屈辱
――人間というものは、怒りが頂点を達すると、何も考えられなくなるものなのだな。
俺の思考は停止した。
数分後、フラリと動く体は窓枠に手を伸ばしていた。
「待て! 何をやっている、アシュ」
「落ち着け。いいから一旦落ち着きなさい、アシュ」
遠くの方で声がする。ああ、この声は父上とハリスさんかな? すみません、今俺は何も考えれないので、とりあえず飛び降ります。
「ハリス、いいからもう眠らせろ!」
「悪い、アシュ。起きた時、腹がちょっとだけ痛いかもしれないが、許せ」
「アシュ、一緒にいく?」
父上とハリスさんの騒音の間に、澄んだ柔らかな音が俺の耳をかすめる。
拘束されている俺の体の目の前には暗闇が広がり、優しい音色は後方から聞こえる。
ギギギッと壊れた玩具の様に首を向けると、そこには笑顔のファニーがいた。
そっと近付いてきた彼女は、俺の顔を両手で挟む。
「何かあったのか分からないけれど、アシュが飛び降りるのなら私も一緒にいくね。だってアシュいつも言っているでしょ。何があっても一人にしないって。だから私も一緒にいく。私を一人にしないでくれるんでしょう?」
そこで俺は目が覚めた。それはもう鈍器で殴られたかのようなショックと共に。
俺から力が抜けたのを察した父上とハリスさんは、脱力と共に手を離した。
どうやら俺の体を拘束していたのは、父上とハリスさんの腕力だったらしい。この二人の制止を振り切り動いていたのかと思うと、驚くと同時に我に返る。
俺はファニーと共にその場にへたり込む。
「……ごめん、ごめんな。ファニー、俺、怒りのあまり我を忘れてた」
「大丈夫。ずっとそばにいるよ。心配する事なんて一つもない」
そう言ってファニーは俺を抱きしめてくれた。
自分よりずっとずっと小さな体で、全身で守られた。
俺は堪らなくなってファニーをギュッと抱きしめ返す。
そこでゴツッ! という鉄拳制裁が加えられたのは言うまでもない。
「正気を取り戻したか、この大馬鹿者」
「……申し訳ありません」
「大体ここ最近のお前は冷静さを欠いている。自覚はあるのだろう?」
「……はい」
「黒の魔女のいい様に振り回されるな。なんの為に皆がいると思っている?」
「……返す言葉もありません」
「精神的に鍛えなおす必要がありそうだな。お前は……」
「もうそれぐらいでいいだろう、リスティ。アシュだって十分分かっているさ。けれど感情が制御出来ない時だってある」
父上がソファで座る横で、足を曲げて直接床に座り込む俺は項垂れていた。
父上の説教は至極当然だ。甘んじて受けようと俺は殊勝な態度を示していたが、横からハリスさんが助け舟を出してくれた。
「それって東の国で正座って言うんだっけ? 以前ルミの前でもやってたよね。私もやってみよう」
そう言って俺の横にちょこんと座り込むファニー。
「だ・駄目だよ、ファニー。こんな事したらファニーの綺麗な足に傷がつく」
「クスッ。一緒に怒られてあげるね」
そう言って微笑むファニーは正に……「天使♡」
……声に出ていたようだ。父上のジト目が後頭部をチクチクと指す。横でハリスさんが右手で目元を覆っている。
すみません。反省が足りないわけではないのですが……如何せん、俺の天使が可愛すぎるのです。
「……もういい。今のお前に何を言っても仕方がなさそうだ。ファニリアス嬢を呼んだのは良かったのか悪かったのか……それよりも、相手の策略は理解できたか?」
「理解したくありません。この上ない不名誉かつ嫌悪感漂う内容です」
「そんなに酷い内容なの?」
「思わず死にたくなるほどに」
「そうなのね、アシュが死ななくて良かった」
「ファニーがいてくれたから、俺は死なずにすんだんだよ。ファニーは俺の命の恩人だ」
「クスクス、じゃあアシュは私の命を左右する神様ね」
「それはファニーの方だよ。俺の命を左右するのは、昔も今も未来永劫ファニーだけだからね、女神様」
ゴツッ!
「いい加減にしろ!」
父上がキレた。すみません。本当にすみません。
またもやイチャイチャし始めた俺達に、父上がソファから立ち上がり俺の頭に二度目の拳を叩き込んだ。ハリスさんは最早、ソファに深く埋もれて顔を上げてくれない。
先程より痛いのは、単に止めただけですよね。若い俺達にヤキモチを焼いたわけではないですよね、父上。
「あの、私、席を外した方がよろしいでしょうか?」
ファニーが申し訳なさそうに、父上に聞く。
「せっかく来てくれたのにファニーが出て行く必要ないよ。全部俺が悪い」
慌てて止める俺に、父上が全力で頷く。
「その通りだ。それにこの内容はファニリアス嬢の耳にも入れておいた方がいい。王族の二人だけの間で交わすだけならいいがもし万が一、外に漏れる事があるのならこちらからも事実無根として止める方向にもっていく。だが、噂は魔女の専売特許だ。変にねじくれてファニリアス嬢に届いても問題だ。ここで貴方にも理解いただけるとありがたい」
そう言う父上にファニーの顔が強張る。良くない噂だと改めて理解したのだろう。
「お聞かせ願えますか?」
俺とファニーはソファに座り、手を握り合う。父を見るファニーの横顔は覚悟を決めた顔だった。
「黒の魔女ローズマリーにアシュが体の関係を迫り、断られた腹いせに彼女の存在を否定した。という内容をヒュージニアの王族に吹き込んだらしい」
「……え?」
俺は再び聞く内容にまたもや思考が吹っ飛びそうになった。現実に引き戻してくれるのは、手の中にあるファニーの手のぬくもり。
ファニーもまた、思考が停止したような表情をしている。
しばしの沈黙の仲、口を開いたのはファニー。
「……えっと、はい、理解しました。そんなありえない話をヒュージニアの王族の方々は信じられたのですか? 嘆かわしいですね」
良い子のファニー。理解が早い上に一切俺を疑わない彼女に惚れ直す。
「調べればすぐに分かる事ですが、そのあたりも魔法が働いているのかもしれませんね」
当たり前だ。黒の魔女と俺との間に接点は一つもない。
強いてあげれば学園で顔を会わせたかもしれないという、ぼんやりとしたもの。
けれどそれだって俺の生活のほとんどはファニーと共にあり、それ以外ではゲーリックとコニック・生徒会の誰かと必ずいた。一人になる事がまずないのだ。
だって俺は目立つもの。俺の行動は誰かが必ず見ていた事を、俺は知っている。それこそが証拠だ。
他国の王族がそんな事を知らないといえばそうなのだろうが、そこは王族。噂には必ず裏をとれという事だ。根も葉もない話を根拠もなく信じれば、取り返しがつかなくなる事ぐらい自国で学ばなかったのか?
まあ、父上の言う通り、そこは魔法が働いているのかもしれないが……。
そんな事を考えていると、手の中にあるファニーの手に力が入った。ギュッと握っているのだが、全然痛くもかゆくもない。柔らかい。
「……大嘘だって分かってるけど、なんだが気分よくないね」
ムッと唇を突き出して、不貞腐れた表情をとるファニー。
「……ごめんね。嫌な思いをさせて……」
「アシュが謝る必要なんてどこにもないよ。私のアシュがあんな人と、なんて他の人が考えてる事が気持ち悪いだけ」
そう言って俺の手を握りこむファニーは、俯いていた顔を上げて俺の顔をジッと見つめる。
「私、お城に行っては駄目かしら? その人達の前でアシュは私のなんだって言いたい。アシュが他の人に興味なんてもつはずがないって、目の前で教えてあげたい。もちろん、危険な事はしないわ。むしろずっとアシュにくっついて一時も離れない。それでも変な事言うようなら、証拠を出せって言ってやる。私より黒の魔女に手を出さなきゃいけないような必要がどこにあるのかって」
――た・頼もしい……ファニー様。
顔を上げて、視線を逸らさないファニー。いつの間にこんなに強くなったんだ?
前回では俯いてばかりで儚い微笑しか出来なかったのに……俺を必死で守ろうとしてくれている。
俺はなんだが心が温かくなってきて、涙が出そうになる。
守っているつもりが、いつの間にか守られている。
俺が言葉を失っていると、隣から息を吐く音が聞こえてきた。
「ファニリアス嬢の方がよっぽどしっかりしているじゃないか。お前の負けだ、アシュ。閉じ込めているだけで守れていると勘違いするのは男の悪い癖だ。今回の事はファニリアス嬢の考えが正しい。彼女に守ってもらえ。噂が独り歩きする前に」
そう言って父上はソファから立ち上がり、クレノさんに連絡を取る。
因みにクレノさんとの連絡方法は、なんと鳥。
クレノさんの飼っているカラスがどんな場所でも、クレノさんと確実に連絡を取ってくれるそうだ。
初めて見た時、驚いたものの羨ましくもあった。マネして鳥を捕まえようとして、つつかれまくってボロボロになった姿を見られて大笑いされ、その夢は儚く消えたのは黒歴史。
父上がカラスの足に手紙を付けている作業を見ていると、ハリスさんがファニーの頭を撫でた。
「流石ルミ殿とミルフィール嬢に気に入られている事はありますね。お強い方だ。その調子でアシュを守ってやって下さいね」
「はい」
ハリスさんの言葉に目を輝かせて喜ぶファニーに目が潰れる。眩しすぎる。
「……俺、めちゃヘタレ?」
ぼそりと呟く言葉に、軽く背中を叩かれた。
「努力が実を結んだと思え。守って守られて、そうして絆が深くなった。お互いに助け合えるんだ。喜ばしい事じゃないか」
その通りですね。俺の周りは大人ばかりだ。一方的な考えしか出来なかった俺は、本当に一人子供だ。一向に成長出来ていなかった。
「……どうしよう、俺。ますますファニーに依存してしまう」
「任せて。ちゃんと全部受け止めるよ。それだけの事、アシュはしてきてくれたんだもの」
ニコニコと微笑むファニーを指さして「天使だよね?」とハリスさんに同意を求めると「もう、それでいい。お前の脳みそは元からそれしかないだろう」と呆れた声を出された。
後日、このやり取りが逐一ルミにバレて小言を言われた。
なんでバレたんだろう?
気付けばファニーの城行きは決定されていて、二日後、俺はファニーを連れて城に向かった。
一昨日は夜会が開かれた為、昨日は休息日とし、改めて本日城の案内をするとの事で呼ばれていたのだ。
そういえば、父上達とはあの夜から会っていない。クレノさんと連絡を取った後、ちょっと野暮用。と言って出て行ったのである。今の状況と何か関係があるのか? と気にはなるものの、俺には俺のやるべき事をしろと言われたので、俺は今日に備えた。
もちろんファニーは戦闘態勢。
薄化粧ながらもファニーの魅力を全開に押し出した可憐なドレスは俺の色。紺色に袖口とスカートの裾に白のレースが付き、スカートの部分には色とりどりのビーズが付いている。胸下に同色の小さなリボンが付いていて、胸のふくらみを少々強調しているが、変な色気は醸し出さず可愛らしさを演出している。
ああ、こんな可愛い天使。ランバ様やカラクスト王子には見せたくないなあ。
城にファニーを連れて行く事をなおも渋っていると、俺の腕にファニーの腕が絡みつく。
「ずっと一緒ね。離しちゃ嫌よ」
「はい! 絶対に離しません」
俺は良い子の返事をする。あれ? もしかして俺、確実にファニーに調教されている?
首を捻りながらも勘違いだろうと、俺はファニーを馬車までエスコートする。
さあて、本日はこちらから攻撃を仕掛けさせてもらいますか。




