77.唯一神
全能感。今の自分の状態を表す言葉があるならば、それがぴったりだろうと竜神ヨルムントは思った。
「ああ、ああ……」
恍惚とした感情。今の自分になら何でもできる、そんな気がしていた。
愛の女神を殺し、手に握る炎姿の剣、ニーズヘッグに空神ヘイルを喰わせた。つまるところ、創世三神のうち二柱が既にこの世に存在しないのだ。
竜神ヨルムントが唯一神であることに、一人愉悦に浸っていた。残る邪魔者は二人だけだ。神を殺す力を持つ混血。竜の魔女と混血の騎士。彼らを殺せば、世界樹の癌はこの世から完全に消え去るのだ。
ニーズヘッグの切先をリンファに向ける。彼女の空色の美しい髪が、ニーズヘッグの鮮やかな赤い刀身を際立たせていた。
標的が自分に移ったことを察したのか、リンファは聖剣フロティールを正面に構えシグルズの前に立つような形で一歩後ずさった。
「……リンファ?」
シグルズが不思議そうな声を上げる。それもそうだ。愛の女神が死したことで人々は愛を忘れてしまったのだから。彼にはリンファの行動の理由が、真意が分からないのだ。
「後はお前たちだけなんだよ、混血。お前たちを殺せば、世界樹は元通りになる」
「それは違うわ。フェンルを殺しておいて元通りですって? むしろあなたは世界樹を壊そうとしているようにしか思えないけど。それに、空神ヘイルも殺した」
「殺してはいないよ。あくまでヘイルは〝取り込んだ〟形だ。フェンルのように司っていたものがこの世から消え去るわけじゃない。僕が世界樹の監視者として、ヘイルの代わりとして自由と安らぎのために動こうというだけだ」
そんなことを言うヨルムントをリンファが睨みつける。
「傲慢だわ」
「傲慢かもね」
ほくそ笑む。リンファに真っ直ぐ向けた剣を下ろすと、少しずつ彼女に歩み寄る。
「傲慢だけど、これが最適解なんだ。管理者は三柱もいらない。一人で管理する方が間違いは起きない」
歩調を少しずつ早める。一歩の歩幅を大きくする。そうして走り込むようにしてリンファの元まで近づく。
「だから僕という唯一神のもと、お前たち混血という存在を許さない」
静かに囁くと、炎姿の刀身を下段から振り上げた。
「……っ」
さすが、といったところだろう。刀身がさらに赤く塗れるようなことにはならず、剣先は空を斬った。咄嗟にリンファが縦に構えたフロティールで受け流したのだ。それを軸にして距離を取るようにして跳び退る。
しかし、彼女が距離を取ったことでヨルムントの前には今、混血の騎士がいる。騎士はどこか戸惑いを隠せない表情をしながらも、自らの防衛本能故か自身の握る槍を綺麗な格好で構えていた。
「いいのか? このままだと僕はお前の愛しの騎士様を殺すぞ?」
「……彼は強いわ」
リンファの反応に、確かにそうだろうとヨルムントは思う。彼の強さは、ヨルムント自身も身をもって理解していた。だがそれは、少し前までの彼の話だ。
「だったら、試してみようじゃないか」
ヨルムントは剣を強く握り、振り上げた。反射的に腰を落としたシグルズは今目の前に振り下ろされんとする炎姿の刀身を迎え撃つために槍を頭上に構える。
直後、振り下ろされた剣が構えられた槍柄に衝突する。キン、と甲高い音と共に僅かな火花が散る。
ヨルムントの剣を直上に跳ね除けると、シグルズはそのまま後退し距離を取ろうとした。だが、獲物を狙う蛇の如く執拗に迫る炎姿の刀身がシグルズの頬を掠める。
「……っ!」
これがまともな攻防ならばどれほど良かったことか。シグルズの槍は流星のように空を斬り流れることも、獲物を斬ろうとすることもしなかった。ただひたすら、自分に打ち込まれる燃えるほどの殺意を払い除け、受け流し、守りに徹しているだけだった。
「どうした! 混血の騎士!! お前の殺意はどうした!! お前の復讐心はどうした!! そんなことでは押し負けるぞ!!」
ヨルムントは笑いながら挑発をした。その挑発にシグルズが乗るはずがないことを分かった上で。力を出し惜しみしている――いや、出し切れずにいるシグルズを煽った。
「シグルズ!」
その無様な有様を見かねてか、リンファが加勢しようとする。竜の権能、その力の一端である翼と爪を生やしながら、とてつもない速さでヨルムントを討つべく空を駆ける。
「ニーズヘッグ! 喰い殺せ!!」
炎姿に宿る邪竜を呼び起こす。
ニーズヘッグには明確な形があるわけではない。鱗のようなものが集合してできた、いわば群れのようなものだ。その存在は守護竜ファフニールに大きく劣る。ニーズヘッグはファフニールの紛い物でしかないのだ。だがそれは竜の魔女も同じことだ。権能でしか力を発揮できない。本物の守護竜は既にこの世にいないのだ。
姿を現したニーズヘッグが獲物である空色の髪の少女に向かって一直線に飛ぶ。
「そこを退いてッ!!」
竜と化したリンファの左腕がニーズヘッグの頭にあたる部分を切り裂いた。幾らかの鱗がぽろぽろと零れるように下に落ちる。ただそれだけ。
鱗は鋭く、それでいて硬い。正面からぶつかれば身体が細切れにされるのは明白だ。
リンファは翼を一度羽ばたかせ、身体を翻し直撃を免れる。動きの速さで言ってしまえば、リンファはニーズヘッグより上回っていた。自らの背から生えている両翼を完全に使いこなしているのだ。ニーズヘッグが視界の端で苦戦しているのが目に入ったのだろう。ヨルムントは静かに「囲め」と指示を出した。
ただひたすらに直線的な動きしかしてこなかったニーズヘッグの動きが変わる。うねりうねりと本物の蛇のように身体を捩らせリンファの周りで蜷局を巻く。
一気に周囲の光が遮られ、リンファは翼を羽ばたかせ続けその場に静止した。
周囲はすでに鱗が囲む牢獄のようになっていた。唯一の穴は蜷局が巻かれる頂上のみ。リンファは一度大きく羽を動かすと、一直線に真上を目指す。
少しずつ空が閉じていく。全速力で向かうにも、現実はそれほど優しいものではなかった。暗闇が、リンファを支配した。
ニーズヘッグは明確な形を持たない。
「そのまま刻んでやれ! ニーズヘッグ!!」
ヨルムントが叫んだ。
ニーズヘッグはそのまま萎むようにして互いに鱗を寄せ合う。当然、内側にできた空間は狭まっていく。最後には、鋭く硬い鱗刃がその空間を飲み込むだろう。
結果が容易に想像できたヨルムントはニヤリと笑った。相対する騎士も、どうやらそろそろ限界を迎えるらしい。ギリギリのところで攻撃を躱せてはいるようだが、各所にできた小さな傷は初めから形だけだった戦意を事も無げに切り刻んだだろう。
特に力を込めたわけでもない一撃。その一撃が、槍の柄で攻撃を受け止めたシグルズを大きく吹き飛ばした。槍は手を離れ宙を舞い、柔らかな腐葉土の上に突き刺さる。大地に打ちつけられ転がる騎士は身体を泥に塗れさせた。
「愛を忘れた人間はこれほどにまで弱いんだね」
呟き、上を見上げる。ニーズヘッグが内側の空間を飲み込んだのだろう。球状に塊を作ったニーズヘッグからはぽたりぽたりと鮮血が零れていた。
混血の騎士が再び立ち上がることはないだろう。竜の魔女もきっと死んでいるだろう。その事実がヨルムントの胸を躍らせた。腹の底から笑い声が込み上げてくる。
もう何も邪魔をしてくるものはいないのだ。
「世界樹は、僕のものだ!」
世界樹の一番上である第九階層で高笑いが響いた。




