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第17話「踏み込む」

 ナースステーションの空気は、どこか浮ついていた。


 記録の音、足音、誰かの小さな笑い声。


 その中に、紛れるように別の話題が混じる。



「ねえ、あの先生知ってる?」


「誰?」


「ほら、この前までミネル担当してた……ヘンリー先生」



 サヤの手が、一瞬だけ止まる。


 視線は落としたまま。



「昔すごかったらしいよ」


「え、そうなの?」


「なんか天才とか言われてたって」



 少しだけ間。


 声のトーンが変わる。



「でもさ、医療ミスで現場外されたって聞いた」


「え……」


「それで今ああなんじゃない?」



 そのとき。



「それ、違うでしょ」



 空気が一瞬で変わる。


 ラーナだった。


 手は止めずに、淡々と続ける。



「そんなんで現場外された人が」



 一拍。



「あんな判断、あの場面で取ってくるわけない」



 誰もすぐには返せない。


 ラーナは視線も上げない。


 ただ、事実を並べるみたいに言う。



「見てたでしょ」


「ミネルの時」



 少しだけ間。



「あれ、迷いなかったよ」



 静か。


 でも強い。



「少なくとも、“ミスした人の動き”じゃない」



 それだけ言って、何事もなかったみたいに作業に戻る。


 空気が、少しだけ引き締まる。


 サヤはゆっくりと息を吐く。



(……医療ミス)



 その言葉だけが、頭の中に残る。



(……私も、違う気がする)



 手は動いている。


 仕事も進んでいる。


 でもどこかだけ、少しだけ引っかかったまま。





 夕方。


 業務を終えたサヤは、迷いなく病院を出た。





 コンコン。



「……サヤです」



 少しの間。



「……入れ」



 扉を開ける。


 静かな部屋。


 ロッキングチェアが、ゆっくりと揺れている。


 ソファ。


 そしてテーブルの上には、いつも通りココアが二つ。


 片方は少しだけ減っている。


 もう片方は、まだ温かい。



「……来たか」



 ヘンリーは視線だけをこちらに向ける。



「……はい」



 自然にソファへ座る。


 いつもと同じ位置。


 ロッキングチェアに近い側。


 少しだけ、間。



「……今日、病院で」



 サヤは言葉を選ぶように口を開く。



「ヘンリー先生の話、聞きました」



 ロッキングチェアの音が、わずかに深くなる。



「医療ミスで現場を離れたって……」



 少し間を空けて。



「……でも」


「……違う気がするんです」



 ヘンリーの視線が、わずかに上がる。



「……そうか」



 それだけ言って、少しだけ間を置く。


 ロッキングチェアが、静かに軋む。



「判断を間違えたことはある」



 サヤの視線が上がる。



「助けられなかった」



 それだけ。


 それ以上は、何も続かない。


 サヤは少しだけ息を吸う。



(……それでも)


「もっとちゃんと、知りたいです」


「ちゃんと、見てから確かめたいんです」



 言葉に引っ張られるみたいに、体が動く。


 気づけば、立ち上がっていた。


 一歩、近づく。



「もっと」


「……グレーテルさんのこと」



 距離が近い。


 ロッキングチェアの揺れが、わずかに止まる。


 もう一歩。


 あと少しで、足が触れそうなくらい。



「……分かってないな」



 その瞬間。


 手首を掴まれ、そのまま引き寄せられる。


 気づいたときには、距離が近すぎた。


 ほんの一瞬。


 ヘンリーに覆いかぶさるみたいな距離になる。


 逃げ場がない。



「っ……」



 言葉が出ない。


 呼吸の仕方が分からなくなる。


 近い。



(……え)



 そこで初めて気づく。



(近い……!)



 そのとき、ふと、いつもの匂いがした。


 石鹸の匂いと、少しだけ、木の匂い。



 心臓が、遅れて強く鳴る。


 ヘンリーの視線が、わずかに下がる。



「……顔、赤いぞ」



 視線が、ぶつかる。



「……っ、ちが……」



 否定しようとして、言葉が続かない。


 その距離のまま、少しだけ間が落ちる。


 サヤは動けない。


 逃げるタイミングも、分からない。


 ヘンリーの指が、わずかに動く。


 手首を掴んでいた力が、ゆっくり緩む。



「……もういい」



 一拍。



「困るだろ」



 静かな声。


 解放される。


 サヤは一歩、後ろに下がる。


 距離が、急に戻る。



(……なに、今の)



 心臓だけが、戻らない。


 ロッキングチェアが、また静かに揺れ始める。


 ココアの湯気が、わずかに揺れる。


 サヤはその場で少しだけ息を整える。



(……戻れないな)



 なぜか、そう思った。


 でもその感覚を、不安とは思わなかった。


 不安じゃなかった。


 むしろ、少しだけ――あたたかかった。

甘くなってまいりました。

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