7/28 断章その8「月の光を手にとって」
最近はわらしべ長者の話みたいにうまく仕事がつながって、あまり休みがないのはまあ、ありがたいことだと思う。
五反田、渋谷、新宿、大塚……暗い路地を抜けて明るい部屋に入っていく。
徹夜仕事を続けている人たちの顔がこちらを向いて、少しは仕事のできる人間が来たということがわかり、安堵した表情になる。
もちろんお互いに仕事でやっているだけなのだが、なかなか嬉しい感じはする。
自分には意外と、人の役に立ちたいという気持ちがあるらしい。
仕事が目の前にある時は百パーセントの自分をそこに集中する。
そういう教育を若い時にされたのは、たぶん幸運だった。
午前二時をまわったころ、終夜営業をしている居酒屋のチェーン店に入った。
ビールとチキンの軽食を摂ったあと、ジンバックに替える。
つまみに注文したオムレツをときどき口に運びながらぼんやりする。
昼間の自分はけっこう緊張しているんだなと思った。
電話には二秒以内に出るし、その間も手は休めない。
いまは、五月までの仕事が決まって少しだけ安心している。
この話を聞いて、それくらい当然だと思う人もいれば、どうしてそこまで仕事をしなければいけないのかと驚く人もいるだろう。
十九で世の中にほうり出されて、ずっとこんな感じで生きているから自分以外のことはわからない。
はじめのほうで『世にもナサケナイ文章を書いているような気がして』とぼくは言った。
あのころはひどくまいっていて、仕事も手につかなければ眠ることもできない状態だった。
そんなことを言っていられる身分と年齢でもなくて、実際にはかけ持ちで仕事を受けていたりする。
悩み苦しむという段階はかなり以前に通り過ぎていて、彼女のいろいろを惜しんだり、自分を憐れんだりする気持ちはもうなくなったと思っていた。
けれど、本を読んだり映画を観ていて、さまざまな感情の表現を目にするたび、それはほんとうのことだったんだ、こういう意味だったんだと理解した気になる。
何でもない場面なのに気がつくと涙が流れていて、おれはどうしちゃったんだと思う。
そのうち、これではあまりにだらしなさすぎると思い、もうこんな自分にかまうのはやめようと考える。
基本的には仕事に集中し、それがない時にはコーヒーを淹れたり洗濯をしたり……。
なるべく自分の内面に関係のないTVを観たりして過ごす。時代劇なんかいい。
日々のおカネの出入りをノートにつけるのも有効だ。
つまり、夢みたいな恋はやはり夢だったから、こうやって毎日の生活に戻るしかなかったんだと自分に言い聞かせる。
あとは時間が経過して、気がついたら思い出さなくなっていたという状態になるのを待つ。
待っていることを忘れるまでだ。
ぼくは、そんなふうに時間をかけて彼女と別れていくという、なんだかよくわからないことをしていた。
普通に仕事をして、夜になればやわらかく暖かな場所に戻る人間も、この世にはいるのだろうか、そういう人間のほうが多いのだろうか……。
他人をうらやんでいるということはない。
平和そうな家庭を維持しているように見えても実は大変だったりするのだろう。
自分がそのような場所を求めているのかどうかも、実はわからない。
苦心してそういうものを求め、妻や子のいる家に自分をおいてみたら居場所がなかったという話も何度か聞いた。
ぼくはただ、ぼんやりと気楽そうに見せて、そういう自分をそっと許しておいてほしかったと思う。
実際には気の休まることのない、やさしくもない自分を、適当にほうっておいてくれれば。
「わたしは自分のためには生きていないよ」と彼女は言った。
けれどそれなら何のためにと、訊き返すことはできなかった。
ぼくたちはただ、一緒に過ごした時間があっただけだ。
やわらかく暖かな場所ではなく、夜中だけ現れる浅瀬のようなところで。
始発までもう少しだ。
うちに戻って二時間だけ仮眠しようと考えて、ぼくは店を出た。
まだ残っている月明かりに照らされた手のひらを見る。
月の光がひとかけら、ぼくの手のなかにある……それはただのレトリック、歌の文句だ。
そんなもののために生きることは、できないはずだった。




