79.生命神
人はそれを、奇跡と言うのだろう。不思議なことにリンファの命はまだ燃え尽きてはいなかった。一人の騎士が彼女のことを身を挺して守ったのだ。
男はその場に倒れ込み、息絶えた。そのおかげでまだ、リンファは生きている。彼が命を賭して未来を繋いでくれたのだ。
それを、無駄にはしたくないとリンファは思う。
だが、現実は非情だ。
「シグ、ルズ」
傷だらけの身体を引き摺って、這って倒れた彼の元に近づく。リンファとて生きてはいるが生きているだけだ。虫の息ともいう。もともと放っておけば勝手に死んでしまうほどにその命は揺らいでいたのだ。
最期のその一瞬ぐらいは、彼に触れて、彼を感じて、彼の手を握りしめて逝きたいのだ。意識の炎が費える。彼の方に手を伸ばす。
指先が彼の肩に触れそうになって、視界が鈍って、暗くなって。触れた指先の感覚はまるで痺れているかのように何も感じなかった。
§
「死んだか」
すでに息絶えた一人の男に手を伸ばすようにして倒れている空色の髪の少女を見下ろしながらヨルムントは呟く。
その最期の様は、誰かが書くような悲劇の恋物語のようだった。自分が手を下さずとも、費える命だったのだろう。騎士が庇ったところで、どうにもならなかったものなのだ。
今となっては、奴がこの少女を庇ったことに憤った自分が馬鹿らしく思えた。
全ての面倒ごとが終わったのだ。どうやら神も疲れるらしい。どかっと尻から地面に座り込むと、鈍色の空を見上げてため息を吐いた。
自分の因縁の全てをこの世界樹から消し去った。樹を枯らす癌を全て除去した。世界樹を管理する神として。唯一神ヨルムントとして。
少しの間、ぼんやりとする。知恵を司る神がこれほどにまで頭を空っぽにしていいのかというところもあるのだが、たまにはいいだろう。咎める者がいるわけでもない。
何を考えるわけでもない。ただただ、曇った空を見上げていた。しかしまあ、何かを考える性分というものは消えないもので、頭の中では既に自分の疑問を自分の中で議論していた。
一体なぜ、混血という存在が生まれてしまったのか。そもそも世界樹はそれぞれの種族が作り上げる世界を観察するための箱庭だ。他種族同士が干渉するように作られているわけではないし、そもそもそういったことが想定されてすらいない。
そのために、この世界樹は九つの階層に分けられているのだ。次の階層に行くのは容易ではない。ともすれば、やはり世界で最初の混血であるリンファの存在が特異点となっているのだ。彼女が存在したことで、その他の混血も存在を許された。世界に許容された。ではその許可を一体誰が出したのか。
世界樹を管理しているのは三柱の神だった。その神の誰かが許可を出したのだ。誰が、なんてものは考えなくても大体分かる。地神フェンルだ。
愛を司っていた彼女以外の二柱に、それを許可する理由が存在しない。
「その推察は間違いだよ、ヨルムントおじさん」
背後からしたその声にヨルムントは目を見開く。ペタペタと裸足で地面を踏みしめる音に、ゆっくりと振り返る。
「初めまして、ヨルムントおじさん」
自分のことを「おじさん」と呼ぶ声の正体は一人の少年だった。新緑色のさらりとした髪を蓄え、色は白い美少年だ。その容姿は、自分の忌み嫌った女神によく似ていた。
「誰だ」
問う。すると少年は不思議そうな顔をして「あれ、分からない?」と首を傾げる。
「この髪色ですぐ分かると思ったんだけど」
そう言って、自分の前髪を縒るようにして弄った。
「……お前はフェンルのなんだ」
わざとらしい仕草にイラつきながらも、冷静に質問を重ねる。その髪色を強調することはつまり、フェンルと何かしらの関係がある存在だ。しかしそれは何だ。そんな存在をヨルムントは知らないし、フェンルから聞かされたこともない。
唯一神であるヨルムントが知らない存在。
「逆におじさんは何だと思う? 考えてごらんよ。考えるの得意でしょ?」
言われ、思考を少しばかり巡らせてみる。フェンルに近しい存在。そんな存在がこの世界樹にいるのか。答えは否だ。彼女はそれこそ天界の外に出た事すらない箱入り娘だ。
だがしかし、彼女との関わりを示唆する存在が目の前に現れた。いったい彼は何者なのか。
「……分からないな。お前という存在に心当たりがない」
言うと、少年は何かがおかしかったのか、小さく笑うと「おじさんって何も知らないんだね」とヨルムントを嘲笑した。
その様子が癇に障ったヨルムントは立ち上がり少年の元まで寄ると胸ぐらを掴んだ。
「調子に乗るなよクソガキ」
「事実を述べただけだよ。おじさんは世界樹を観察しているのに、何も知らない。僕のことを、世界樹第一階層のことを何も知らない」
「世界樹第一階層だと?」
あまり聞き慣れない単語にヨルムントは耳を疑う。第九から第三までは世界樹の枝分かれした上にある世界だが、世界樹第二階層〈死者の国ブラハ〉はまるで異空間、世界樹との繋がりがない。そして世界樹第一階層も、ヨルムントには観測できていない領域だ。いや、第一階層のその不鮮明さは第二階層よりもひどいだろう。
第二階層はまだ、死者の国であるということが周知されている。死んだ者の魂が流れ着く場所が世界樹第二階層だ。それとは違い第一階層はその存在そのものが不明だ。その場所がどのような場所なのか、内側に何があるのか、そもそもどこにあるのかも分からない。ただ分かっているのは名前だけ。
――世界樹第一階層〈ユグドラシル〉。
「初めまして、僕の名前はユグドラシル。世界樹第一階層そのもので、おじさんたちが世界樹の意思と呼んでいる存在だよ。世界そのものであり、始まりの生命。世界樹の苗木が植えられたときに芽生えた知的生命体としての自我。それが僕だ」
胸ぐらを掴まれたまま自己紹介を終えたユグドラシルはにっこりと笑う。つまり、この少年は世界樹そのものということだ。何故容姿がこれほどにまでフェンルと似通っているのかも、その情報で説明がつく。
そもそも世界樹は空神ヘイルが作った空間に地神フェンルが大地を作り植えた苗が成長したものだ。要するに、創世において直接的に世界樹に触れたのはフェンルのみだ。世界樹に意思があるとすると、最初に見た存在がフェンルということになる。そして世界樹は、彼女を母と見たのだろう。まるで鳥の雛が最初に見た動くものを親と認識するように。そうして自我が成長する中で、その容姿も近づいていったのだ。
「なるほど、世界樹第一階層が空間的世界ではなく、単一の概念として存在していたのか。僕のような神と同様に」
ヨルムントの言葉に「そうだよ」と相槌を打つと、苦しいと言わんばかりに胸ぐらを掴み上げるヨルムントの手を指さす。
確かに今の絵面はあまり知性的なものではない。柄にもなく頭に血が上ってしまった。いや、ここしばらくずっとそうだっただろう。すべきことは終わったのだから、少し冷静になるべきかもしれない。
ヨルムントはユグドラシルを地に下ろすと「それで?」と話を続ける。
「さっきお前は僕の推測が間違いだと言ったな? ではお前は答えを知っていると?」
「もちろん」
ユグドラシルが頷く。
「先に答えを言うとね、僕が許可を出したんだ。この世界樹に混血が存在することを」
ヨルムントはなるほどと思う。確かに世界樹そのものの意思がそれを許可したならば、筋は通る。下手をすればこの世界樹で最も決定権を持っているのは間違いなく彼になる。なんせ彼は世界樹の意思。世界そのもの。
「……なぜ、そんなことを?」
「お母さんが望んだんだ。お母さんはそのことを知らないんだけどね。だから僕は許可を出した。お母さんが望むことは何だって叶えてあげたいんだ。それが愛情だろう? もちろん、僕の力も無限じゃないから限りはあるけどね。ああ、お母さんっていうのは地神フェンルのことだよ。おじさんが殺した、愛の女神様」
言って、ユグドラシルはわざとらしく笑みを浮かべた。
この一言でヨルムントは察しがついた。彼はヨルムントの敵だ。右手に持つ炎姿の刀身を持つニーズヘッグを握りしめ、真っ直ぐ素早く、そして正確に彼の胸を貫いた。
「……ああ、本当に愚かだね。邪神ヨルムント」
ユグドラシルは口から血を垂らしながら言う。
「なんとでも言うがいい。世界の管理者は一柱であるべきだ」
「そうかい。でも、時間稼ぎはできたよ」
「時間稼ぎ?」
疑問に思う。直後、背後から淡く温かな光を感じた。振り返る。ヨルムントはその光景に目を丸くした。
「僕がわざわざここに来たのは、お母さんが死んだからなんだ。僕は僕の大切な人を殺す奴を許さない。僕はおじさんを許さない。だから今すぐにでも僕の全てを行使しておじさんを滅ぼしたい。けれどそうしたら僕もおじさんも共倒れだ。世界樹は枯れてなくなってしまう。そうならないように僕は彼女を生かすことにしたんだ。僕の全てを使って。お母さんが全てを託した一人の魔女に、僕もすべてを託す。世界樹は生命の樹。命は、彼女に注ぎ込まれる」
ユグドラシルが微笑む。その視線の先で、ヨルムントが振り向いた先で、空色の髪の少女がゆっくりと瞼を持ち上げる。
「さあ、目を覚まして女神様。愛を忘れなかった君なら、正しく世界を導ける」
ユグドラシルが微笑む。足元から少しずつ崩れるように消えていく。彼の腹部を貫いていたニーズヘッグがヨルムントの腕と共に一緒に垂れた。
そんな彼の視線は瞼を開いた少女に貼り付けになっている。
相変わらずの空色の綺麗な髪。白く透き通るような肌。その肌には先ほどのような痛々しい傷跡は見受けられない。みすぼらしかった白い衣服はどこへ消えたのか、彼女の裸体を覆っているのは白と新緑色で編まれた美しい生地の衣服だった。その至る所に世界樹を彷彿とさせる枝のような装飾と、赤い小さな果実のような宝石が散りばめられている。
開かれた少女の瞳は――いや、生命神リンファの瞳は真っ直ぐにヨルムントを見つめていた。




