9/4 「Beautiful Fool 〜太宰治とフィッツジェラルド〜」
フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald)1896年9月24日〜1940年12月21日
太宰治(だざいおさむ・本名津島修治)1909年(明治42年)6月19日〜1948年(昭和23年)6月13日
フィッツジェラルドと太宰はほぼ同年代に生きたように漠然と思っていた。いま調べるとフィッツジェラルドより十三年あとに太宰が生まれ、フィッツジェラルドは四十四歳、太宰は三十八歳でそれぞれ亡くなっている。ずいぶん若かったんだなと感じる。十年以上違えば同年代とはいえないかもしれない。
なぜこの二人を並べてみたかというと、伝え聞いた二人の人生が多くの共通点をもっているからである。
子どもっぽく見栄っぱりなところのある田舎の秀才が都会に出てきて何度か挫折を味わったあと、文壇に出て一躍スターとなる。しかしその成功とはうらはらに、自分の文学的才能にいまひとつ自信が持てなかったのか、卑下してみたり逆に昂然としてみせたり情緒不安定だった。夜の街で安酒を飲む類の遊興に溺れることも多く、その人生は短いものだった。
単によくあるストーリーだと思えるが、それはこの二人の人生が流行作家の典型としてさまざまなドラマなどで繰り返しなぞられたために生じた、時系列が逆になった印象だという可能性もあるだろう。
太宰はフィッツジェラルドを読んだだろうか。
作品中で見るかぎり、太宰の読書範囲は古典的教養主義のそれで(その時代はそれが普通だったに違いない)フィッツジェラルドの新聞小説やペーパーバックまでには及んでいなかったと思われる。入手していたとしても、太宰の英語力がフィッツジェラルドの微妙に屈折した文体を読解できていた可能性は低かっただろう。
もし太宰がフィッツジェラルドを読み解いていたとしたら。
これもあくまで作品中の太宰のイメージだが、適当に斜め読みしながらもその才能を察し、嫉妬し、そして悪口を言った気がする。アメリカに同志がいたなどと感情移入したりはしないだろうし、そんなことになったらちょっと気持ち悪い。
逆にフィッツジェラルドが太宰を読んだら。
これは普通に酷評するか、関心を示さないのではないかと思う。キリスト教への理解、ラテン語の韻文といったベースのない文学には興味が持てなさそうだ。太宰はおれだってキリストへの理解は並ではないと主張しそうだが、おそらく本場である欧米人からすれば似て非なるものであるだけにかえって受け付けられないのではないか。
まあわたしもキリスト教やラテン語に通じているとはいえないので、半可通もいいところではある。
太宰治が好きだ嫌いだというのは昔、文学上の踏み絵かなにかのように言われていた時期があった。あまりに有名な三島由紀夫とのエピソードの影響もあったか。
それは女性と心中を試みて失敗を繰り返すといった私生活と混同して語られるのが常で、よくも悪くもスターというか主人公的でありすぎ、文学として評価しづらい感じはする。
いくつかの作品はそう悪くないと思う。「女の決闘」「津軽」「ヴィヨンの妻」あたり、調子よく語っている太宰は面白い。「ヴィヨンの妻」で詩人の旦那が無言で強盗をはたらいてさっさと出ていくところなど、その妻が不謹慎と知りながら笑ってしまうのと合わせ、比類ないユーモアだ。
その文章が意外と古くなっていかない、平易でリズム感がよく読みやすいのは、現代でも太宰治が読まれ、語られる理由のひとつだろう。
そうやってつるつると語って、そのあとぬけぬけとしていればよさそうなものだが、私はくるしいのだとか、いのちを賭けた文学なのだとか付け加えていくのが見苦しく、それがまあ太宰である。
「人間失格」をはじめとする私生活もの(あえてそう言い切ってしまう)については、モラル上の問題はともかく、女とできた、くるしい、死ぬというくだりがいつも粗雑というか、なんでそうなるんだという展開なのでただ不備だなと思う。
実際に数々の女性と関係をもっていたらしいが、どうもそこに恋愛の痕跡があまりない。自分は女にかまわれるが自分から女にはたらきかけたことはないという表現を本人はする。そこには彼独特のかっこつけが入っていてそう額面通りに取ることはできないが、ある種の色男が駆使する、なれなれしく急に距離感をつめていくやり方が想像できる。はっきり男尊女卑の時代の人だから、男女平等の恋愛などはなから信じていないふしもある。
一緒に同じ地面に立って生きる考えがないから、自分の身が立たない以上は生きていてもしかたがない、供をせよという結論になる。正確な推測ではないと思うが、そういう面もあっただろうことは考察に入れておこう。
フィッツジェラルドについては近年、村上某氏による研究書や訳本が出てかなり再評価されたようだ。わたしはこの村上某氏がフィッツジェラルドに抱く愛着かなにかは結構だと思うが、氏のフィルターを通したフィッツジェラルドを読む気はしない。一見さらさらしているように見える訳文に氏の個性や思い入れが入り込み過ぎていると感じてしまう。
ぽつりぽつりと出ていた短編集の文庫や原本を集めるのを楽しんでいた程度のわたしが言うと、単なるマイナー者のひがみになってしまうのは仕方がない。
代表作ということになっている「グレート・ギャツビー」はやはり優れた小説だと思う。ざっくりいうとストーリー自体はどこか陳腐だ。あれはフィッツジェラルドの精妙に屈折した文体でなく、たとえばハーレクインロマンスの作家が同じ話を書いたらとんでもなくバカバカしい小説になってしまうことが想像できる。それは何だってそうには違いないが。
いまは闇商売に手を染めてそれなりの財産を築いているギャツビーが執心しているのは、昔の恋人を取り戻すという夢である。そのために彼が考え出した手段は、恋人の住む土地の対岸に大邸宅を構えてそこで連夜の大がかりなパーティーを催すというものだった。語り手であるニックの協力を得て恋人デイジーとの再会を果たすが、それに飽きたらず、いまは夫と子どもをもっているデイジーを自分のものとすべく、彼女の夫に挑んでいく。やり取りの中で素性をばらされたギャツビーはそれでも諦めようとはしなかったが、錯乱したデイジーが誤って夫の愛人をひき殺してしまうという事故に立ち会うことになる。彼はその愛人の夫である自動車修理工に犯人だと誤解され(そう仄めかしたのはデイジーの夫だった)、射殺されてしまう。全てが終わったあと、嫌疑を避けてほとぼりをさますためかデイジー夫婦は欧州に旅立ち、ニックはなんともいえない思いでこれを見送った。
ストーリーだけを追うと安っぽいソープオペラのようでもある。それでもというか、それゆえに、この小説にはアメリカそのものだと思われる要素が詰まっている。他愛ないモチベーション、そのための途方もない努力、これでもかという派手な仕掛け……そして悲劇的なアンチクライマックス。エルヴィス・プレスリーの生涯がこのようなものだった。アメリカの奇妙な神話だ。それがきらびやかなようで仄暗い比喩、暗喩を駆使して彩られていくのは美しい。悲しいのか何なのかはよくわからなくて、うすっぺらだが深い。
欠点も多い小説で、ギャツビーとデイジーの性格が浮世離れしすぎていてリアリティという側面からみるとかなりおかしい。この小説全体がやや陰鬱なファンタジーだからと考えればいいのだろうか。デイジーに夫との訣別をせまるギャツビーが、子どもがいるデイジーの生活者としての面をまるで顧みないところなど、ギャツビーがいまでいう中二病患者で、デイジーとの楽園のような生活だけしか念頭にないのはどうかと思う。裏の世界で成功を収めた彼がこと恋愛になるとこうも純情というかはた迷惑な男なのはバランスが悪すぎるが、語り手ニックはそんなギャツビーの中にどこか美しい資質を認めているようだ。そういった不自然といえば不自然すぎる点に目をつぶってでないとこの小説は楽しめないかもしれない。
それらを差し引いても、この小説はよくできている。新聞小説の短編で名をなした作家が、代表作の長編として残すべく辛抱強く抑制を効かせて書きつづけただけのことはあった。物語の中の細かな陰影が読み返すたびに違った印象で読者の目に映り、長年のうちに何度か読み直すことに耐えるだけのものはある。
このような小説を残せただけでもフィッツジェラルドという作家が存在した価値はあっただろう。そのあと、時代に取り残された形で亡くなることがフィッツジェラルド自身の物語をしめくくったのはでき過ぎで、単に不幸なことだった。




