめ脱がしておいたアリト本人のジャケットと、クローリカが店で使っているひざ掛けをあわせて、身体を冷やさぬようできる限り全身を覆う。なお、クローリカのものよりよっぽど長い脚がソファからはみ出してしまうのは、どうしようもないので諦めた。
その後は、少し遅れた時間に店を開けて、いつもより数が多い注文品の梱包を進めていく。
しかし、日常時なら昼食を買うため店を一時的に閉める時間になっても、アリトは目覚めなかった。
「…………大丈夫かな。やっぱり病院へ連れて行くべきなのかな」
「マスター、エンドウ様の保険に対応する最寄りの病院へのルートを検索しますか?」
「し、しない。さっき軽く確認したからだいぶ遠いのがわかってる」
こぼれた独り言に反応したイナバが検索を提案してきた最寄りとは、同じ層のものでも現在地より離れた場所にある。乗り物は小型のスクーターしか持っていないクローリカは、自力で彼を運ぶ手段が乏しいのだ。
タクシーは意識不明者を乗せないし、救急車を呼ぶのもリスクがある。万が一、意識不明者に支払い能力がないと、救急車の費用を負担するのは呼んだクローリカになる。それは世知辛い世の中にとって、結構きつい出費である。なお、死体なら連合セキュリティが無料で回収してくれる。世知辛い。
ついでに言うのなら、ジャンクショップの持ち主である老夫婦は、副業でいい感じの収入があったクローリカが恩を返すために張り切ってプレゼントした旅行の真っ最中である。面倒も心配もかけたくない。
そもそも、遠い病院に入院などになった場合、訳アリ異世界人疑惑のあるアリトとは、再会したくとも叶わない可能性がある。こっそりと彼の話が聞きたいクローリカにとって、それは何よりも避けたい事態なのだ。
「……だからといって、このまま目覚めないなんてことは本末転倒。……頭……脳卒中とかだったら大変だし……」
「マスター、脳卒中の対処法について表示しますか?」
「今更感がすごい……。ま、まぁ、一応確認しようかな」
「かしこまりました。連合セキュリティ救急隊による対処チャートを表示します」
どうせなら階段室で提案してくれと、ほんのりとポンコツ気味な気配をにじませるアシスタントAIに向け、内心で恨み言を寄せて気を紛らわす。なお、この状況では一番ポンコツなのはクローリカ本人であるという事実は黙殺している。アシスタントAIの仕事は、その名の通りアシスタントだけなのだ。
表示された対処チャートを眺め、万が一に備えてアリトの身体の向きを変更。数分かけて変えたその体勢でも、彼の状態が安定していることを確認する。
クローリカは小さく溜息を吐いて外出を諦め、昼食のデリバリーを頼むべく、愛用のアプリケーションを立ち上げた。
配達用ドローンで届けられた、現地で買うよりも割高な、いつものミールディールのタマゴサンドを咀嚼する。クローリカはそのまま、ぼうっとニュース配信を眺めていた。周辺で何らかの事件があったという速報は、今のところ流れてこない。
もしかしたら、アリトがあんな場所で倒れていたことに、なんの事件性もないのだろうかと思案する。
スナックに選んだキャラメルナッツのエネルギーバーを食べ終えてもどこか物足りなさを感じたので、クローリカは買い置きのインスタントスープを熱湯で溶く。
ひたすらスプーンでかき混ぜもうそろそろ適温かというタイミングで、奥にあるソファから掠れた低い声と身じろぐ音が聞こえてきた。
――どうやら、目覚めないという最悪の事態は避けられたようである。