78.たとえ愛が死んでしまっても
もっとずっと初めから、こうしておくべきだったのかもしれない。
「世界樹は僕のものだ」
確かめるように呟く。
少し遠くで混血の騎士が倒れている。僅かに動いているあたり、生きてはいるのだろう。ヨルムントにも殺した覚えはない。だが、それほど大きな問題はない。彼はもう、自らの心の剣をとっくに忘れてしまっているのだから。
確実に息の根を止めなければならないのはもう一人の方だ。
歩んだ先で横たわった少女の身体を見る。皮膚は傷だらけ、脛からは僅かに骨が顔を覗かせ、綺麗だった空色の髪は不揃いに乱され、纏う衣服は破れもはや衣服の意味をなさずほとんど裸も同然だった。
なんとも哀れなものだ。
「……う」
その無様な身体が僅かに震える。指先が動き、声にもならない呻き声が空気を震わせた。
「なんだ、まだ生きていたのか」
蔑むような冷めた声を掛ける。少女の閉じていた瞼がゆっくりと開き、ヨルムントを睨みつけた。その瞳は、まだ死んでいなかった。燃えるような意志をヨルムントは感じ取った。
こんな惨めな様を晒しておいて、未だなお生きる意志を持っている。立ち上がろうとする意志を持っている。そのことがひどく気に食わない。
「なんだその目は」
腹を強く蹴りつける。その意志には燃えるような熱さがあったが、実際身体の方はもう限界なのだろう。蹴られた腹部を押さえ、呻き声をあげるだけだ。白い肌はそこら中が傷だらけ、失血もある。立ち上がる方が難しい。
「……苦しいだろう、痛いだろう。今、楽にしてやるさ」
なんと自分は慈悲深いだろうと、リンファの命を握っている自分に酔うヨルムントは思う。
ヨルムントは彼女のことが嫌いだった。彼女の存在自体が憎たらしかった。自分が愛した女性がどこの馬の骨とも知れぬ男と作った子どもが、嫌で嫌で仕方がなかった。都合をつけて処分しようとした。しかしそれは失策に終わり、今こうして目の前に醜態を晒している。このまま暫く――いや、傷を癒しては傷つけ癒しては傷つけを繰り返した方が有効だろう、その傷の痛みと惨めな姿を晒す辱めを続けてやりたいと思った。徹底的に身体と精神を痛めつけてやりたいと思った。
だがヨルムントは、知恵を司る神だ。知を持つ者はそんな獣のようなことはしない。だから殺して楽にしてやるのだ。
「さよならだ、僕の罪、僕の後悔、僕の思い出」
そう言ってヨルムントはニーズヘッグをリンファに向けて振り下ろす。
鮮やかなまでの真紅の花がその場所に咲き誇った。
§
全身が焼けるように痛い。
自分の視界が霞み、命がそう長くはないことをリンファは悟っていた。よくよく考えればあれだけの攻撃を受けて今なお生きていることが奇跡のようだ。そしてこういうときに限って、自分の持つ竜の権能は未来なんてものを見せてはくれなかった。
「世界樹は僕のものだ」と声がした。自分を痛めつけた邪神の声だ。こいつだけは、この男だけはどうにかしなければならないと、リンファの胸の内が必死に訴える。立ち上がれ、立って戦えと。自分の抱える愛という感情がどれだけ美しいものなのか、どれだけ温かいものなのか、この冷たい男に知らしめねばと。
だが、リンファの身体は言うことを聞かない。傷だらけの身体、流れ出る血、朦朧とする意識。声とも言えないような音を、喉を震わせて出すぐらしかできなかった。
少しずつ意識が遠のく。
「なんだ、まだ生きていたのか」
再び聞こえた男の声は自分に語りかけるような声だった。その声に、飛びそうな意識が揺り戻される。僅かな力でゆっくりと瞼を開くと、霞む視界の向こうにいる男を睨みつけた。
「なんだその目は」
言葉の直後、鈍痛が腹部に響く。痛みに悶え、腹を押さえる。
「苦しいだろう、痛いだろう。今、楽にしてやるさ」
男のその言葉が意味するところはつまり、この後自分の命が故意的に奪われるということだ。このまま苦しさと共に衰弱するわけではなく、命を奪うと、そういう事なのだ。
「さよならだ、僕の罪、僕の後悔、僕の思い出」
この後自分の命は途絶えるのだ。邪神には何も敵わなかった。
――。
――――。
音が聞こえた。なにか鋭い刃物で肉を断つかのような。なにか液体がはじけ飛ぶような。何かが、何かがおかしい。なぜ自分は、リンファという死に損ないはまだ意識を保っているのか。
「シグ、ルズ……?」
瞼を持ち上げた先、ぼやけた視界の中には自分の愛した男の顔があった。シグルズ・ブラッド。リンファを閉じた世界から連れ出してくれた男。守ると誓ってくれた男。自分が愛した男。
シグルズは背をヨルムントの側に向け、リンファに覆いかぶさるように膝立ちしていた。背筋を伝ってか、彼の足元には滝のように赤い血が滴っている。
「――無事、か?」
口から血を吐きながらシグルズが言う。
「……ええ、ええ。何とか、今のところは」
無事かどうかと聞かれれば全くもって無事ではない。リンファ自身もギリギリ意識を保っている状態だ。だが、死という局面だけは回避できた。この男のおかげで。この男の、死を代償に。
「何故だ」
ヨルムントが驚いたような声を上げる。
「何故だ、何故だ何故だ何故だ! なぜお前が!! そんな行動をとれるんだ!!」
そう言って、ニーズヘッグを握りしめてとどめを刺すようにシグルズの心臓を背からひと突き。音もなくシグルズはそのまま横倒れになった。
「どうして愛を忘れた奴がそんな風に誰かを守る行動ができる!? どうして立ち上がれる!?」
ヨルムントは激昂していた。忌み嫌う感情が邪魔をした。その事実がヨルムントを酷く苛立たせていたのだ。
理由を答える者はいない。シグルズ・ブラッドは既に静かに息絶えていた。
§
気がついたとき、シグルズ・ブラッドは暗闇にいた。周囲を見渡し、どこかに既視感を覚える。
この暗闇は、世界樹第二階層〈死者の国ブラハ〉だ。それが意味するところはつまり、シグルズ・ブラッドという英雄の成り損ないが死んだということだ。最後に、愛するものを守って。
あの行動は反射的なものだった。シグルズ自身、あの瞬間自分が何をしているのか分からなかった。なにが疲れ果てた足を動かし、彼女を守らせたのか。
答えは至極単純だった。愛していたのだ。リンファという少女のことを心の底から想っていたのだ。
その感情は本来、地神フェンルが死んだときに消えるものであるはずだった。もちろんシグルズの心からも消えたはずだったのだ。そう考えるとシグルズの行動は矛盾している。愛を忘れたはずなのに愛に突き動かされ行動したこの男にとっての愛は、一体どこから湧いて出たのか。
思い出したわけではないのだ。忘れた愛を、拾い直したわけではないのだ。そんな奇跡のようなことは起きたりはしない。神の力というのはそれほどにまで絶大なのだから。
では一体何だったのか。どうしてシグルズ・ブラッドの心にはあの瞬間、リンファを庇ったあの時に愛が存在していたのか。
愛を忘れたからといって記憶が消えるわけではない。シグルズには幼少期に両親を殺された記憶も、騎士団に入った記憶も、彼女と対峙し刃を交えた記憶も、彼女と逃げ出した記憶も、第三階層で起きたことの記憶も、アーガルズ国王を討った記憶も、エルマが死んだ記憶も、全て残っている。
一人項垂れる中、シグルズはそんな記憶の断片――走馬灯を見た。記憶の中の彼女は態度がきつくて意地っ張りで、それでも心の弱さを持ち合わせ、どこか儚げで、どうしようもなく愛おしい。
男は愛を思い出したわけではない。愛を忘れてなお、愛を知ったのだ。彼女に生きてほしい。生きてほしいから。生きてほしいから自分の命を賭してまで救いたいと思うのだ。
「先輩、なんでまた来ちゃったんですか?」
聞き馴染みのある声がする。振り返ると、暗闇の中で手燭の炎に照らされた後輩の顔が浮かんでいた。どこか怒っているように見えた。
「ああ、まあ、お前が俺を生かしてくれたのとほとんど同じ理由だよ」
そんな風に言ってお道化てみせる。しかし仏頂面の後輩はそんな回答をお望みではなかったらしく、変わらない表情でシグルズに無言の圧力をかけた。
それに気圧され、シグルズは自分の心中を言葉に表す。
「俺は、リンファのことが好きなんだ。愛しているんだ。だから彼女に生きてほしい。絶対に死んでほしくはない。だから俺は、彼女に振るわれた刃を受け止めたんだ」
馬鹿正直にそんなことを言う。恥ずかしい台詞だと思う。けれど後輩はそれを聞いて笑った。
「バカですね。私も、先輩も」
「そう、だな。愛は人を馬鹿にするのかもしれないな」
言いながら男も笑った。




