変化
貴族社会の儀礼などは、様々な時代、国のものを参考にしつつの創作です。何か違うよ~というところがあるかもですがご容赦くださいませ。
初めて貴人に向けて手紙を書いたメリッサは、失礼がなかっただろうかという緊張ととにかくも書きあげられたという達成感を得て、まだ胸がどきどきしていた。イズリーシュからもらった本を読んでみる。少しわかりづらかった属国や提携国との関係性が、図入りで詳しく解説され、つかみやすくなっている本だった。
そもそもこういった本は買うものが限られるので出版数も少なく、本自体の値段も平民には手が届かないほどには高い。メリッサはありがたく思いながら本を読み進める。
以前は少し難しかった言い回しや言葉なども、最近の勉強の成果が出てきて理解が進むようになってきていた。学問は、理解が進めば面白いものだ。メリッサは今、その面白さがわかる時期に来ていた。
すっかり寝る前の仕度を終えて長椅子でくつろぎながら本を読んでいたメリッサの部屋のドアが、躊躇いがちに叩かれる。このような時間にノックをするような人物が訪ねてきたことはない。不審に思っていると、今夜の当番の侍女であるライヤがそれに応えた。
「どなた様でいらっしゃいますか?」
「‥‥深更に申し訳ない。イズリーシュだ」
えっ、とライヤとメリッサは顔を見合わせた。
もう十時を回っている。メリッサはすっかり寝仕度を終えてしまっていて、人に会える恰好ではない。どうすべきかとおろおろしていると、ライヤがメリッサに目で合図をした。
「皇太子殿下、もうメリッサ様は寝仕度を済ませておいでです。‥お急ぎの用でしたら申し訳ございませんが‥お着替えが済むまでお待ちいただけますか?」
「無論だ」
先触れもなく、こんな時間にイズリーシュがやってくることなどなかった。メリッサは慌てて寝間着を脱いで、簡素なドレスに着替えた。ライヤも素早く薄化粧を施し髪を結った。
それでも十分ほどはかかったのだが、ドアの向こうでは物音ひとつしない。
ライヤが「殿下、メリッサ様のお仕度が整いました」と声をかけると、遠慮がちに扉がゆっくりと開いた。
そこには少し疲れた顔のイズリーシュが侍従とともに立っていた。
長椅子の横に立ってお辞儀をするメリッサの近くに、イズリーシュはすたすたと近づいた。そしてメリッサの手を取って額に当てる挨拶をして、椅子にかけるように促した。
「こんな深更に申し訳ない。‥メリッサ、手紙を、ありがとう」
「え、いえ‥」
メリッサは戸惑った。あんな拙い手紙のお礼にわざわざここに見えたのだろうか?あと十日ほどは忙しいと言っていたような気がするが‥。
イズリーシュは美しい紫色の目で、ひたとメリッサを見つめた。
「メリッサ、本当にありがとう。あの手紙は‥‥嬉しかった。私のことをああいうふうに、理解しようとしてくれて‥」
メリッサは混乱しながらも自分が書いた内容を思い返してみた。そんなに感謝されるようなことは書いていない、筈だ。どちらかといえば自分の謝罪に終始していた気がするのだが。
「メリッサ」
「は、はい」
イズリーシュは席を立ってメリッサの前に跪いた。メリッサの胸の鼓動が早くなる。また殿下を跪かせてしまった‥!
「あの、殿下、お立ち下さい、そんな」
慌てたメリッサは自分も椅子から立ち上がり、跪いてメリッサを見上げるイズリーシュを立たせるためにどう促せばいいのかわからず、腕をうろうろと泳がせた。
それを見たイズリーシュはすっと立ち上がった。
そして、メリッサの身体をぎゅっと抱きしめた。
「え?」
驚きのあまり間抜けな声が出る。泳いでいた腕はイズリーシュのたくましい腕に抱え込まれメリッサの身体にくっついてしまった。
同じ年頃の他人に抱きしめられたことなどなかったメリッサは、イズリーシュの腕の逞しさや胸の厚さ、そしていい匂いがすることなどを感じてどうすればいいかわからず固まってしまった。
「メリッサ」
「は、はい」
「嫌ですか?私にこうされるのは」
「は、あの、いえ、えっと‥」
特別嫌だ、とは思わなかった。ただどうしたらいいのかわからないだけだ。そして、なぜイズリーシュがこのようなことをするのかもわからない。
「いや、ではない、ですけど、あの、」
「メリッサ」
「え、はい?」
長椅子の横で抱きしめあっているかたちの二人だが、勿論同じ部屋にはイズリーシュの侍従もいるしライヤも控えている。視界の端にそれを認めるとメリッサの顔は羞恥で真っ赤に染まった。
「あの、もう離し、て」
「‥‥すみません」
イズリーシュはゆっくりとメリッサから身体を離した。メリッサは顔を赤くしたままどきどきするあまりに、イズリーシュの顔が見られない。
「突然、すみませんでした」
「あ、え、あの、いえ」
応答もままならないメリッサの様子を見たイズリーシュは、ふと微笑んだ。だが、メリッサはその顔を見てはいなかった。
「あなたに、どうしようもないほど嫌われていないようで、よかった」
そう言ったイズリーシュの言葉を聞いて、メリッサの胸はずきりと痛んだ。‥自分はなんと自分勝手に、この人を傷つけたのだろう。確かにこの人は私から自由と人生を奪ったかもしれないが、それでもできうる限りの手段を使って私の身を案じ、いいようにしてくれていたのに。
「‥申し訳、ございませんでした‥」
赤くなっていたことが嘘のように血の気が引いた顔で、メリッサは頭を下げた。他にやりようを知らなかった。
言われたイズリーシュは、こちらもあわててメリッサの肩を掴んで顔を上げるように促した。
「いえ、そんなことはしなくていいんです。気に障ったならすみません。‥ただ、嬉しかったことを伝えたくて」
そう言うとメリッサの顔を覗き込んで、柔らかく笑った。含みのない笑顔に、またメリッサはいたたまれない気持ちになった。
「‥お忙しい中に、わざわざお越しいただきありがとうございました」
せめて精一杯の気持ちで礼を述べると、今度はイズリーシュの方が少し顔を赤らめた。
「ああ、いえ、その、すみません、先触れも出さず、こんな時間にご令嬢の部屋を訪うなんて‥」
そう、呟くように言ったかと思うと、今度はしっかりと顔を上げてメリッサの顔を正面から見つめた。大きな手は、まだメリッサの肩にそっと置かれたままだった。
「メリッサ」
「は、はい」
イズリーシュは真面目な顔で言った。
「私は、もっとあなたと知り合いたいと思う。どうにかして時間を作るから‥あなたも私と語らい、わかりあうことを、前向きに考えてはくれないだろうか」
その真っ直ぐな美しい紫の瞳に、メリッサは否とはいえずただこくりと頷いた。
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