ローザの過去、動かない時計の針
レガリア区 2番街
ハーツクラック通り 第2事務所 朝ーー
昨日、デューイと帰り道に備品を買ったり、紅茶を買ったり、ティーカップを買ったり…
事務所内の物が揃ってきた。
私は今日も今日とて掃除と給仕代わりをする。
…とは言っても。
「あんまりパタパタして欲しくないんだけど」
「そんなに張り切らなくても大丈夫だよ」
「静かに……」
など3人から言われて、結局私は座って紅茶を飲んでまったりしている。
私、一応今勤務中よね?
こんな仕事があっていいのかしら…
雑用もといお手伝いさんとして給料を頂く分、ちゃんと働きたいのだが…
しかも家も用意してもらってるし。
けれど張り切って仕事をすると彼らの邪魔になる。掃除を諦めて紅茶を飲むも、どこか腑に落ちない。
第2事務所に来て数日経った。
零隊の3人とも大分慣れてきたところだ。
この任務依頼を受けてから、私はまだギルバートと会っていない。
ロッド大佐がここに来たあの日、私が気絶している間に何があったのか…あんまりわかっていないけれど。
それでも私はギルバートの今の姿をまだ1度も見ていないし会っていない。
いつかは、きっと会うことになるんでしょうね。
私は今日何度目かのため息をつく。
するとその一言は唐突に私に投げかけられた。
「触れないでおこうと思ったんだけど事情が変わったから聞くよ。君、ギルバート大佐と知り合いだったんだね」
デューイは書類に目を通して捺印を捺す作業中に、なんて事ない質問のようにそう言った。
丁度ギルバートのことを考えていた私は体を揺らして驚く。
すると何故かエリクもルイも固まった。
「ん?デューイくん?俺はずっとギルバート大佐と知り合いだったよ?」
エリクは苦しい冗談でデューイがその発言を撤回する時間を稼ぐ。
しかしデューイは呆気なく、「お前じゃない。ローザのこと」と言ってしまった。
ギルバートが第2事務所に来た日、彼らは私が気絶している間何も起こらなかったと言っていた。
…やっぱり何かあったのに隠されていたのね。
やはり気付かれていたようだ。
気を使わせてしまったことを申し訳なく思いながら、私は遂に重い口を開けて本当のことを打ち明けた。
「…ええ。ごめんなさい、言うべきだったわよね」
「フン。そりゃそうでしょ」
ツンと冷たい返事が返ってくる。
それを聞いてなお肩を落とした。
「気を使えない類の人間じゃない。ボクらもそこそこ仕事が出来るからここにいるんだ。…言ってくれたらこの間みたいな事態は回避出来た」
「…え?」
デューイは腕を組んでそっぽを向く。
…それって、どういう……?
私が言葉の意味を汲み取れないでいると、エリクは彼の足りない言葉を補うように言った。
「…花姫がギルバート大佐と仲睦まじいとは言えない関係なんだなって、この間の見たら誰だってそりゃ察するよ。」
ああ、そういうことか。
そんな事すらも…気づかれてたのね。
私は申し訳なくて、情けなくて無理やり作り笑いをうかべた。
「……あ、あはは、そっかあ。やっぱり分かるわよね、流石に。この間、私が気を失った時は本当に迷惑かけてしまったわ」
「君は突然眠っただけだ、気にすることない。で、何でそんなに君は大佐に会いたくなさそうなの」
「…」
デューイの詰める言葉に私は息を止める。
「真っ青になって倒れるくらいだ。理由を知りたい。言いたくないならもう詮索しないよ」
デューイの言葉に、エリクやルイも頷く。
…零隊にこれだけお世話になってるんだもの。
いつか話さなきゃいけないとは思っていた。
私は逃れることなく、全てを話す決心をつける。
「…勿体ぶっちゃったけど、別に大した関係じゃないのよ。私たちは、幼馴染だったの」
3人はかなり驚いた表情を見せた。
「…へぇ、あの大佐と?」
エリクがぐっと身を乗り出す。
「ええ。8歳の時、私たち魔女の一族は東の果ての森に住んでいたわ。誰も人間が立ち入らない森の奥に。でもね、ある日男の子に会ったの、森の中でね」
「…それが、大佐?」
「ええ。初めてその時ギルバートに会ったの」
私はにっこりと微笑みかけた。
いつでも思い出せるような、本当にかけがえのない日々だった。
「また私が小さかった頃。彼の家族は近くに別荘を建てたと言って、森の入口に大きな屋敷を構えていたわ。その時にはもう私達の両親は居なかったから、私も兄もギルバートのご両親にすごく良くしてもらったの」
「なるほどね。…でもそれだけじゃないんでしょ」
デューイの鋭い目に肩を竦めて、私は困ったように笑って見せた。
「ここからは…誰にも言っちゃダメよ?
…本当に私と兄と彼の家族は仲が良かったの。養子にならないかと聞かれるほどね。ギルバートとも本当に仲が良くて…すごく優しくてとても大好きだったわ。心から憧れる人だった」
そして暗く重苦しい過去を話す。
「……でも、あの日を境に私たちの関係は大きく変わった。
その日、私の兄はエバンズの屋敷に魔法を使って火を放った。屋敷は全焼して、その業火は彼の家族と私の兄を消した。
私はその日たまたまエバンズの屋敷に向かう予定があったから、私はそれに遭遇した。本当に運が良かったわ。だから水の魔法を使ってギルバートだけを…助け出したの」
3人は息を飲んだ。
きっと誰もそんな話、微塵も知らなかったからだろう。
重苦しい雰囲気の中、驚きと戸惑いを含んだ声色が響く。
「…待って。
ルドルフ・エバンズ元大将とユレイナ・エバンズ元中将は屋敷の火災で亡くなったと聞いている。その火災は事故的ではなく、故意だったと…そういうことなのか」
デューイが目の色を変えて私に尋ねた。
「…そう、軍ではそう伝えてあるのね。
偶然、森の巡回に来ていた国王軍が、燃える屋敷から逃れた私達を見つけ出してくれた。国王からこの件については話すなと言われたわ。『この事実が明るみに出て、再び魔女裁判が始まるものなら、魔女と人間の戦争の火蓋が切られるきっかけを作ってしまう』とね。
きっと、国王が軍の権威を持つ人達にそう吹聴してくれたのね」
零隊なら魔法も魔女についての存在も知っているし、ギルバートの仕事仲間だ。
おそらく国王の口封じの対象にはならないだろう。
…でもギルバートは家族の死因を仲間である彼らにも訂正することなく、今まで生きてきたのね。
それを思うと、古傷のような、昔受けた大きな心の傷にグッと刃物を押されるような気持ちになった。
「…信じられない。初めて聞いた話で、とても…1度では理解出来ないよ。何故花姫の兄上はそんな事を?」
「今になってもそれは分からないのよ。
前の日も兄様はいつも通りで、彼の家族にはとても良くしてもらっていたし…本当に理由が見当たらないの。もしかしたら誰かに脅されていたのかも、と考えたこともあるけど、心当たりはとにかく無くて、分からないことだらけよ」
「そんなことって。…じゃあ、花姫が大佐に会いづらいと思っているのは、自分の肉親である兄が彼の家族を手にかけたから?」
「…」
私は黙った。
そう、その考えは正しい。
…それもある、でもそれだけじゃない。
私は自嘲の笑みを浮かべながら、暗く深いところから湧き上がる当時の思い出が頭を掠めた。
私の不気味な微笑みを見た彼らの表情は、不審な面持ちに変わる。
私は言った。
「私も、兄と同じ。…人殺しなのよ」
「え?」
エリクはどういうことか分からないと言った表情で私を見た。
「……
…8歳の私は本当に大した魔力を持ってなくて。
今も兄様に比べたら全然ダメだけど、当時の私は魔法なんてろくに使えなかったの。
見つけだしたギルバートを外に運んで、体に水をかけてあげるくらいしか出来なかった。本来の魔女の力が私に備わっていれば、8歳の私にでも屋敷の火を消し去ることだって出来た。
言ったでしょう?
私は一族でも出来損ないなの。私は彼の家族を見殺しにした。」
「なっ…それは見殺しなんかじゃないよ。それで花姫が大佐の家族を救えなかったと後悔するのは、少し責が重すぎないか。だって、仕方がないじゃないか」
「いいえ、見殺しにした。
本当はね、見つけ出したのはギルバートだけでなく、彼の妹エリザベスも見つけたの。でも彼女は大きな棚の下敷きになっていて身動きができない状態だった。
…私は後で人手を呼んでまた来ると彼女に告げて、先に煙の吸いすぎで気を失いかけているギルバートを救った。外に出た時には屋敷は火だるまになっていたわ。
ね、私にもっと力があれば…あの時無理やりエリザベスを助けたら…そう思わない日は無いわ」
みんな瞼を伏せて拳を固く握り、静かに私の話を聞いてくれていた。
「そして、ギルバートはその日から私を憎んでいるわ。当たり前よね、私に力さえあれば全員救えた。なにより、私の兄がそんな恐ろしいことをしなければ…彼は平穏な家庭で育ち、素敵な家族に囲まれ温かく成長していたはず。私は彼に顔なんて向けられない」
「ローザ…」
私は今にも涙が溢れそうになっていた。
情けない。
全て私が悪いのに。
兄様を止められなかった、魔力もない、そして、エリザベスも救えなかった。
自責の念で押しつぶされそうになる私を横目に、デューイは目を細めて語り始めた。
「大佐は…とても、立派な人だ。とても賢くて身体能力も高いから、軍の幹部としても、戦争で前線指揮をしても相当に使える。
君にはピンと来ない事かもしれないけど…
零隊をまとめあげるのだって、本当にすごいことなんだ。
…でも時々、大佐はとても冷たい表情や冷酷で残酷な考え方をする。軍の倫理観を覆すような殲滅作戦を、普通の顔していくつも提出するんだ。
大佐は人間としての温かい心が欠けている…だから軍でのあだ名は『氷の大佐』。
ボクは今の話を聞いて、そのあだ名の由縁に納得してしまった気がするよ」
デューイの自嘲的な笑みに、心を刺すような痛みに襲われた。
それらも全て、あの日の私のせいだ。
…氷の大佐。
昔の彼からは想像もできない。
彼がたった1人でこの地位を築くのにどれだけ苦労したか計り知れない。
どんな思いを抱えて1人で歩いてきたのかも…
「みんな、あの日は居心地が悪かったでしょう?私のせいでごめんね。
とにかくそういう訳なの。
だから…出来れば、私は今後もギルバートとは会わないようにしたい。
彼のためにも、私のためにも…出来ればもう、関わりたくないのよ」
するとふいにルイと目が合った。
バツが悪くて再び俯こうとすると…
「でもあんたがギルバート大佐に、大佐が失ったものを返せば…せめて屋敷で死んだルドルフ元大将と、ユレイナ元中将、それから大佐の妹への餞になるんじゃないか」
「…え」
ルイの話を飲み込めずに動揺する。
どういうこと?
そう返す前にエリクはデスクに身を乗り出した。
「…そうだ、そうだよ!ルイの言う通りだ」
エリクはうんと頷いて、困惑する私に優しく微笑みかける。
「花姫はギルバート大佐に向ける顔がないからって、会いづらいんだろ?
だからお互いのためにも会わない方がいい。そう思ってる。だけど本当にすべきことは逆なんじゃないかな」
「…逆?」
「うん。デューイが言ったように大佐はすごく厳しくて立派な上司だけど、倫理観とか愛とか思いやりとか、そういう感情を失ってると思う。今聞いた限りでは、その原因には深く花姫が関わってると思う。」
「……」
「だから、花姫がすべきことは大佐の視界からいなくなることじゃなくて、大佐の中に飛び込んでその『氷』を溶かすことなんじゃないかな」
「………氷を、溶かす?私が?」
それが、餞に?
……人殺しの私が?
自分が今まで考えていたことと真逆のことを勧められて体が固まる。
するとデューイもうん、と頷いて彼も意見した。
「ボクも同感だね。あれは1種の事故後の心身の後遺症みたいなものに感じるよ。大佐は普通じゃない。部下としても困ってるんだ、どうにか人間らしい感情を持って欲しいものだよ」
するとルイもその声を上げた。
「俺も…もう少し思いやりのある仕事の任せ方をして欲しい」
「身体が壊れないうちはずっと仕事しとけって感じだもんね。
ねぇ花姫、君はどう思う。きっとこの機会を逃したら大佐は将官に昇進して、君はとうとうギルバート大佐と関わる機会を失うはずだ。
俺は花姫のその考えを見つめ直すいい機会だと思うんだけど…どうかな、この考えは?」
エリクの問いかけに、
私は胸に手を当てて考える。
彼の氷を溶かす。
簡単に言うが人の心を人が変えるなんて到底容易いことではない。
それに、それが本当に亡くなった彼の家族に向ける餞になるのだろうか…
いいや、
答えはNO。
ならない、だ。
「……それでも私、私は…。
彼の家族を助けられなかった事に変わりは無いわ。何をしようとその事実は無くならないもの。
それに…そんな大役、私に出来るわけないわ。」
「じゃあまた逃げるの?」
デューイの鋭い声に身体が強ばる。
震える声を隠すようにして、強く発声した。
「違う!!
…逃げるんじゃないわ、お互いの為にそうしてるのよ。エバンズ邸の全焼の後日、ギルバートの入院見舞い行った私に『二度と姿を見せないで欲しい』と、私は彼にそう言われたのよ!」
私の弁明中、デューイはデスクの上のティーカップに口をつけて、優雅に紅茶を飲んだ。
その様子も相まって無意識に苛立っていたのだろうか。私の握っていた拳から血が伝う。
強く握りしめすぎて、爪がくい込んで皮膚から血が流れていた。
しかしそんなのに構わず、
まくし立てるように私は続けて言った。
「…そう、そう彼は言ったのよ!だからこれは彼の願いでもあるの!!」
「違うね、そうやって言い聞かせてるんだ。それは願いを聞いて報いてるんじゃないよ。その頼みを聞くことで罪悪感から逃れようとしているだけだ」
「違う!!!!!」
パリン!
デューイのデスクの上にあった紅茶のカップが割れた。紅茶はソーサーの上を水浸しにして、カップの破片はデスクの下にまで散らばった。
ハッと我に返る。
「……!
ご、ごめんなさい私…!
魔力が…制御できなくて、あの…ごめ…」
「魔力が制御できないほど怒るなんて、図星を突かれた揺るぎない証拠じゃないか」
デューイは詰めるようにそう言った。
「…っ」
「別に君はそのままでもいいんだ。強制させる気なんてない。勿論大佐に変わって欲しいという、我々の利害の一致もあって君を説得しようとしているのもある。
…でも、君みたいな人間が、偽善という椅子に深々と座り、悪気なくその椅子で愉悦して過ごしているのが気に食わない。君がそんな人であって欲しくないという、これはただのボクのエゴだけどね」
「偽善…」
「そう、話を聞いていて思ったけど…
そもそも君のその『頼みを聞いてあげている』というスタンス自体おかしいんだ。
気づいて、ローザ。
今を逃したら君と大佐の全ては二度と変わらないんだよ。君がすべきことをもう一度考えてみて」
私が今、すべきこと。
それは…
彼から離れること。
関わりを断つこと。
…そう、
思っていた。
でもこれは偽善なの?
いや、問いかけることも無く答えは出ている。私のしていたことは偽善だ。そんな事はずっと前にどこかで気づいていたのかもしれない。
彼に懺悔するだけで許されようとしていた。そうする事で彼から逃げて、私の罪が軽くなった気でいたし、それでいいと思っていた。
それがお互いのためだと、
そう思っていた。
…でも、違うのね。
それじゃギルバートの家族の想いに報いていない。今のギルバートがどんな風になってるかなんて、全然知らなかったわけじゃないの。
氷の大佐、これは新聞の見出しにもなっていた彼の2つ名だ。
私が、彼の心を氷漬けにしてしまったのだ。
家族と親友だった私の兄を同時に失ったギルバートをたった1人にして、
私…10年間も何してたのかしら。
ホントに私ったら卑怯者ね、どこかで答えを分かっていたのに。
「私、間違ってたのね。
…10年も遠回り、しちゃった」
ポタリと涙が落ちる。
それを見ても誰も動揺しなかった。
「必要な期間だよ。長かったかもしれないが、今からでも遅くない」
「デューイ…私、私なんて卑しいやつだったのかしら。ギルバートから逃げ続けて、何も努力しなかったわ。彼になにか与えようとさえ行動しなかった!!ううっ…
貴方がこうやって責めてくれなかったら、きっと今後も気付かないふりをしていた。私は10年前の兄と同じようなことを彼にしていたのね」
「そうだよ。
大佐の妹君を見捨てたと言っていたね。君はその次の時点で大佐の心も見捨てていたんだよ」
「うううっ…私、なんてこと……!」
みんなを全てから守るなんて、目標を掲げて生きてきたのに。
昨日の事のように思い出せる。
とても辛くて痛い記憶。
あの日、病院に運ばれたギルバートが目を覚ますのを待っている間、本当に心細くて。
目を覚まさなかったらどうしようと、そればかりをずっと考えて泣いていた。
しばらくしてお医者様に目が覚めたから面会を許可すると言われ、病室に入った時…そこにはもう、以前のギルバートはいなかった。
ーーーーーーー
『ギルバート!良かった!目が覚め…』
『父さんと母さんは?』
『……っ。ギ、ギル、あのね』
『エリザベスは?ローザ、ローザの魔法で、屋敷の火は…消してくれたんだよね?』
『あ、う…ギル、わ、私…』
『何で、アルトはあんな事を?
どうして教えてくれなかったのローザ』
『あ、あ……ギ、ル…』
『答えてよ!!!!ローザッ!!!』
『ぅ…ぁ……っひっぅぐっ、わ、私、私…
何も出来なくて……っエリザベスは……
ギルバートの、ぅ、お父さ、お母さんは…
……もう、うっう、ごめんなさ、ごめんなさ…』
『二度と…姿を…見せないで欲しい』
『ギルバー、ト…』
『ローザ…僕は……もう………
君が、お前が、憎くて憎くて、仕方ないよ。
もう二度と、俺の前に姿を見せるな。
残酷な、魔女め…ッ!!』
ーーーーーーーーーーー
あの日の彼の強がりを利用して、彼をも見捨てて全てから逃げていた。
そんなことに今やっと、
彼らに言われて気づくなんて。
私は目を閉じて、顔を上げる。
息がしづらい。
深呼吸して呼吸を整える。
すーー…はーー……
もう涙は流さない。
硬い決心とともに私はゆっくりと目を開いた。
「私、上手く出来ないかもしれない。でも、でも彼に関わる努力をする。もしかしたらもっと今より関係が悪くなってしまうかもしれない。でも、あの日に失ってしまった彼の心に火を灯す、氷は私が溶かしてみせる…それぐらいの気概すら持てないなんて、罪悪感を持つ資格すらないわよね。
あなた達が私のやっていたことが『偽善』と言った意味が、やっとわかったわ。
私……やってみる!
まずは、まずは彼と沢山喋ってみるわ」
私のその言葉に3人は深く頷いた。
「うん、その意気だ。
ふふ、花姫とりあえず…これ使って?」
渡されたエリクのハンカチで涙を拭う。
「ありがとうエリク…デューイも、ルイも」
「良いんだよ、そんなの。
俺たちの方がずっと色んな間違いを抱えて生きてるよ。気づけたら勝ちなんだ。気づいて行動を起こしたら、もう誰も君を責めないよ」
こくんと頷く。
「まあそんなかっこいい宣言したはいいけど、ローザは今の大佐と会ってないからね」
デューイの言葉にギクリとする。
「その通りだわ、事務所に来た日も私気絶しちゃってたし。…噂なら沢山聞いているけど」
エリクはぷっと笑い出す。
「じゃあ大佐の近況報告会からだね。
昔の大佐を知らないから、正直その昔のギルバート大佐は優しくてーとかの下りで信じられなさすぎて笑いを堪えるのに必死だったんだけど…
まあそれはいいか、それで近況なんだけど」
エリクが話出そうとした瞬間。
ジリリリリリリリリリリリ!!
壁に掛けられた黒電話が鳴り響くと3人の顔が変わった。
あの電話は軍の内線電話である。
つまり…
直ぐにデューイが電話に出る。
「こちら零隊特等デューイ」
一気に緊張した空気感に包まれる。
何を喋ってるのか聞き取れないが、デューイの表情がどんどん険しいものになっていく。
それだけでただならぬ何かが起こっていることを予感させた。
「…………了解、直ちに現場へ向かう。」
ガチャン
電話を戻したデューイは私たちに向き直る。
そこにはデューイではなく、特等デューイの姿があった。
「ゾルデ区15番街 帽子屋通りに仮面が出没し、路地の店を燃やし歩いていると民間から本部に通報が入った。
既に救命活動は行われているが、零隊の応援要請が入った。今回は車で現場に急行するぞ」
3人は軍服のコートと軍帽を素早く身につける。
しんみりした雰囲気であろうが、一大決心を決めようが時間は待ってくれない。
私は顔をパンッと両手で叩き、よし!と立ち上がる。
まずは目の前のことから!
急いで3人の後を追うように事務所を降りる。
軍の車は既に事務所の前に停められていた。
すると見た事ない顔の男性が私たちに声をかけた。
「どうも皆さん、お久しぶりですね!
っておや、女の子?アリスちゃん…
じゃあ無いな」
気の良さそうな運転手のおじさんが窓から声をかける。
「ベン、悪いがとても急いでる。世話話は中でしよう」
急いだ様子で黒塗りの車に乗り込む。
すぐに車は動き出した。
馬車より振動が少なくて、平行移動しているような感覚だ。
「わ、私車に乗るの、初めて。こんな感じなのね」
緊急の任務とはいえ、初めて乗る車に興奮する。最近街中に増え始めた車。
蒸気で動く新たな機械の移動手段だ。
車の中は独特な革の匂いがする。車の椅子から匂うのだろうか。
「まあ、今はまだ富裕層しか持ってないからね。俺も佐官以上に就けば、いつかは自分の車を持てるかな」
エリクが両手を頭の後ろに当てて、膝を組んだ。
車に慣れた様子のエリクを横目に、初めての乗り物になんとなく緊張する。
車は動き出す。
窓から外を眺めるとみるみるうちに景色が変わっていく。
スピードが馬車とは段違いだった。
「車というのは馬車よりもこんなに早いのね」
「これから山道に出るからもっと飛ばすよ。遠方への緊急の任務の移動は基本的には軍の車だ。ナンバーはR-A の頭文字でプレートが黒のもの、今後世話になることも多いだろう、覚えておいて損は無い。彼はベン、零隊専属の運転手だ」
「ご紹介どうも。
それはそうと、見ない顔だけど…
お嬢さんは最近零隊に入隊したのかい?」
「あ、いえ私は…」
エリクに手でがっと口を抑えられる。
「そうなんだ、まだ軍人としては見習いなんだけど有能な人材でね。この子はローザ。仕事で会った時はよくしてやって欲しい」
すると小声でエリクは私に言う。
『前にも言ったけど一応籍は軍にあるから、軍人じゃないって言ったら公用車からすぐ降ろされるよ!?』
エリクの迫真の言葉に、私は急いでこくこくと頷く。
…そういえばそんな話もされたんだった!
次から気をつけなきゃ!
「そうかい、そういう事ならよろしくなローザちゃん」
「ぷはっ…ええ、よろしく」
「よし、もうレガリアを出るから飛ばすぜ。みんなちゃんと掴まってな!」
ベンの明るい声色に騙された。
こんなにも車というのが恐ろしい乗り物だなんて。
「きゃあああ!こわい、怖いわ!ぶつかる!本当にぶつかる~!!」
右に左に、上に下に視界が揺れる。
スピードが出過ぎているのか、本当にベンがこれを操りきれているのか分からず、不安で仕方ない。
いつ死んでもおかしくない山道の運転である。
「…心配するな、ベンは軍の運転手の中で最も運転が上手い」
ルイはいつもの顔色でそう言った。
「し、信じられないわ、わわっ、痛!!」
「どこかぶつけた?大丈夫?俺につかまって」
エリクは私の左手を軍服の胸あたりに持っていき、軍服の裾を掴ませた。
な、なんでこの人たちはこんなにも普通で居れるの!?
「おいエリク!セクハラするな!!」
助手席のデューイまで振り返っていつものように抗議する。
デューイまで普段通りだわ。
…慣れって恐ろしい。
エリクは耳打ちするように小声で言った。
「…花姫、辛い時は俺たちを頼って。力になれないことの方が多いかもしれないけど、きっと心の支えにはなれるから」
「エリク…」
エリクはにこっと笑ってウィンクして見せた。
…みんなありがとう。
みんなのおかげで私、やっと、やっと…
本当に10年前の時計の針が動き出した気がする。
エリクの服を掴む手に自然と力が入る。
本当にありがとう。
私の心の内を読んだのかのように、上から見下ろすエリクは穏やかな表情で笑っていた。
しかし、まさかその現場に、事務所で話していた話題の渦中の人物が既に居ることになるとは、勿論この時知る由もなかった。