心の揺らぎ
「メリッサ様」
「‥‥騒いでしまって、ごめんなさい‥」
「いいんですよ、お茶をお淹れしましょうか」
そう言ってリッチェはそっとメリッサの背中を叩いてやり、そこから離れようとした。そのリッチェの腕を、はしっとメリッサが掴んだ。驚いたリッチェがメリッサの顔を見やると、メリッサは黙って下を向いた。だがリッチェの腕は掴んだままだ。
「‥‥あの、リッチェさん」
「はい」
メリッサは少しもじもじしながら、言おうか言うまいか悩む様子を見せたが、ようやく口を開いた。
「あの、リッチェさんは‥婚約とかされていらっしゃるんですか‥?」
「いいえ、私は結婚する予定はございません」
二十五歳になるこの年まで、リッチェは恋愛というものをしたことがない。実家は兄が継ぎ、弟もその補佐として務めるようになっている。伯爵家と釣り合う家柄の令息と結婚できるだけの持参金も、コンダール伯爵家が捻出することは難しかった。自分は皇宮である程度の年齢まで務めたら、領地に引っ込んで静かに暮らそう、というようにリッチェは将来を考えていた。実家の両親も、リッチェが不利になるような結婚を望まないでくれていた。
幸い、帝国高等学院を首席で卒業したリッチェは皇宮で上級侍女として働くことができた。
しかし、なぜ、メリッサはリッチェの婚約が気になるのだろうか。
リッチェはメリッサに掴まれた腕をそのままにして、ゆっくりとメリッサの横に跪いた。
「何をお尋ねになりたいのですか?メリッサ様」
低くなったリッチェの顔に、俯いていた自分の顔を覗き込まれる形になったメリッサは顔を少し赤らめた。
そして、消え入るような声で呟いた。
「‥‥じゃあ、ずっと、私と一緒に、いてくれますか‥?」
メリッサはそう言うと、リッチェの腕を掴んでいた手にきゅっと力を込めた。そして、真っ赤に染まった顔で、瞳を潤ませリッチェをひたと見つめている。
「メリッサ様」
リッチェは優しく、メリッサの膝の上に手を重ねた。ぴくり、とメリッサが身体を強ばらせる。リッチェはとんとんと膝を優しく叩いて宥めるように言った。
「リッチェは、いつまでもメリッサ様にお仕え申し上げます。‥皇太子殿下と、少しでも幸せな生活が送れますよう尽力致す所存です。どうかご安心くださいませ」
メリッサが心の底で望んだ言葉ではないことは承知の上でそう告げる。メリッサは一瞬はっとした顔でリッチェを見て、そして俯いた。
「‥‥ありがとう、ございます‥」
リッチェは少し胸が痛むのを感じながらも、お茶を淹れるために立ち上がった。ティーワゴンに向かいながら、努めて明るく声をかけた。
「メリッサ様、お茶をお淹れしますね。メリッサ様のお好きなクッキーもありますから、これで一息入れてくださいませ」
「‥はい」
その後、十日ほどイズリーシュはメリッサの前に姿を現さなかった。このところ、どんなに忙しくても二日に一度はメリッサのところを訪れていたのだ。十日ほどが過ぎた時に初めて、メリッサはイズリーシュが訪ねてこないことに気がついた。
(‥ようやく、平民の女なんかの機嫌を取ることがおかしいって、気づいたんだ、きっと)
もともと、メリッサは貴族にいい感情は持っていなかった。皇宮で働く人々はほとんどがいい人達であったが、皇宮を利用する人々にはたいてい嫌な気持ちにさせられていたからだ。
そもそも部屋をキレイに使おうなどと思ってもいないし、メイドや下働きの者たちのことを同じ人だとは考えていない。だから普通なら言わないような勝手や無理を平気で言ってくる。メリッサ自身も、仕事の時間は終わっているのにそういった貴族の無理や我儘のせいで残業になることは少なくなかった。
勤続年数が長ければ長いほど、みな諦観しており「仕方ないよ、貴族様だから」と言ってその無理を通すために身を削って働くのだ。
だからメリッサは、東宮で暮らすようになってからも自分でできることはできうる限り自分でするようにしていた。無論、「皇太子殿下の婚約者ともなればそれでは済まないことも出てきますよ」と、時折釘は刺されていたが。
だが、メリッサは皇太子の子どもを産むことからは逃げられなくとも、自分がまさかに正妃に据えられるとは思っていなかった。なんの後ろ盾もない、本当にまっさらの平民なのだ。
ただ、イズリーシュの子どもを産めるというだけ。
子どもを儲けるための行為も考えればおそろしいが、それより産んだ後のことを考える方が恐ろしい。メリッサは四人産める、とイズリーシュは言っていた。つまり四人産むまでは解放してもらえない可能性が高いのだ。
‥‥いや、皇太子の子どもを産んだ女性を解放などするまい。誘拐でもされれば、子どものためにも帝国は知らぬふりはできないだろう。結局、メリッサは一生この煌びやかな皇宮に閉じ込められるのに違いない。
やりたくもない、社交や皇宮生活を強いられながら。
‥‥一生。
一生、と考える度に背中をゾクゾクとした悪寒が走る。もう、生まれた町で買い物をしたり、気軽に出かけて散歩をしたりすることも叶わないのだろう。
家族に会う事さえも。
家族だってこんな窮屈な皇宮に呼ばれるのは辛いだろう。身の置き所がない、と働き始めでさえ思ったものだ。掃除婦の控え室へ戻るまでなかなか気の抜けない日々だった。
メリッサは張り出し窓の傍に据えてある、大きな半円形の長椅子に座って窓枠に腕を持たせかけ、その上に頭を置いてぼんやりと庭園を眺めていた。ここからは東宮の美しい庭園がよく見える。今は庭師たちが忙しそうに手入れをしているだけで、貴族が散策したりはしていないようだ。
メリッサはここに来てから一度だけ、庭園を歩いたことがあるが、その時の庭師たちの緊張を見てしまってからは二度と足を運ぶ気になれなかった。庭師たちの気持ちがよくわかったからだ。
今、メリッサが心を少しでも許して話せるのはリッチェしかいない。無論、東宮付きの侍女たちはみな親身になってメリッサに尽くしてくれていたが、やはり最初に会ったリッチェには特別な親しみを抱いていた。
だが、リッチェの態度はあくまでも「婚約候補」としてメリッサを丁重に扱い、尊重してくれるものに留まっている。リッチェの立場を考えれば当たり前ではあるし、その事を頭では理解しているのだが、やはりメリッサは寂しかった。
その一方で、全く自分を訪れなくなったイズリーシュのことも気にはなっていた。
イズリーシュは皇太子というやんごとなき身分でありながら、メリッサに横柄な態度を取ったことは一度もない。
メリッサに断るという選択肢を与えられないことを、心から申し訳ないと思っている様子がいつでも見て取れた。
メリッサがどんな態度をとっても、イズリーシュは怒ったことも不機嫌になったこともない。
‥‥考えてみれば、好きでもない相手と結婚しなくてはならないのはイズリーシュもメリッサと同じなのだ。
ただ、イズリーシュはそれを自分の義務であり、責任であると受け止めているだけだ。
(皇太子殿下、だから、そう考えるのが‥普通なのかもしれないけど)
そう思おうとしながらも、メリッサはイズリーシュに対して何とも言えない気持ちが湧いてくるのを止めることができなかった。
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