7/12「ビタミンB12」9年前の話
「ビタミンB12」9年前の話
三月三日、金曜日の帰宅時だったので覚えているのだが、浅草の街灯を見づらいなと感じた。もともと近視や老眼の上に乱視も重なっているけれど、仕事用に眼鏡でシビアに矯正しているはずだ。疲れで調子が悪いのかなと思った。土日の休みのうちに回復すればいいなと期待していたが、どんどん悪くなっていく。
左右の目を交互に閉じてみると、視界がはっきり上下にずれている。通常の乱視はほとんど横方向のずれだが、上下に大きくずれてしまうと物が二つに見え、焦点の合わせようがない。仕事にならないのはもちろん、街中を歩くのも不便で危険だ。けっこう深刻な事態である。
六日、月曜の朝になってもよくなっていないので、仕事先に午前中休みにしてくださいと連絡し、地元の眼科に行った。
ひととおり検査を受けた。問診でいろいろ訊かれ、通常の視力検査、乱視の検査を行い、視界狭窄がないか調べ、眼底の検査もやった。
やはりおおごとなんだな、注射一本というわけにはいかないなと思った。
医師の言葉は、脳神経内科へ行ってくださいというものだった。たしかにこういう場合は血腫・腫瘍・動脈瘤などの脳疾患を疑うのがセオリーで、そちらに異常がないといわれなければ眼科には何もできないのだった。
会社に一日休みにしてくださいと電話をし、紹介されたクリニックに行く。ますます目が見えず足元が定まらない状態で移動するのは大変だったが、普通はタクシーを使うケースだったなとあとで思った。
たどりついたクリニックは、すぐ隣の病院の分室か何からしい。
おとなしく待つしかない。よくならなければ仕事は引退するしかないなとかそんなことを考える。引退といっても悠々自適に隠居できる状態ではないので、まさに死ぬ準備にかからなければならない。すぐに自殺するということではないが、生活を縮小し、役所にかけあい、ローンなど借金をどうにかし、細々と生きる手だてが必要になる。そんなことを、特に暗い気分でもなく淡々と考える。
二時間ほど待ったか、名前を呼ばれて七号室に入る。診察してくれるのはUさんという珍しい名字の女医、自分よりは若く三十代くらいだろうか。名前はあとで確認したもので、ついでにググったらなかなか優秀な脳内科医さんのようだった。
彼女は紹介状に目を通したあと、簡単な問診をして、ペンライトというのか、それを使って目の動きを見た。
「わかんねーよ」先生は下町風のガラッパチだった。「とにかくMRIだな、話はそれからよ」そう言って自分で本院に電話をかけ、MRIの予約のすき間に入れてくれと頼んだ。「あと血液検査ね、糖尿とか原因の場合あるから、終わったらまたこっち来て」
こういう医師に不信感を持ち、もっと丁寧に診てもらいたいという患者もいるだろうけれど自分の場合は、信頼できる人なのかなと思った。自信がないとこうラフには振る舞えないし、気負ってそうしている風でもない。
血圧を測り、血を採られ、本院へ行った。放射線科はさすがにものものしく、えらいことになったと思い、これって保険内とはいえいくら取られるんだと思った。検査だけでもそういう心配をしているくらいで、あなたは難病で特殊な手術が必要だといわれても治療費などないのだ。
ロビーで小一時間ほど待ち、呼ばれて部屋に入る。財布、鍵やベルトなど金属類を預けるだけで、特に着替えたりということはなかった。MRIに入るのは初めて、ピーピーガーガー轟音がするものだと説明を受け、TVで受ける印象とは違った。始まってみるとハードロックや現代音楽が平気な自分にはBGMみたいなもので、マンガでブッダがマーラーに見せられる幻覚を思い出したくらいだ。
クリニックに戻って少し待つ間に、もう結果は出て先生のところに回っている。呼ばれた。
「なんもないよ」そう言って先生はMRIの画像を見せてくれた。「血腫も脳梗塞も、何にもない、何かできるなら動脈のここんとこだけど、きれいなもん」
私は鮮明に映し出された自分の脳と流れる動脈を見て、たしかに意外ときれいなもんだと思った。
「血液もね、少しコレステロールが高いかな、それ以外は何にもなし」
「でもいまも先生の顔が二重に見えるんですが」
「様子みるしかないなあ…眼科で何か治療は」
「特になにも、検査だけで」
「じゃあビタミンB12を出しとくから、とりあえずそれ飲んでなさい、二週間分ね」
ビタミン剤で治るのかよと思ったが、先生はそれで治るとは言っていない。気休め程度なのかもしれない。原因がわからない病気の患者は不定愁訴を疑われたりするんだよなとも思った。
会計をして病院を出た。眼科の検査、MRI、クリニックの診療費で合わせて14,000円ほどである。脳と内臓に大きな疾患はないということだけはわかった。まだ足元は二重に見える。
それでも歩いて帰り、しばらく外出もしづらいなと考え、回転寿司に入って少しだけ食べた。少なくとも、ドラマのように脳腫瘍か何かと診断されていきなり切られるということはなかった。
とりあえず眼帯を買おうと思った。静養生活に入るわけにはいかないので、片目でも視界さえ安定すれば仕事はできる。
一か月後の報告。
ビタミンB12が効いたのか、もともと一過性の症状で自然治癒したのか、三日くらいで視野は戻りはじめ、一週間後には元よりよく見えるようになったかというほどに回復した。
(末端神経が消耗していたとかかな? 素人考えはよくないか)
経済的な問題をはじめとして自分が抱えている状況は常にたよりないが、目の不調というのはそれだけでほぼすべてが壊滅状態になる危機だった。治ってくれてありがたいと思う。
脳や身体に器官として大きな異常がないらしいのがわかったのはよかった。それでも、どこも傷んでいないのにこうやって機能に障害が出るということはあり得るわけで、体調に対する意識、いつか死ななければならないということへの意識に少し変化があった。そこまで大げさなものでもないが、死ぬまでは生きると考えるしかない中で、より丁寧になってもいいんだろうなと。
※診療内容については個人差もあるので参考にはならないと思います
「鳩熊」の後半(全16話になりました)が大詰めなので、しばらく「断章」の続きはお待ちください




