9/18 ちょっと昔のマンガ論2「あしたのジョー 1967-1973」
「あしたのジョー」は「巨人の星」の好評を受け、原作者の梶原一騎が高森朝雄の別名で連載を始めたマンガである。「巨人の星」はまだ継続中で同時連載だった。作画は「巨人の星」が川崎のぼる、「あしたのジョー」はちばてつやが担当している。
同じような話を同時に書いていても仕方がないということか、「あしたのジョー」はさまざまな点で「巨人の星」と対照をなしている。
題材となるスポーツは団体競技である野球に対して、ボクシング。父と子の関係が大きなテーマだった「巨人の星」に対して、矢吹丈は孤児。星飛雄馬の言動は比較的優等生だったが、ジョーははっきりアウトローである。原作者にとって「巨人の星」よりは語りやすい話だったのではないかと思う。
あちこちで語り尽くされているように、ちばてつやが作画だけでなく共作者というスタンスで原作を解釈し自分なりのアレンジを加えることで、この作品は長く名作として読み継がれることになった。
どうしようもなく孤独感を漂わせながら奇妙に気楽そうでもある矢吹丈の、澄んだ目。登場人物たちがものを言わない場面で見せる静謐な表情。これがこの作品の基調だ。原作者が得意とするあざとい荒事語りの合間合間に、登場人物たちが戻ってくる空間をちばは用意したのだと思う。マンガでありながら、叙事詩であり、神話なのだった。
「巨人の星」は星一徹という狂人が周囲を巻き込んで進行する物語で、「あしたのジョー」では丹下段平がそれにあたっていた。自分が果たせなかった夢を託すというそのままの構図である。ジョーは身よりのない風来坊、ボクシングを指導するという段平に従ったふりをして小金をかすめ取る程度の人物であり、そう大した理念をもっているようには見えなかった。
段平に隠れて近所の悪ガキどもを手下にし、金儲けを企んで悪事を働くジョーは、実は貧乏人や行き所のない者たちのためのユートピア的なものを夢見ていたのだった。タイガーマスクのみなしごランドの原型だ。
やっていることは犯罪なので警察に追われ、本気を出した段平のパンチの前にジョーは倒れ連行されていく。そのあと段平が雪の中に泣き崩れる姿は印象的だった。自ら断罪した者のために泣くこのシーンが作品に深みを与えていて、原作者の創作ともちばの仕業ともつかない化学反応が始まっていたのかもしれない。
ジョーは鑑別所のボスであった西に出会い、戦い、のちに友人となっていく。特等少年院に送られ、元プロボクサーの力石徹と出会う。そこまでは原作者のテンプレ通りとして、力石の庇護者である白木葉子の登場はなんだったのか。おそらく男同士の殴り合いに終始するはずだったこの物語は、葉子とジョーの微妙な愛憎によって重層的なものとなり、独特の色合いを獲得していく。
力石は連載なかばでジョーとの試合中の事故により死ぬ。ジョーの挫折と再起で物語は続いていくのだが、段平の狂気や執念はもうほとんど関係がない。ジョーは力石の死に支配されていることもあって、物語の最後まで妄執ともいえる奇妙な情熱に支えられて突き進んでいく。勝って富や栄光を手に入れることではなく底の知れない自己破壊衝動が先走っていて、対戦相手はその衝動を共有してくれる貴重な友人なのだ。ジョーは段平など及びもつかない狂人に変貌したといえる。ジョーが手の届かない次元に行ってしまったのだと悟ってどこか行き場のない表情を見せる段平の姿が、少し哀れだ。
マンガとしては中弛みした時期もあった。ジョーはいつも叙情的なわけではなく原作者独特の理屈っぽい長台詞を喋らされていることも多い。それに対し、ハワイかどこかでジョーが車に段平を乗せてメチャクチャに走らせるシーンなど、ギャグ的な場面を挿入することでバランスが取られていたりもした。
アルバイトをしている乾物屋の娘、紀子に「真っ白な灰になる」と話す見せ場、最後の世界戦の前に葉子から自分がパンチドランカーであることを告げられて「すきなのよあなたが」と引き留められる場面、これらは型どおりのようであるが、物語が熟しきってもうこれしかないという展開なのだとわかる。ジョーは戦い、最後は真っ白に燃え尽きたあのラストになる。
それが名作である所以なのか、無為なようであり、理不尽なようであり、美しいことには違いなく。




