7/21 断章その6「ハーモニクス」
断章その6「ハーモニクス」
ノエミは二十二歳の女の子だった。
当時のぼくはフリーという職業柄、あちこちに顔を出していた。
取引のある設計事務所で、事務手伝いのアルバイトをしている彼女をときどき見かけた。
(なんか目に力があるし、元気に喋る子だな)そんな印象が残っている。
打ち合わせで事務所に立ち寄った帰り、お使いで外出したノエミと同じ方向に歩いていて、その時から話をするようになった。
ぼくはヒマさえあれば女の子とつき合っている人間ではない。
それに、そのころはまだコトミと恋人らしい関係だった。
ただ、なぜかわからないけれど、ぼくは話しかけられやすく、話しているうちにいろいろなことを打ち明けられる。
ノエミから見れば、年齢のわりにうちとけて話してくれる親切なおじさんというところなんだろうなとぼくは思っていた。
彼女は九州の出身で、高校を出て上京してきた。
最初はある専門学校に入ったけれど、自分が思い描いていた世界とは違うと感じて、すぐに辞めた。
同郷の人のつてを頼って……九州のひとは結束が固いらしい……いまの事務所で働きはじめた。
「でも、これが自分のやりたいことってわけじゃないんですよね」
とくに珍しい話ではないと思った。そういうふうに言う若者は多い。
「親がよく許してくれたなあ……心配かけてるだろ」
「おかあさんは応援してくれてるんです。いつまでもってわけにはいかないけど」
ノエミも片親だった。ぼくに近づいてくる人間には多い。
そういう匂いがするのだろうか。
「なにか目標をもって頑張ってるんだな……彼氏とか、パートナーを見つけようってのはないの?」
「わたし、男の人には頼りたくないんです」即座にノエミは答えた。
「エッチとか全然、好きじゃないし」
「いや、おれにそう言われても困るけど」
彼女はまあまあ美しいといっていい外見だったから、そういう言葉はあまり似合わなかった。
(まあ、若いうちはいろいろあるよな、まだ考えに短絡している部分もあるだろうし……)
「わたし、歌い手になりたいんですよ」
ヴォーカリストとか歌手ではなく、歌い手と言ったところに感じが出ていた。
けれど、小さい子どもがアイドルになりたいと言うのとはわけが違うから、返答に困る。
「Nさんは音楽関係の仕事をしてたんでしょう?」
事務所の社長と雑談で話しているのを聞いていたらしい。
「バンドはやってたけど、セミプロまでいかなかったよ、あと、レコーディングエンジニアの真似ごとを少しやって……」
「いろいろ教えてもらえませんか?」
「おれが教えられることなんかたかが知れてるし、紹介できるような知り合いはいないけど」
「お願いします!」
ろくにぼくの言うことを聞かず、笑顔で手を振りながら、彼女は行ってしまった。
どうやら彼女は、少しでも音楽業界に近づきたいという野心をもってぼくに話しかけてきたらしい。何でもない女の子だと思っていたら、こんなこともある。
言ったとおりで、音楽に見切りをつけて全然違う仕事をしているくらいだから、ぼくにそんな力はないのだが。
(よくある思い込みで、そんなに実力はないだろうから……諦めさせて田舎に帰すのも親切かな)
その時はその程度に、ぼくは考えていた。
軽く見ているようで悪いとは思ったが、ノエミがそれほど本気ではなく、あの話がその場限りのものだったということもあるかとぼくは判断していた。
そうではなかった。用事で事務所に寄ると彼女が(この間の話、いつにします?)というサインを出してくるので、ぼくは考えなければいけないなと思った。
ぼくが彼女に手を出していると見られては、仕事がしづらくなってしまう。
「おれがそんなに親切な人間とは限らないよ……あの世界は業界ゴロってのが多くて、話を聞くふりをして女を食っちゃうなんて当たり前なんだから」
仕方がないので、携帯を教えて食事に連れてきた。何をしているのかと思う。
「Nさんはそうじゃないでしょう? 正直に話してくれるし」
そのとおりだから困る。
「そういうのには気をつけろってこと。まともな仕事ができる人間は音楽を作るのに手一杯で、いちいち女を抱いてるヒマなんてないんだよ」
「そうなんだ!」
ノエミは大きく口をあけて、よく通る声で笑った。
それを見ていて、この子は本当に歌がうまいかもしれないなと思った。
性格が真っ直ぐで強いし、腹から声が出ている。
(とにかく一度、歌を聴いてみようか……)
彼女は自作の曲を歌うと言った。
「カラオケなんかじゃ駄目だな、貸しスタジオを取ってやるよ……楽譜とかあるのか? おれのギターくらいしかないが」
「伴奏? 自分でできるよ、ギターも弾くけど鍵盤のほうがいいかな」
「じゃ、ピアノのある部屋でいいな、わかった」
学生時代に練習で使っていたスタジオを予約することにした。その次の土曜日の午後だった。
ぼくは彼女に、紹介できるような知り合いはいないと言った。
けれど、昔のバンド仲間でいまも音楽を仕事にしている人間が二・三人はいて、そのうち一人「E」は名前を言えばわかる程度の作曲家だ。橋渡しくらいはできる。
(連れていったはいいが、ど下手じゃ話にならないからな……おれだってまだ聴く耳だけはある、片方でも)
昔、バカみたいに大きな音でプレイしていたから、アンプ側の右耳はほとんど聞こえないのだ。
ぼくは十何年かぶりに、以前は通い慣れていた地下のスタジオへの階段を下りていった。
受付の前のソファにノエミは座っていた。地味めのブルゾンにジーンズ姿だ。
「すぐわかったか?」
「もっと大きくて立派な建物かと思ったよ」
「レコーディングスタジオじゃないからな。そういうとこは時間で何万もする。ここは練習用だから」
「緊張してソンしちゃった」
「そういうふうには見えないな、ノエミは」
ぼくたちはピアノや声楽を練習するための小さな部屋にふたりで入った。
「マイクのセッティングしようか?」
「いらない」
ノエミはアップライトピアノの蓋をあけて、手慣らしを始めた。
さすがに笑顔が消えて、頬の辺りがこわばって見える。
しばらくしてから、顔をあげてぼくを見て、言った。
「ちょっと調子をだすのに、ひとの曲を歌ってもいい?」
「もちろん」
よしという感じで背筋を伸ばしてから、またピアノに取りつき、ごんとひとつ和音を押して、ノエミは歌いはじめた。
その当時、流行り出していた女性ソングライターのヒット曲。
最初の歌い出しでほとんどわかった。
音程が正確に取れていて、なにより歌声が強く、深い。
よくいる、カラオケボックスのマイクに慣れていて口先だけで上手そうに歌う子とはわけが違う。正直、その程度かもしれないと思っていたのだ。
(こりゃあ、本物じゃないか……どうする?)
「自分で作った曲もなかなか面白いけど、歌一本で行ったほうがいいかもしれないな」
喫茶店で向かい合って話す。
「わたしは好きなんだけどなあ、いいと思わなかった?」
「そりゃ、自分で駄目だと思いながら作らないだろ」
笑いながら言って、ぼくは考えていた。作曲家のEの名前を出したら、この子はひどく舞い上がってしまうのではないだろうか。
(ひとりの人間を潰しちゃうかどうかの瀬戸際かもな……慎重に話さなくちゃ)
「おれの知り合いに頼むより、普通にオーディションか何かに出てもいけるんじゃないのか?」
「オーディションは二回、落ちたんだ……わたし、ああいうの好きじゃないし、バンドとかでさ、とにかく人の前に出たいんだ、ライブがやりたい」
「バンドのライブって」ぼくはまた苦笑いをする。
「あれはほとんど儲からないんだよ……会社がバックについていて、プロモーションの一環としてやるぶんにはいいけど。いま、ライブだけで食える奴って、いないかもしれない」
「ふーん」ノエミは少し不満そうだった。
すぐに気分が変わったように、嬉しそうな声を出した。
「でも今日は気分よかったよ、なんかプロへの第一歩を踏み出したって感じ」
「おれなんかが聴いたくらいじゃ全然だろ」
「そんなことないよ、Nさんみたいにちゃんと話してくれて、歌を聴いてくれた人って初めて」
その言葉を聞いて、これまでにも何人かの人間にこうやって相談してみたんだなと思った。
最初にぼくが言ったように、適当に騙されて男と寝てしまったり、そんな経験もあるかもしれない。
だとしてもぼくには何の関係もないことだが、彼女の歌の力に圧倒されたばかりだったから、もしそうならつまらない話だなと思った。
Eの名前は出さないでおくことにした。
「とにかくデモテープを作るんだね。おれが手伝ってあげてもいいし、自作の曲も、少し手を入れればもっとよくなるよ」
「ありがとう!」
そこまでは上々の雰囲気で、ノエミは満面の笑みを浮かべていた。
それから先のことは……ぼくたちがデモテープを作ることも、彼女がデビューすることもなかった。
詳しくは聞かなかったけれど、また業界の人間とコンタクトして食い物にされかけ、そこから逃げてきたとかそういう話があったらしい。
少しがっかりしたが、ぼくはあの世界では無力といっていいので、仕方ないと思うしかない。
ちゃんとした制作者に見出されるのは、かなり難しいことなのだ。
三か月か四か月ほど経ったころ「郷里に帰ることにした」と彼女が言ってきた。母親が病気になったのをきっかけにして。
「また来るかもしれない、その時はよろしくね」
(諦めさせるのが親切……って、そういうことじゃなかったな)
運というものか、ボタンのかけ違いか、それは誰にでもあることなのだけれど。
「おれは何もできなかったけど、歌うのはどこだって歌えるぞ、その気になればさ」
彼女は彼女なりに真面目だったとぼくは思う。
女の人たちのそういう真剣さは、決して笑うことができない。
最初に彼女が歌声を響かせた時、たいていの音楽には無感動になっていた自分が動揺していることに気づいて、ただ驚いていた。
彼女が作った曲を聴きながら、ぼくは頭の中でギターのアレンジをあてていて、それにも十年くらい忘れていた楽しさがあった。
そういうものが続いていたら……ひょっとしてぼくの人生まで少しは変えられていたかもしれない。
まだそんな話があったの?とコトミに怒られてしまう。
未練ではないが、ぜひ叱りに来てほしいものだと思う。
題名と内容の一部を改変しています




