暴発
さらに二か月が経過した。
メリッサはゆっくりと皇太子妃教育を受け入れていった。もともと頭の回転はよく物覚えもよかったので、適切な教師につけばメリッサの成長は早かった。この嬉しい誤算にイズリーシュもシュウェッテ卿も喜んだ。
「このまま順調にいけば、半年後にはそこまで心配のない程度まで行けそうですね」
「そうだな。それから正式に私の婚約者として披露しよう」
そう少し弾んだ調子で言うイズリーシュを見て、シュウェッテ卿は気になっていたことを聞く機会だ、と思いイズリーシュに尋ねた。
「それで殿下、‥メリッサ様のお気持ちの方は大丈夫そうですか?」
そう問われたイズリーシュは黙り込んだ。あ、これは上手く行ってないな、と気づいたシュウェッテ卿はそれ以上問いかけるのをやめた。
イズリーシュは今になって、最初に馬鹿正直に結婚理由を話してしまったことを猛烈に後悔していた。なぜ、子どもが欲しいから確実に授かれるメリッサと結婚したい、などと言ってしまったのだろうか。
いや事実であったから仕方ないのだが。
メリッサは、以前よりは多少打ち解けてイズリーシュと話をしてくれるようにはなっていた。だがこのところ、こちらに向ける視線が、いつも恐れているような諦観しているような、そういうものに変わってきている。
何よりイズリーシュが話しに行こうとしても決して近い距離で座ろうとしない。必ず東宮の侍女が、メリッサの隣に同席する。高い確率でリッチェがいる。
リッチェがいる時には必ずメリッサはリッチェの横にぴったりとくっついて離れない。リッチェの腕に縋りついたままだ。
まさか侍女が障害になろうとは思ってもいなかった。
しかし考えてみれば当然のことだ。メリッサが一番つらい時に自分は全くそれに気づかず、その事について気配りもできていなかったのだから。連名の嘆願書まで書いてメリッサのために動いた侍女たちに勝てるとは思えない。
それでもイズリーシュは根気よくメリッサのもとに通った。普通に何気ない会話をする分には、メリッサも答えてくれる。会話も少しずつ洗練されてきているのを感じてメリッサの成長が見てとれた。
だが、婚約や結婚の話になると途端にメリッサの口が重くなる。俯いて、ほとんどが無反応になってしまうのだ。
「婚約披露式は、十か月か一年後くらいに考えているんだ」
「‥‥」
「メリッサが頑張ってくれているから、その頃なら私が同伴すればきっとパーティにも問題なく参加できるよ」
「‥‥」
「‥婚約披露ではどんなドレスが着たいかな?メリッサには浅黄色も似合うんじゃないかと思うんだけど」
「なんでもいいです」
メリッサは俯いたままそう答えただけだった。
イズリーシュは、ため息をつきそうになるのをこらえて言葉を重ねた。
「メリッサ、もう少し私にも心を開いてくれないかな‥?私たちは夫婦になるのだし」
メリッサは顔を振り上げた。顔色は青く、唇を噛みしめている。目には涙が滲んでいた。
「‥‥これ以上を、望むんですか?私に?」
噛みしめるような言葉の一つ一つは、静かである。だが、その一つ一つが、イズリーシュの胸に突き刺さった。それほど、イズリーシュを見つめるメリッサの目は鋭く哀しかった。
「‥どうせ、私に断る選択肢なんてないですよね?‥どうせ、どうせ私がどんなに嫌だと言っても、私を好きでもない殿下と、夫婦になって子どもを産まなければならないんですよね?」
「‥‥」
メリッサの目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。横でリッチェがそっとその背を撫でたが、それでもメリッサの言葉は止まらなかった。
「そんな、そんないきさつで子どもを産んで‥私はその子どもを愛せるかわからない!でも産まなきゃいけないんですよね?!帝国のために!お世継ぎを作るために!」
「‥メリッサ‥」
「どうでもいいんです!婚約披露も結婚式も!そんなのなくたっていいです!夫婦じゃなくていいです!私が正妃になんてなれるわけもないんですし、さっさと子どもを産ませればいいじゃないですか!‥‥そして、自由にさせてください‥」
メリッサはがくりと崩れ落ちて号泣し始めた。
リッチェはメリッサを宥めながらも、感情を見せない目でイズリーシュを見つめて言った。
「申し訳ございませんが本日はメリッサ様のご気分がすぐれないようですので、ご退室いただけませんでしょうか」
イズリーシュは黙って立ち上がり、メリッサに向かって一言、「ごめんね」と呟いて部屋を出た。
イズリーシュは下を向いたままゆっくり自室に向かっていた。
もう何も考えずに寝てしまいたかった。
メリッサの叫ぶような、心を引き裂かれたような声が耳について離れない。
『どうせ、私に断る選択肢なんてないですよね!』
(私にだって、選択肢なんてなかった。生まれた時から帝国の皇太子で、帝国を背負って生きることが決定していたんだ)
『私はその子どもを愛せるかわからない!でも産まなきゃいけないんですよね?!帝国のために!お世継ぎのために!』
(‥‥他に、近い皇族はもういないんだ。‥仕方ないじゃないか‥今さら帝位争いなんてしていたら属国がどう動くかもわからないし、国が乱れてしまう)
『自由にさせてください!』
「私だって自由なんか生まれた時からなかった!!」
イズリーシュは思わずそう叫んでガン!と壁を殴りつけた。加減せずに殴った拳が破れ、血が流れてくる。
イズリーシュは自分の頬が濡れているのに気づいた。破れて血濡れた拳でぐいと拭う。そのまま走って自室に駆け込んだ。
扉を閉めるとそのままずるずると座り込む。
もう、諦めてもいいだろうか。
自分の子を産めるのがメリッサだけだと知っているのは、メリッサとシュウェッテ卿だけだ。
知らぬ顔をしてこのままメリッサを解放し、自分がどこやらの令嬢と結婚すればいい。
子ができずに側室を薦められたりするかもしれないが、その時に適切な人物を選んで養子に迎えればうまくいくのではないか。
だが、その適切な人物がいない。自分とあまり年の変わらない者では意味がないし、帝国皇族の血を引いているのは、大叔父の血筋であるヤルハ大公とその代に他国に降嫁していった姫君の子孫だけだ。実質ヤルハ大公家にしか利用できる人物はいない。現在、ヤルハ大公家で存命なのはイズリーシュの大叔父に当たるヤルハ大公とその夫人、そしてその孫にあたるわずか三歳の公子令息だけなのだ。公子の両親、つまりヤルハ大公の息子夫妻は二年前の大水害に巻き込まれ死亡している。
令息が成長し然るべき妻を娶って大公になったとしても、その子どもがいつできるかも不透明である。
自分の持っているカードはあまりにも少ないのだ。
座り込んで額を手で支えたまま、イズリーシュは深く息を吐いた。
倒れてから回復するまでに触れ合った時のメリッサを思い出す。
頼りなげな顔をしてこちらを見ていた。時折、菓子や本を持っていくと弱々しく微笑んでくれた。その顔を思い出す。
媚びへつらいのない、ただの感情だけがのっているその表情は、イズリーシュに思いがけない安らぎを与えてくれた。たった一人の皇太子として、次代を担わねばならないイズリーシュの心の重しが、あの時はふっと軽くなったような気さえしていた。
何のことはない、自分の重しを彼女に押しつけていたにすぎないのに。
何よりメリッサの言った『私を好きでもない殿下と』という言葉は、鋭い刃となってイズリーシュの胸を深く刺し貫いた。
(私は‥メリッサの事を、好きだと思っていたのだが‥私の態度ではメリッサに伝わらなかったのか‥それとも私のこの気持ちは、いわゆる『愛』ではなかったのか‥それをメリッサは感じていたのだろうか)
イズリーシュはため息をつきながら考える。
いずれにせよ、あれだけあけすけに心情を吐露したメリッサは、もう自分に微笑みかけてはくれないだろう。
それでなくともこのところ、相対するときは、感情の抜け落ちたような顔を見せることが多くなっていたのだ。
そして、そこまであの少女を追い詰めたのは自分なのである。
自分は、あの少女を好ましいと思っていたはずなのに。
イズリーシュはもう一度、深いため息をついて膝に頭をつけ、その膝を固く抱いて身体を小さく縮めた。




