7/31 断章その9「チェリー」
朝、新宿駅の構内でつかみ合いのケンカをしている女性ふたりがいた。
この手を離しなさいよ。おめえが先に離せ。なにがしたいのよ。うるせえ。
肩が触れたか足を踏んだか、その程度のことらしかった。
あの街は気分が荒れていて、苦手だ。
四月になっていた。ぼくはサクラダという男に会った。
「急に暖かくなって、桜が咲いたと思ったら、この雨で散るし……」
「今年は、お花見はちょっとね」
この男は同業者みたいなもので、お互いに仕事のやり取りをしている。その決算をするためだ。
コトミと桜を見ることはできなかった。
「三月はこんなもんだね……そっちに8万と……」
「これじゃ飲み代も出ませんね」
「何のためにやってるかわからないけどな、つなぎだけで」
「でも続けないと始まらないですから」
その通りだ。
いつか、サクラダに言われたことがある。
あなたが口をひらくとね、必ず何か意味のあることを言うんですよ。
そうか? 気がつかなかったけど……そうかも知れないな。
大げさすぎるとぼくは思うんですよね。
きついなあ……そこまで正面から言うか?
普通にね、何でもなくしていれば……そういうことも必要ですから。
何だかわからないけど、ありがたく聞いておくよ。
彼がほんとうにぼくを嫌っていたら、そこまで言わないだろうと思った。
普通に何でもなく、か。
注意深く抑えているつもりでもぼくは、何気ないひとことで自分のかかえている傷口みたいなものをひとに見せつけていることがあるのだろう。
あるいは、そこまで考えてしまうことがすでに間違っているのか。
それは自分の損になるからもっと気をつけなければいけない、そうサクラダは忠告してくれたのかもしれない。
それは、サクラダ自身の中にそれを感じ取る要素があるからだが、それこそ、そこまで口にしてはいけないということだ。
まったく、大人でいることは難しい。
「もうひとふんばりして、きれいなねえちゃんのいるとこへ行かないとな」
「最近、行ってるんですか」
「いや全然……実際、それどころじゃないよ」
「がんばりましょう!」
一日仕事をして、帰りに五反田に寄り、もう三時間仕事をした。
帰宅して、氷でいっぱいにしたグラスにバーボンを注ぐ。
ちゃんと食事をしなければいけないのだが、その気力はない。
午前二時にメールが入ってきて、それは近所のパブに勤めているしおりからだった。
こんな時間にごめんなさい。メールで起こしちゃうってことはないよね?
こんばんは。平気だけど、どうした? いまからメシ行くのか?
お店の前にね、猫が捨ててあったの。生まれたばっかりのが四匹。
ひどいことするヤツがいるな。拾いたいのか? 育てるのタイヘンだぞ。
わかってる。うちマンションで禁止だし。
しょうがないよ、早くお帰り。来週は行けるかもしれない。
ありがと、おやすみなさい。
小さな段ボールに入った、まだ眼も開いていない仔猫たちを覗き込むしおりの姿が浮かんだ。
おれが育ててやると言ってやりたいところだが、安請け合いをしてはいけない。
病院に連れていったり、いろいろ買い揃えたり、下手をすると人間の子ども並みに手間とおカネがかかる。
昔、同じことがあって、仔猫をポケットに入れてコトミのところに行ったのがぼくのほうだった。
彼女は笑みをうかべながら、少し困った顔をした。
ロマンチックだと思ってない? こういうのって、やさしくはないんだよ。
そんなふうに彼女は、本当のことをいつもぼくに教えてくれていたのだ。
その仔猫は、ほかにもらってくれる人がいた。
それはよかったけれど、何だかいつも彼女に借りを作っているような気がして、それを返すことはできなかったとぼくは思う。




