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9/2 ちょっと昔のマンガ論「うる星やつら 1978-1987」

 

「うる星やつら」は少年マンガの世界に現れた女性作家、高橋留美子の作品である。当初は期間限定の連載で単発物に近い扱いだったが、人気の後押しをうけて週刊連載となり、約十年続いて一時代を築いた。いま萌えとかオタクと呼ばれている分野の先駆けといえるだろうか。

 わたしはすでに子どもという年齢ではなくあまり少年マンガを読まなくなっていたが、あちこち過激な方向にばらばらに向かっていた当時のマンガ群に対する先祖帰りという感触をこの作品にもち、少しずつ読み進めていった。いくつか突出したところのある作品ではあるが、出版元の小学館らしく節度のある普通の少年マンガが女性によって復権したという印象のほうが強かった。

 とはいえ、これはやはり並のマンガではなかった。


 最初にあげられるのはプロットとネームが異様に充実していたことだ。それまでのギャグマンガは作家ひとりの思いつきによって成立する部分が大きく、ひとつふたつのギャグが当たるとそれを繰り返しすり切れるまで使う、漫才師方式といえるものだった。これはなかなか苦しい作業で、そのために、ネタ不足に苦しんだ作者が楽屋落ちとして自ら作品の中に登場し苦悩するという手法を赤塚不二夫をはじめとした多くの作家が穴埋めとして使っている。

 高橋は、とくに連載初期、多くはないページの中にこれでもかというほどプロットとネームを詰め込んでおり、過去のギャグマンガとは異質だった。これは高橋が劇画村塾の出身であったことが原因としてあるかもしれない。短編映画でも作る感覚でシナリオを組み立ててギャグマンガを制作していたら、斬新というほどではないが充分に革命的である。おそらく編集者やアシスタントとの合議制も取り入れていたと思われる。


 二つ目は、登場人物の造型における高橋留美子の視点の特殊さである。高橋が女性であることも関連しているのだろうが、高橋個人の資質でもあったのだろう。

 それまでの少年マンガに登場していた人物の類型は、ごく限られたものだった。性格はよいがそそっかしいところのある主人公の少年、幼なじみで気のおけない少女、育ちのよいクラス委員長の少女、気弱な友人、怪物的なライバルといった図式は何百回と使われてきていて、とくに女の子は判で押したように同じであったといっていい。

 この作品の場合、主人公の諸星あたるは平凡な男子高校生であるが、平凡といっても、日々飽くことなくガールハントを繰り返す、食い意地が張っている、教師に反抗する時は戦略的で狡猾であるといった水準で、ヒロインであるラムに対しても自由に浮気をさせろと口に出して要求する無法者である。(実は意外に純朴な感情でラムを愛している、いまでいうツンデレのはしり)

 あたるひとりをとってもこの始末で、「狂人ひとりを出せば物語が動く」というのは基本的なドラマツルギーだが、この物語は異常者で(あふ)れている。単純に裏を返せば、いわゆる正常者などというものは存在せず、人間というのは全員へんなやつなのだという世界観である。もちろんひとりひとりは我こそは正常なりと思っている。このシニカルに裏返されているようで妙にリアルな世界観は、少なくともマンガの中ではそれまでに提示されたことのない種類のものだった。

 そして作者は、とくに同性である女性に対して、これも少年マンガではありえなかった尺度での描写を繰り広げる。

 ラムのあたるに対する愛情は、無私の献身に見えることもあるが、根拠不明で身勝手なファンタジーともとれる。作品中を見渡してもラムがあたるを愛する理由は希薄で、しいていえばラムの思いこみでしかない。

 ラムとあたるの仲を妨害する者のひとりであるランは、ことある(ごと)に「よめたで、ラム」という決めゼリフとともにラムの意図を完璧に誤解してみせる。表面上はいわゆるぶりっ子でありながら復讐心に燃えるランの性格造型はすさまじい。

 ほかに多数登場する女性キャラのいずれもが、打算的で、軽率で、本質的にはごく乱暴というか、ガサツである。ギャグマンガだからデフォルメされているとはいえ、これほど徹底して女性のいやらしい部分を描いたマンガはめずらしい。全体が絵柄のかわいさとギャグのセンスでまとめられているから嫌な後味になっていないのが奇跡のような技量だ。

 この世界観と女性観の特異さが高橋マンガを特徴づけ、魅力にもなっている。単にラムちゃんがビキニ姿だから人気が出たというわけではない。


 三つ目は、二つ目の延長なのだが、この作品世界が個々の登場人物の妄想の集積であること、にもかかわらずこの作品が奇妙に安定した空間を形作っていることである。

 あたるができるだけ多くの女性とつき合いたいが本当はラムを愛しているということ。ラムが心底あたるを愛していてあたるからの告白と誓いを待ち望んでいること。ランがラムへの復讐をしつこく念じながら、結局はレイと結ばれるのを夢見ていること。これらは、個々の素直な願望ではあるだろうが、いずれも相手の事情お構いなしの妄想なのである。これは他の登場人物の多くにも当てはまる。

 そして、この物語の登場人物はほぼ全員、他人の話を聞かない。表面はそこそこ明るく社交的に振る舞っているが、ひとりひとり見事なまでに自分の妄想の世界に住んでいる。

 これは二つ目に述べた作者の世界観を、人間関係として表すとこうなるというものである。こういう表現は地球上に初めて出現したわけではないが、マンガの中でここまで徹底されたのはおそらく初めてだろう。

 既成の表現の中では、登場人物たちは作者の分身であり、作者のさまざまな面を分担して喋っているだけの場合が多い。みんな同程度の知性と理解力をもっているから会話が滞りなく進行し、作品を構成していく。

「うる星」の世界では、人と人は誤解しあうのが基本なのである。それがギャグの発端になるからそれでいいのだが、純文学の筆致で陰惨な悪夢として描いたとしてもじつは無理なくはまる表現だったりする。いったい高橋の世界認識とはなんなのかとも思うが、作者の背景にはここでは言及しない。

 しかし、この異様な世界は奇妙な安定へ収束していく。無責任の権化のような男子生徒たちはまあまあ気のいい連中であり、薄情そのものに見えた女子生徒たちも、そこそこ良識派だったりする。あたるのライバルである面堂終太郎も、乱暴者の弁天も、結局はあたるとラムのカップルを応援している。はた目には二人の相思相愛は周知の事実であって、認め合っていないのは当人たちだけである。(どういうこだわりなのか、高橋はこの図式をずっと使い続けていて「めぞん一刻」も「らんま1/2」もすべて同じである)

 登場人物たちは、個々の妄想はそのままに、日々の乱痴気騒ぎはあるにせよ、基本的には平和に共存していく。


 これは、なんだったのだろう? 高橋は自分は要するにマンガ人間なのだと発言しており、「うる星やつら」はプロの仕事である。この作品と高橋の内的世界を照応することも野暮であると思われるが、連載中期に並行して制作した「めぞん一刻」とともに、二十代の彼女がなしえた表現の最良の部分であることは間違いない。

 わたしはこの作品が中盤から後期に向かうあたりの、ほどよく熟した作風が好きだった。作品の中で三宅しのぶが「この毎日がいつまでも続けばいいのに」と「なんとなく」願ったとおりである。また、全員どこか野蛮なところのあるこの作品の女性たちがわたしは好きだった。


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